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第15話 蝕餬蚣(ショゴス)

「ネクロノミコンってのは厄介な代物(しろもん)でな。普通の人間にゃ読むどころか見ることも触れることも許されねえ」


 常人がネクロノミコンに触れれば狂気に蝕まれるという。しかし、アーシアはネクロノミコンに触れても正気を保てる。そこまでは沖田も慶喜から聞いて承知していた。


「そのうえ魔術の行使には代償が求められる。蝕餬蚣(ショゴス)をたった七匹使役するだけでこのザマだぜ」


 新見(しんみ)頬被(ほおかむり)を取る。あらわになった顔面に、沖田は息を呑んだ。

 新見の鼠と混ざった頭部が、右目から側頭部までごっそり消失していたのだ。切り口は磨いたようになめらかで、脳や血管の断面がくっきり見える。しかし、血の一滴もこぼれていない。まるで柔らかい豆腐を(さじ)(すく)ったようだった。


「ところが贄の聖女様なら血の一滴で千万(せんまん)の大群を創り出せる。日本の夜明けも一気に近づくってェわけよ」


 新見は「きひひ」と黄ばんだ齧歯(げっし)を剥き、短刀の先でアーシアの喉をなぞる。白い肌に赤い線が薄っすら走り、血の玉が浮いた。


「その大事な大事な聖女様を、沖田ァ、てめえはのこのこ差し出しに来てくれたんだよ。ひひっ、助かったぜえ」

「何だと……!」


 アーシアが狙われるのは、ネクロノミコンの探知能力を警戒されてのことだと思い込んでいた。まさかそんな秘密があったとは。アーシアを連れ出したのは迂闊(うかつ)だったと沖田は歯噛みする。


「さて、ネタばらしもここまでだ。てめぇはどう嬲り殺してやろうか。まずは右目をえぐり出して俺とお揃いにしてやろうかねェ。それから生爪を一枚一枚剥がしてやって……」


 新見は短刀を沖田に向け、切っ先で全身をねぶるように指し示していく。その恍惚とした表情に、沖田の背筋を悪寒が走る。


「させマセンっ!」

「ぎゃっ!」


 新見の悲鳴。アーシアは身を捩って新見の腕から逃れる。その手には血に濡れたかんざしが握られていた。それで新見の手を突いて脱出したのだ。


「このクソアマっ!」


 新見が振り回す短刀を、アーシアは必死に避ける。かつらが外れ、引っ詰めていた金髪がほどけて振り乱される。新見の剣の腕は三流以下だが、男と女。短刀とかんざしでは勝負にならない。


「アーシア、逃げろっ!」

「いいえ、逃げマセン!」


 沖田の叫びに、アーシアも叫んで答える。かんざしを逆手に構え、正面から新見をにらみつけていた。


「このアマ……俺になら勝てるとでも思ってやがんのか!」

「ええ、あなたのような卑怯者には負けマセン!」

「ふざけやがって!」


 激昂した新見がアーシアに向かって突進する。所詮はかんざしだ。刺されたところで深手はない。捕まえてしまえばどうとでもなる。反撃覚悟の一手だった。


「これでも食らいなサイ!」


 アーシアの手からかんざしが放たれた。新見はびくりと足を止めるが、しかしそれは新見の身体を大きく外して明後日の方向に飛んでいく。


「ひゃーはっはっ! トーシローが! どこに投げてやがる!」


 新見が嘲笑う。しかし、その背中から声をかける者があった。


「いや、狙いは完璧だったよ」

「何を言って……があっ!?」


 新見の胸から白刃が生えていた。反りの浅い直刃(すぐは)は沖田の愛刀、加州清光。それが背中から新見を貫いていたのだ。


「て、てめえ……どうやって……」


 新見が振り返ると、右手が自由になった沖田がいた。新見に刺さった加州清光は、残りの身を蝕餬蚣(ショゴス)に囚われながら沖田が投げたものだった。

 沖田は脇差しを抜き、残った蝕餬蚣(ショゴス)も切り刻んで自由の身になる。


「えへへ、狙い通りデシタ」

「手裏剣の心得があるとは驚いたな」

「修道院ではダーツチャンピオンだったんデスヨ!」


 ふんすと胸を張るアーシアの視線の先には、蝕餬蚣(ショゴス)に刺さったかんざしがあった。この一撃で蝕餬蚣(ショゴス)をひるませ、沖田の拘束を緩めたのだ。


「まさか、蝕餬蚣(ショゴス)があんなかんざし一本で……」


 新見は一歩、二歩と後退りをして沖田から遠ざかろうとするが、沖田は脇差しを構えて無造作に追い詰めていく。


「だっ、だが蝕餬蚣(ショゴス)はこんなもんじゃねえ! もうかまやしねえ! ぶっ殺しちまえ!」


 切り刻まれた肉片がうぞりと動き、団子のようにひとつに固まった。蚯蚓(みみず)が絡まり合ったようなそれには無数の目玉がでたらめに埋まっている。

 肉塊はぶるりと身を震わせると、「テケリ・リ」という奇妙な鳴き声とともに四方八方へ触手を伸ばす。触手が唸りを上げ、屋根瓦を砕き、地面を弾けさせ、木々の枝をへし折り、そして沖田に殺到する。


「バラバラにしても死なないのか。やっぱり化け物は面倒だな」


 しかし、蝕餬蚣(ショゴス)の攻撃はどれひとつ沖田に届くことはなかった。右手に握った脇差一本ですべての触手を斬って落としていたのだ。


「ソージ様、目玉デス! 瑪瑙色の目玉が蝕餬蚣(ショゴス)の魔核デス!」


 魔核――そういえば芹沢を斃したときにも言っていた。それが化け物の急所なのだろう。

 沖田は触手を斬り落としながら肉塊に向けて歩を進める。肉塊の本体には数え切れぬほどの目玉が埋まっているが、大半は灰色に濁っているだけだ。瑪瑙色に怪しく輝く目玉は七つ。ひとつはアーシアのかんざしに貫かれて輝きを失いかけている。


「こいつを斬ればいいのかな?」


 剣閃が縦横無尽に走る。次の刹那には残った六つの目が真ん中から断ち割られていた。四方八方に伸びていた触手の動きが止まり、枯死した(かずら)のように乾き、砕け、崩れ落ちていく。本体の肉塊もぶすぶすと緑色の煙を上げて急速に形を失っていった。


「さて、頼みの綱の化け物も片付けた。今度こそ覚悟してもらうぞ、新見」

「ひ、ひぃぃ。何なんだ! 何なんだよてめぇは!」


 迫る沖田に、新見は尻餅をついてずるずると後ずさる。


「な、なあ頼むよ! 命だけは助けてくれよぉ! 一度は同じ釜のメシを食った同志じゃねえか。な、なあ!」

「ああ、まだ命は取らないよ」


 剣閃が走り、新見の身体が腹から横一文字に両断される。


「ひでえ、ひでえよう……」


 上半身だけになった新見は(はらわた)を引きずりながら這うが、胸に刺さった加州清光が邪魔でほとんどその場で腕をばたつかせるだけになっていた。


「まだどんな悪さをするかわからないからな。両腕も落としておくか。アーシア、念のため新見の魔核を教えてくれる?」

「ハイ、いま気配を探り――」


 瞬間、颶風(ぐふう)が吹き下ろした。

 巻き起こった土埃に視界が一瞬塞がれる。

 そして、頭上から新見の声が響いた。


「ぎゃはははは! 相変わらず詰めが甘ぇなあ、沖田ァ! 今日のは借りだ! のしつけて返してやるから首ィ洗って待ってやがれ!」


 見上げると、蝙蝠の羽を持つ緑錆(ろくしょう)色の怪鳥――シャンタク鳥の鉤爪に掴まれ空を舞う新見の下半身があった。上半身の方は相変わらず地面でもがいているが、その動きは死にかけの昆虫のようで意思が宿っているようには感じられない。


「ひょっとして、新見の魔核って……」

「は、はい……お尻にあったみたいデス……」


 空の彼方に飛び去るシャンタク鳥を睨みながら、アーシアは悔しげに唇を噛んだ。辺りに満ちた瘴気のために感覚が狂わされ、新見の魔核を探るのに手間取ってしまったのだ。


 一方、沖田の脳裏には、「あれは一体どこから声を出してるんだろう」と素朴な疑問が浮かんでいたが、考えても愉快なことにはならなそうだと頭を振ってその考えを追い出した。

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