20話
「どうぞご自由にお読みください」
村長は障子を静かに閉めて部屋を出ていった。残されたのは、彼が手渡してくれた一冊の本――往来物という代物だった。
手紙の書き方や商業の基礎、歴史や地理、道徳といった基礎教養が綴られている、実務にも教育にも使われる本らしい。
「教科書みたいな感じなのかな?」
「そうかもしれません。さっそく開いてみましょう」
室内は静かで、障子越しに差し込む陽の光が壁を金色に照らしていた。静かで落ち着いた雰囲気のなか、アイちゃんの声だけが明るく響いた。
古びた、青というより灰がかった表紙。思ったよりも軽いのは、紙質のせいか。
胸の奥に微かな不安を覚えつつも、ページを開いた瞬間、その不安は確信へと変わった。
「……無理だ」
かろうじて知っている漢字がちらほらあるものの、それさえも崩し字で判読困難。もはや暗号だった。
「ご主人様、次のページをめくってください」
「………まさかだけど、アイちゃん、これ読めたりするの?」
「読めません」
即答されたことに、なぜかほっとした。
「そうだよね……」
「ですが、撮影することは出来ますので、保存しておきましょう」
「さすがだね」
「……本当は少し悔しいんです」
「悔しい?」
「もし日本にいるときの私でしたら、草書の解読も可能でした。ですが今は、インターネットに接続されていませんから……」
窓の外では、風に揺れる木の葉が、カサカサと音を立てていた。
「だったら、頑張ってレベルアップしようよ」
「レベルアップ?」
「それがきっかけでインターネットに接続されるかもしれないじゃないか」
「……そんなことが可能なんでしょうか?」
「わからないけど、やる価値はあると思うよ。それに、インターネットが無くてもアイちゃんが僕にとって大事なパートナーってことは変わらないから」
「……あ、ありがとうございます」
アイちゃんの、少し照れたような声音が耳に心地よかった。
(もし可能なら神様、どうか彼女の願いを叶えてあげてください)
「――もう一つ方法がありました」
「なに?」
この言い方は、だいたい良くない展開の前触れだ。
「ご主人様が猛勉強して、草書を読み書きできるようになれば良いんです。一番現実的ですし、理にかなっています」
「ちっちっちっ、それは出来ない相談だね」
「どうしてでしょう」
「僕の学生時代の成績、覚えてないの?」
「はっきり覚えています。地面スレスレの超低空飛行でした」
「そういうこと」
「そういうこと、ではありません。頑張ればきっとできるようになります。時間がかかってもいいんです」
「だったらアイちゃんが覚えてよ、その方が早いし、絶対に良い」
「私は世界一優秀なAIアシスタントですからそれは可能です。しかしそれだとご主人様の成長の機会が――」
「僕の成長とかいいんだよ。とにかく、文字を読んだり書いたりできることが大事なんだから」
「読むことはできますが、私は文字を書くことができませんよ」
「言われてみれば……そうか」
「ですからやはり、ここはご主人様に覚えていただくのが最善なのです」
「……」
「そうですよね、ご主人様?」
「まあ、読み書きできなくても死ぬわけじゃないから……」
「何を言っているんですか!」
ふたりの声か風の影響か、掛け軸が少しだけ揺れた。この客室が作られて以来、今日がもっとも賑やかな一日であることは間違いなかった。
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