二百十七話 凱旋
翔霏の敢闘を讃え労い、私と江雪さんがその横に寄り添っていると。
「血の臭いに釣られたかな。獣か、怪魔の気配がする。岩山の上だ」
突骨無さんが気付いて、私たちを守るように剣を構えて立った。
「だだだ大丈夫なのかい、こんな状態で囲まれたらひとたまりもないよ」
怯えた声で獏さんが泣き言を垂れ流すけれど、突骨無さんは若干の呆れ笑いを浮かべて、安心させる言葉をくれた。
「おそらく一匹だ。こっちの人数が多いことを確かめたら逃げるだろうさ。群れてないってことは、狼や山犬の類じゃあないな」
突骨無さんが見つめる先、岩山の中腹から上に、私の視力でも動くものが見えた。
彼の言う通り、熊よりは小さそうな獣が一つ、唸り声も上げず静かにこちらの様子を窺っている。
「……灰色の、なんだあれは、虎か? 見たことのない毛並みだな」
江雪さんからの手当を終えた翔霏も武器を構えて、私たちを睨んでいる獣に向き合う。
翔霏はその動物を見知っていないようだけれど、私は記憶と直感で相手がなにものであるかがわかった。
「ライオン、いや、こっちの言葉では獅子かな。立派な鬣だねえ。手足が太くて強そう」
「あれが獅子か」
昂国の西方には獅子がいる。
それは神話的なおとぎ話だけの伝説ではなく、実際にライオンが生息しているのだ。
群れていないということは、ハーレム、もしくはプライドを作り損ねた、はぐれライオンの雄だろうか。
要するにぼっちの非モテである。
哀しい。
けれど眼前の彼はいぶし銀、あるいは濃い灰色と呼んでいい毛並みを持つ、美しくも雄々しい生き物だった。
百獣の王という威名にふさわしいね。
サバンナの生きものであるイメージが強いけれど、森林や洞窟を根城としていたライオンも存在したはずなので、その系統だろうかな。
江雪さんも珍しいものを見られたと、上機嫌で感想を述べる。
「西方の獅子はなかなか人前に姿を現さないと聞きます。縁起のいい体験ができましたね」
「なんだか生意気な目つきをしているがな」
威風堂々たる佇まいが気に入らないのか、翔霏はしばらく、灰色獅子とにらめっこをしていた。
そのうち獅子は私たちに興味を失ったかのように、のそのそと岩山の奥へ引っ込んで行った。
去り際に「ゴアアッ」と野太い咆哮だけを残し。
「ひ、ひぃっ、お助け!」
獏さんの腰を大いに抜かしていた。
まったく、都会っ子はこれだからよ。
いや私も大都会大正義埼玉に生まれ育った女ですけれどね?
「ただいま戻りまっしたぁ~~!! って、なにこれ!?」
小獅宮に戻った私たち。
正面入り口の前庭には無数の紙吹雪0、そして紙飛行機が周囲を舞うように飛び交って、私たちを迎えてくれた。
屋上の端っこにいる飛行同好会のお兄さんたちが、私たちに手を振っている。
「薬ば効いたとねー!?」
「おめでとー! よくやったぞー!」
「私たちの分まで、ありがとう! お疲れさま!!」
「はぁ、オイはあん子らがやりおるって最初っからわかっとったとよ!?」
祝福と調子のいい言葉を浴びながら、私たちは凱旋する。
私たちが町で防疫、療養活動に従事していた間、小獅宮にいた人たちみんなが協力して物資の準備をしてくれたり、周辺地域に援助要請を飛ばしてくれていた。
みんなの力があったからこそ、疫病の拡散を封じ込めることができたのだ。
「ありがとー! 私たち、やりました! 一生懸命勉強した甲斐がありました! これも小獅宮のみなさんのおかげです!!」
高揚した気分でもろ手を挙げて振ると、屋上の山泰くんも、照れくさそうに手を振り返すのが見えた。
こんな風に素敵な体験を与えてくれるから、勉強するのはやめられねえんだよな!
「俺は老小師さまに挨拶してくるよ。みんな、お疲れさまだったな」
突骨無さんがそう言って場を離れようとしたとき。
「大統さま、どうか帰りの道行きの中ででも、これを読んでいただけますか」
江雪さんが突骨無さんに、丁寧に折りたたまれた封書を手渡した。
「あ、ありがとう。え、いや、これは、どういう……」
イケメン、直球のアプローチに狼狽するの巻。
「読んでいただければ、わたくしの気持ちもわかっていただけるものと思います」
湿っぽく、そして艶っぽく笑う江雪さん。
けれどその顔は少し泣きそうでもあり、まともな男性なら一撃でノックアウトされそうな威力がある。
どう見ても熱烈なラブレターですね、本当にありがとうございました。
修業中の女学僧だからって、恋をしてダメな理由など、あるはずはないのだ。
「なんであいつばっかり……」
毒の沼地みたいな呪わしい目つきで、獏さんがそのやりとりを眺めていた。
「まずなにより風呂に入ろう。ここの風呂が恋しくってたまらなかったんだ」
色恋よりも快適さが最優先の翔霏が言うので、私も極上の塩水温泉におともする。
マジな話、ここ小獅宮のバチクソ肌に沁みまくるお風呂を体験してしまったら、昂国へ帰る気持ちも挫けてしまうほどなのだよ。
観光地化して、もっとお金を稼げばいいのに、と思わないでもない。
そんなことをしてしまったら、静かに学問の道を探求する活動に支障が出ちゃうだろうけれどね。
「あ~ッ、この一瞬のために生きてるな……」
ざぶんと浴槽に身を投げた翔霏が、オッサン臭いことを言ってる。
背中の流しっこをしたときに翔霏の痣、茨模様の呪いの痕跡を確認したけれど、前より確実に色が濃く、範囲も広がっていた。
私は敢えて、そのことを話題に出さなかったのだけれど。
「ところで麗央那、改めて話したいことがあると前に言っていただろう。なんだ?」
水面から顔だけ出している翔霏が、世間話のような気楽さで振って来た。
私も変に誤魔化しをせず、正直に答える。
真っ直ぐ向き合うことが、私たちに必要なことだと思うから。
「翔霏の呪いをもうすぐ解いてもらうんだけど、そうしたら、翔霏は」
けれど続きを口にしようとした私は、喉の奥に強くしゃくりあげるものを感じ、言葉を失ってしまった。
しっかりしろよ、私。
翔霏はいつもいつまでも、強い翔霏でいてくれたじゃないか。
私がここで挫けて、どうするんだよ!
「……呪いを解く代わりに、翔霏は弱くなっちゃうんだ。今までみたいに自由に身体を動かせなくなっちゃうと思う」
お風呂のお湯をばしゃばしゃと顔に浴びせて、涙を有耶無耶にして私は言った。
ぬぼーっとお湯に身を任せながら、翔霏が答えた。
「そんなことくらいはわかっていたぞ」
「え?」
私、凄く胸を苦しめながらこの話をしていますよ?
あなた、平気でしかも想定済みですか?
「呪いというものがなんなのか、正直わからないことばかりだが、きっとそれは私の魂や体の深いところに食い込んでいるんだろう。それを無理矢理引きはがせばどうなるか、感覚としてわかるさ。根の深い雑草を、庭土から無理矢理抜くような感じだろうかな」
「やっぱり翔霏は、いろんなことが説明もなしで見えてるんだね」
私の杞憂はなんだったのか。
翔霏はやはり自分の体のことだけあって、私より深く細かく理解しているようだった。
沸のお寺や小獅宮にお世話になる前には、あんなに子どもじみた駄々をこねていた翔霏なのに。
いつの間にかその段階は、自分の足で飛び越えてしまったのだ。
恐怖も悔恨も、すでに虚空に置き去りにしてきたのか、翔霏は安らかな笑顔で語る。
「自分で言うのもなんだが、今まで好き勝手に生きさせてもらった。呪いを解いて身も心も弱くなるのだろうが、麗央那は傍に居てくれるんだろう?」
「当たり前だよ! どんなに翔霏が嫌がっても、離れてなんかあげないんだからね!!」
私はもう、涙を隠すことさえ放棄して、ぐじょぐじょの顔で親友に告げる。
これからは、ずっと一緒だ。
片時たりとて、離れてやるもんかよ!!
「だったらなにも言うことはないさ。あの日あの場所、川の近くで麗央那を助けた自分を褒めてやるとしよう。きっと『もう一人の私』は、あのとき怪魔に襲われている麗央那を助けられなかった私なんだ。自分の行いが自分に返って来たんだろうな……」
私と翔霏が、はじめて出会ったあの日、神台邑郊外の大きな川の畔にあって。
本当にわずかな運命の歯車の差異で、きっと私は翔霏に助けられる前に、怪魔に食い殺されていた未来があるのだ。
だからこそ、その世界の私と翔霏は一緒に歩むことができなくて、終わりなき戦いに呪われた翔霏が生まれてしまったんだ。
けれど私は。
くどいくらいに確認したくて、どうしても訊いてしまうのだった。
「本当に、本当に翔霏はそれでいいの? まだまだ探せば、他の道もあるかもしれないんだよ? 今の私たちが知らない、なにか上手い呪いの解き方とか落としどころが見つかるかもしれないんだよ?」
「これでいいのだと、私は思っているよ」
平気な顔で言い切ってしまう翔霏。
優しい顔で、教え説き伏せるように言葉が続いた。
「これしかないから仕方なく、ではないんだ。これでいいと、本当に今、心から思えているんだ。それが自由ってことではないのか? それとも麗央那は嫌なのか?」
「嫌なわけないじゃん、バカァ~~~!」
ワンワン泣いて、私は翔霏の体を抱きしめる。
こうして誰よりも自由であった私の親友は、自由な心のままに、自分が弱くなる運命を受け入れてくれたのだった。
明日。
翔霏の呪いを本格的に解く件について、小師さまと相談しよう。
私たちはこの未来を、自分の意志で自由に選び取ったのだから。




