第11話 相撲
西本願寺は怪我人の呻き声や、子どもたちの泣き声で溢れていた。
洛中屈指の規模を誇るこの寺は、ディープワンの襲撃に遭った人々の救護所として急遽徴用されていたのだ。現場からここまでは多少距離があるが、広い敷地を持つことと、現場に近すぎると不安を感じさせてしまうためという判断だった。
「お湯と新しい包帯をお願いしマス!」
書院にはとくに重症のものが担ぎ込まれていた。三百畳を超える広さの板間に布団や筵が並べられ、寝かされた怪我人たちが苦痛の声を上げている。
数え切れぬ患者の合間を縫って、舞妓姿のアーシアが奔走していた。振り袖をたすき掛けにし、流れる汗もそのままに忙しく駆け回っている。
教会で医術の基礎を学んでいたそうで、てきぱきと手当を済ませていく。至急に集められた町医者たちから見てもアーシアの働きには目を見張る物があった。傷口を縫合する手際も見事なもので、こんなときでなければ手技を見学したいと思うほどだった。
「腕にこんな怪我をしてしまいよって、仕事は続けられるんやろか……」
「大丈夫デス。腱や太い筋肉には傷がついていまセン。しばらく安静にすればまた自由に動かせるようになりマスヨ」
と優しく声をかけたかと思えば、
「痛え……痛えよう……俺死んじまうのかなあ……」
「死にまセン! これくらいで何を言ってるんデスカ!」
今度は叱りつけんばかりに力強く励ます。
アーシアに言葉をかけられた患者は、皆一様に安堵の表情を浮かべている。
「なるほど、本当に尼さんなんだな」
その様子を見ていた沖田が呟く。
沖田は伴天連の教えなど知らない。禁止されているくらいだから何か邪悪な教えでもあるのかもしれないとすらぼんやり想像していた。しかし、怪我人のために走り回るアーシアを見てそんな考えは完全になくなった。仏教や神道と形こそ異なるが、伴天連にも慈悲の教えがあるのだろう。
そういえば、姉のみつも傷の手当は得意だった。
稽古で怪我をした沖田だけではなく、時には試衛館の道場まで赴いて門人たちの手当をしていた。というか、後者の方が多かった。沖田の稽古は烈しく、沖田が稽古をつける日は怪我人が耐えないのだ。「もう少し加減を知りなさい」と小言を言われたのは一度や二度ではない。
「なんだおめぇ、アーシアちゃんに惚れたのか?」
「なっ!? 何を言って!?」
背中から声をかけられ、沖田は飛び上がりそうになった。
振り返るとそこには顎をさすりながらにやにや笑う土方歳三が立っていた。
「舞妓姿がよく似合ってるじゃねえか。アレは総司、おめぇの趣味か?」
「違いますよ! 菱屋さんの悪戯です!」
「へえ、悪戯ねえ」
沖田は思わず大声を出すが、土方はにやにや笑ったまま取り合わない。
沖田は「はあ」とため息をついて文句を言う。
「トシさんが一緒に来てくれないからいけないんですよ。僕……俺はああいう店に慣れてないんですから」
「ああいう店ってなあ。おめぇだって着物ぐらいは仕立て……仕立ててねえな。隊服以外は江戸から持ってきたもんばっかりじゃねえか」
「俺は姉さんに借金がありますから」
「ああ、それか」
土方の視線が沖田の腰のものに向いていた。
加州清光は沖田が浪士隊に加わり、江戸を発つ際に手に入れたものだ。その時、姉のみつかが百両もの大金を用立ててくれている。無論貸したつもりなどなく餞別なのだが、沖田としてはきちんと返済し、さらには出世して恩に報いたかった。
「研ぎには出さなくて大丈夫なのか? あの化け物は斬りづらかった。平隊士の連中にゃ曲げたり折ったりしたやつが随分いるぜ」
「そんなヘマはしませんよ」
「見せてみろ」
沖田は加州清光を鞘ごと土方に渡した。
土方は鞘から刃を抜き放ち、日に透かすようにしてじっくりと見定める。
「へっ、相変わらず大したもんだ。曲がりも刃こぼれもしてねえ」
「ほら、言った通りでしょ」
沖田が得意げに鼻を鳴らすと、土方はさらに続けた。
「そのおめぇさんが随分と手こずってたみてぇだが、あの洋装野郎は何者だったんだ?」
「……以蔵と名乗っていました」
龍尾剣、三段突きと天然理心流の奥義を立て続けに見切った男の顔を思い出し、沖田は一瞬言葉に詰まった。
「以蔵、以蔵、以蔵……聞いた覚えがねえな。あとで監察に調べさせるか」
「ええ、そのつもりです」
頷く沖田を、土方が不意に真剣な目で見つめる。
「次は斬れるのか?」
斬れる、と答えたいが沖田は言葉が発せなかった。
あの男を斬った自分の姿がどうしても想像できなかったのだ。
「……相討ちにはします」
やっとのことで絞り出したのは、こんな言葉だった。
土方は黙って沖田の肩に手を置く。だが、沖田はそれ以上何も言えないでいた。
そして、土方の手は沖田の奥襟を掴み、ぐいと引っ張って庭に向かって投げ飛ばした。
「ちょっ、何するんですかトシさん!?」
沖田も無様に転がったりはしない。白い砂利に着地して土方に抗議する。
しかし土方は悪びれもせず、ふふんと笑って自分も庭に降りた。
「黙ってるから腑抜けたかと思ったが、しっかり身体は動くじゃねえか」
「当たり前でしょう。子供の頃から周斎先生に何度投げ飛ばされたと思ってるんですか」
周斎とは近藤勇の義父で、天然理心流の前当主だ。天然理心流は剣術だけではなく、戦場で使うあらゆる技を含んでいる。柔術もそのひとつで、小柄な沖田はものになるまで相当苦労した。
「そうだ、稽古は裏切らねえ。うだうだ考えてる暇があったら稽古だ、稽古! おらっ! はっけよい!」
突進する土方を、沖田は腰を落として必死で受け止める。
「どうした! もっと押してみろ!」
「ああもう、相撲なら自分の方が強いからって!」
「相撲ならとはなんだ! 剣術でもまだまだ負けたつもりはねえぞ!」
二人は取っ組み合い、投げ合い、泥だらけになって何度もぶつかり合った。どちらともなく笑い始め、そのうちに狂ったように笑いながらの相撲になる。
子どもの頃は沖田が一方的に投げられるばかりだったが、いまは勝負になっている。十のうち三は沖田が勝っているだろうか。初めて組み合ったときは一生勝てないと思ったのに、鍛えるうちにこうなったのだ。
(あの以蔵とかいうやつだって!)
あのときは勝てなかった。明らかに実力で上をいかれていた。
しかし、それは過去のことだ。敵が強いのなら、自分はもっと強くなればいい。
「うおおおおおおおおおお!!」
「ぬああああああああああ!!」
沖田と土方が四つに組み、気合とともに相手を投げ飛ばそうとしたときだった。
「静かにしてくだサイ! 患者さんが安心できマセン!」
アーシアに怒鳴られ、二人は凍ったようにぴたりと止まった。
障子戸がぴしゃりと閉じられ、朔風に吹かれた落ち葉が乾いた音を立てて通り過ぎていく。
「あ、案外おっかねえんだな、アーシアちゃん」
「え、ええ……」
二人は顔を見合わせ、今後はあの金髪の少女を怒らせるような真似は厳に慎もうと心に刻むのだった。