第31話 ITHRuaKHa
「いけま……セン……」
脇差の切っ先は、勘吾の腹を薄皮一枚切ったところで止まっていた。
しかし、その刀身には赤い血が滴っていた。
アーシアの繊手が刀身を握りしめ、刃を止めていたのだ。
「あ……姐さん……」
「いけマセン……。カンゴ様は、そんなことをなさらなくても魔物になんて負けないはずデス……!」
勘吾は脇差を手放すと、ゆらりと立ち上がってふらふら後ずさった。
そして両の拳で滅茶苦茶に自分の顔面を殴りつける。
かと思えば片方の腕がそれを止める。
今度はもんどり打って自分の額を氷に叩きつけ始める。
「このっ……馬鹿が! 出てけっ! 出ていけっ!! 」
顔面はすでに腫れ上がり、血まみれになっていた。
唇がざっくり割れて、口からも粘った血が滴っている。
「カンゴ様っ! 落ち着いてくだサイ!」
アーシアが叫ぶが、その手は脇差の刃を握ったままだ。
よほど強く握りしめたのだろう、関節が固まって指が離れないのだ。
鮮血が刀身を伝い、ぽたぽたと氷上に垂れる。
仄青い氷が、ぼうっと光を強めた。
アーシアの足元の血溜まりが氷に吸い込まれるようにかき消える。
震動。氷湖がぶるぶると細かく震えていた。
――IiiiTHRuaKHaaaAAA!!!!
沖田の背にのしかかっていたウェンディゴが奇声と共に飛び退いた。
明らかにこれまでとは違う鳴き声だった。
怯えと歓喜が入り混じったような、興奮しきった叫び声。
両手を氷上に放り出し、土下座のような姿勢を取る。
他のウェンディゴたちも同様だ。
一様に両膝をつき、両手を前方に放ってひれ伏している。
「てめえら! 何をしてやがる! 沖田をぶっ殺せ! うわっ!?」
思い通りにならない状況に新見が地団駄を踏み、足を滑らせて転倒する。
「な、何だこりゃ!? なんで揺れてやがる!?」
大きくなった震動に足を取られたのだ。
もはや震動という域ではない。
立っていられないほどの激しい揺れに変わっていた。
「うぁぁぁあああ!!」
「勘吾っ!?」「カンゴ様っ!?」
勘吾の身にもまた異変が生じていた。
目から、鼻から、耳から、口から、青い靄が立ち上って抜けていく。
靄は鳥に似た姿を取り、アーシアを中心としてぐるぐると旋回した。
「くっ、近寄るな!」
なんとか立ち上がった沖田が加州清光で青い靄を牽制するが、当然のようにすり抜ける。靄は沖田の剣を意に介する様子もなく旋回を続けていた。
その間も地揺れは大きくなっていた。
青い光も眩しいほどに強くなっていた。
ばきばきと木が裂けるような音が響いた。
氷湖に幾筋ものひびが走り、氷が爆ぜて砕ける。
――IiiiTHRuaKHaaaAAA!!!!
――IiiiTHRuaKHaaaAAA!!!!
――IiiiTHRuaKHaaaAAA!!!!
――IiiiTHRuaKHaaaAAA!!!!
――IiiiTHRuaKHaaaAAA!!!!
ウェンディゴが一斉に叫ぶ。
ごうんと一際大きな衝撃が走った。
青い閃光が一瞬辺りを塗りつぶした。
氷湖が砕け、湖底から巨大なものがせり上がってくる。
それは、巨大な異形だった。
それは、大まかには人型だった。
それは、背に十二枚の羽を持っていた。
それは、爛れた烏のような顔を持っていた。
鱗に覆われた細い腕――巨大な体に比してのことだ。腕そのものは巨木の如き太さがある――が伸び、鉤爪を備えた指がアーシアを掴んだ。
「きゃあっ!?」
「アーシア!!」
すべてを吹き飛ばしそうなほどの颶風が吹き荒れる。
沖田は砕けた氷の隙間に加州清光を突き立てて堪える。
「アーシア! アーシア!!」
「ソージ様!!」
異形の巨体が羽ばたいていた。
二度、三度、四度――羽ばたくたびに巨体が浮き上がっていく。
その手にはアーシアの小さな体が捕らえられたままだ。
巨体が吠えた。
名状しがたい邪な声が耳をつんざく。
続けて鈍い地響きがした。
ばらばらと大小の岩が降ってくる。
巨体が地底湖の天井に衝突したのだ。
巨体がなおも吠える。
巨大な翼がさらに大きく羽ばたいた。
降り注ぐ土砂の量が増えていく。
巨体は大地を割って地上に向けて飛び立とうとしていた。
「待てっ!!」
沖田は巨体に飛びついた。
飛びついた先は長大な尾。
孔雀のそれのように無数の目玉模様がついた尾に、抜き身の加州清光を咥えてしがみついた。
「うおおおおっ!!」
巨体が羽ばたくたび、尻尾が激しく揺れる。
振り落とされないよう満身の力を込めてしがみつく。
巨体の羽毛は針金のように硬く、沖田の身体に容赦なく食い込む。
降り注ぐ土砂が沖田の身体を容赦なく打ち据える。
しかし沖田は、歯を食いしばって怪物の尾から手を離さない。
――SPGHRRRRRRRRRRRRRRRRRR!!!!
巨体が長々と吠えた。
視界が一気に明るくなる。
粉雪が吹き付けてくる。
ちらと下を見ると、陥没し、崩れ落ちた山が見える。
雪をかぶった山並みがぐんぐん遠ざかっている。
ついに山を貫いて地上に飛び立ったのだ。
そして凄まじい勢いで天に向かって飛翔している。
「大丈夫か! アーシア!!」
「ハイっ! でもソージ様ガ!!」
「俺は心配要らない! 必ず助けるからな!!」
沖田は風に負けぬよう精一杯の大声を張り上げた。
アーシアは巨体の腕に掴まれたまま、やはり大声で応える。
握り潰されてしまわないかと心配だったが、この巨大な魔物も生け捕りが目的らしい。
新見の反応を鑑みるに、坂本龍馬とは無関係の怪異だと思われた。
しかし、
「正体が何であれ、斬るほかに答えはない!」
沖田はそう吐き捨てると、激しく揺さぶられながらも敢然と巨体の尾を登り始めた。




