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百八十五話 あなたの好学はどこから?

 塀の向こうの更に別の塀の中。

 わずかに、しかし遠く離れてしまった赤ちゃんのことは寂しいとしても、静かで穏やかな後宮暮らしに私は戻った。


央那おうな。ちょっと馬蝋ばろうのやつに言伝を頼めるかしら」

「はい、どういったことでしょうか」

 

 主人の言いつけにはイエスしか返さない出来た侍女、それが私。


「次に赤ん坊に会うのが明後日なんだけどそのときには北の宮の中庭を使いたいのよ。段取りしてくれるように言って来て」

「わかりました、早速そのように」


 ピッと敬礼して用向きに走る私。

 その背中にすいさまの優しい声がかけられる。


「用が終わったら新しい中書堂で油を売って来て良いわよ。どんな風に変わったのかあたしにも教えてちょうだい」

「ありがとうございます!」


 再建工事があらかた終わった、新生中書堂。

 外から何度か眺めはしたものの、まだ中に入ってじっくり見たことはない。

 見学のお時間をもらえてルンルン気分の私は、馬蝋さんの姿を探し求め、東庁に入る。


「ごめんくださーい。こちらに馬蝋総太監どのはいらっしゃいますでしょうかー」


 私の問いかけに、どこかで見たことのある髭の薄いチャラ男が寄ってきた。


「央那ちゃん、久しぶり! いやあ元気そうで良かった」

「誰だテメー気安く呼ぶんじゃねえよブチ喰らわすぞ」

「はははひどい挨拶だなあ。でも相変わらずで僕も嬉しいよ」

「だから誰だよ。お前なんぞ知らん」


 確か、若手書官の身分でありながらそれをわきまえずに大胆にも後宮の妃と不適切関係を持ち、その追及を逃れるために身を隠してひっそりと暮らしているバカなナンパ男が存在していた気もする。

 そんなやつ、とっくに国の機関に捕まって過酷な拷問の末に廃人になっているはずなので、悩みもなさそうな明るい顔で私の目の前にいるのは別人のはずだな、うん。


司午しごの旦那さまの口利きと取り計らいで、どうにか謹慎と無給の奉仕活動を負うくらいの罰で済んだんだよ。いずれは僕、司午別邸で秘書として雇ってもらいたいなあ。央那ちゃん、良いように話をしてくれない?」

「なんで私がばくさんの就職まで面倒見ないといけないんですか。自分で頑張ってください」


 彼の姓はりょう、名を獏と云う。

 スカポンタンに見えて外国語に強いらしく、百憩ひゃっけいさんとともに西方の学術文書を昂国こうこくの言葉に翻訳する作業に従事している。

 不埒事件の詳細を明らかにすると、貴族や皇族の多くに飛び火する可能性が高い。

 そのために、ある程度のお目こぼしをもらったんだろうな。

 こんなやつでも意外と、偉い人たちの覚えがめでたいのかも。

 まさか中央に復職できるとは思わなかったけれど、べ、別に心配なんかしてなかったんだからね!


「ところで馬蝋どのに用事かい? さっき中書堂の方へ向かうのを見たよ。さあ行こう行こう」

「一緒に歩いてると私にも変な噂が立つから離れてくれます?」


 なにを言われても気にせずニコニコ顔で、獏さんは世間話を振ってくる。


赤目部せきもくぶ星荷せいか僧人が亡くなったそうだね。百憩どののところにも便りが来ていたよ」


 こういうへこたれないところと笑顔を絶やさないところが、年上のお姉さんに可愛がられる秘訣なのかもしれないな。

 って、穏やかではない名前が出て来たぞ。


「獏さんも星荷さんを知っているんですか?」

「会ったことはないけれど、星荷僧人が若いころに翻訳した経典で僕は西方の言葉を勉強したんだ。ご存命の間に一言でも挨拶したかったな」

「へえ、星荷さんも結構な知識人だったんですねえ、ああ見えて」


 いろんなところで、意外な人たちがつながっているものだ。

 そしてどうやら、獏さんの話ぶりによると星荷さんを殺したのが除葛じょかつ軍師の手のものだということは知らないらしい。

 知らない方が良いことも、生きてりゃたくさんあるか。

 と思い、私も特に教えたりはしない。


「でも北を旅して帰って来るなんて羨ましいよ。僕も生きてるうちには西方に行きたいんだけどなあ。まだ謹慎中だしなあ」


 チラッチラッと私の顔を窺うのがウザい。

 なんだこいつ、私に「誰か偉い人に口を利いて、僕の謹慎を解いておくれよ~」とでも言いたいのかふざけんな凹すぞ。


「わあ、新しい入口、広くて気持ちいいですね。開放感がステキ」


 バカを無視して私は、生まれ変わった中書堂に足を踏み入れる。

 全体の高さは若干、低くなった。

 けれどその代わり水平方向に建物が広くなり、見た目からして安定感が増している。

 

「夏の日中は門を開きっぱなしにして、すだれをかけるようにしたんだ。今日なんかは風が通り抜けて最高さ」

「そんなに良い環境だったら私相手にヒマ潰してないで働け?」


 都合の悪い言葉は聞こえない便利な耳の持ち主である獏ヤロウは、無駄に張り切った案内役として私を奥へ招く。

 私は旧中書堂の重くて分厚い扉を敲いて推すの、結構好きだったのでそこはちょっと寂しいかな。


「ほら、この大きい書棚は央那ちゃんが言った通りに、横にずれるようになってるんだよ。さすがに重いから二人三人がかりだけどね」

「あ、ホントだ。ちゃんと私の意見も取り入れてくれたんだ。嬉しいな」


 アイデアを出したスライド式本棚も、見事に完成していた。

 工事人のお兄さんたちに交じって、角翼かくよく少年団のみんなもきっと、頑張ってくれた成果だ。

 じんわりと心を温めるものを感じながら、私は本棚の列をざっと見渡す。


「まだ空きが多いですね。書籍の搬入は終わってないんですか」


 本棚の中身はところどころスカスカで、叡智の集積地を名乗れるほどの品ぞろえがない。

 私の質問に、獏さんは「そうそう」と頷いて教えてくれる。


「本の分野、整理分類でいろいろ議論があってさ。どんな本をどこにどう配するかで書官たちの間でも意見が割れてるんだよ。誰だって自分の机の近くに、自分がよく見る本を置いてほしいから仕方ないけど」

「なるほど。使う人それぞれに事情がありますもんね」


 前にも馬蝋さんとそんな話をしたな、確か。

 でも細部を相談する前に私は漣さまのお部屋を辞して後宮を去ってしまったので、意見の出し方が中途半端だったと反省。

 そんなことを考えながら二階、三階と続けてうろうろして観察していると、果たしてお目当ての馬蝋総太監は四階の窓際欄干バルコニーで気持ち良さそうに涼んでいた。


「おお、麗女史! 戻られたと聞いておりましたが、挨拶の先を越されましたな。これは不覚不明」


 額の汗を拭き拭きして、相変わらずの福助顔で笑う場蝋さん。


「あ、獏さんはもういいですよ。私たちは大事が話があるので自分の仕事に戻ってください」

「えぇ~」


 しょげた子犬みたいなナンパ男を私はしっしっと手で追い払い、馬蝋さんに改めて挨拶する。


「ご無沙汰しております。またしばらくの間、後宮で働くことになりました。今日は翠さまからの伝言がありまして」

「おお、これはこれはご苦労さまでございます。御子みこのことに関して、なにか必要なものでもございましたかな」


 私は翠さまに言われた通りのことを馬蝋さんリレーする。

 特に問題のある内容ではないので、すんなり話は受け取ってもらえた。


「お任せ下され。いつもより気合を入れて掃除させましょう。さて、御子の遊び道具になるようなものも、倉を探せばいくつかあったはずですが」

「まだ生まれたての赤ちゃんなので、玩具には興味ないと思いますけど。賑やかしがあった方が雰囲気は良いかもしれませんね」


 なんてことを良い風の当たる欄干で話す私たち。

 平和だわ~。

 風も見晴らしも、マジで気持ちいい。

 ここで勉強したら最高だろうなあ。

 まあ新しい中書堂にも、問題はあれこれ積み重なってるみたいだけどね。


「というわけで、本を棚に納める作業がなかなかはかどらないのです。麗女史、なにか良いお考えはありませぬか」

「私があれこれ言っちゃっても、昂国こうこくのみなさんのやり方とはずいぶん違うと思うので、かえって混乱しちゃわないですかね」

「いえいえ、参考までにという範囲でも良いのです。いろいろな角度からの知恵はあるに越したことはないですからな」


 そこまで言ってくれるなら、と私は安心。

 バルコニーに置かれた卓の上に紙と墨筆を用意して、馬蝋さんと向かい合って座った。


「これは私の暮らしていた土地の、あくまでも基本的な学問の分類なんですけど」


 前置きして私は、紙の上部左右に「自然」と「人文」という単語を分けて書き、説明する。


「人が頭の中で考えたもの、人の世の中でしか通用しないものが『人文学』です。反対に生きとし生けるもの、天地に満ちるもの、空の果てから地の深くにまで、すべてに通用するものが『自然学』ということになります」

「……ふむ、それはたとえば、どのようなものでしょう?」


 私が提示した二大分類に興味を持った場蝋さんが訊く。


「分かりやすい例で言うと、言葉や法律は、人間が使い方を考えた、人間だけの世界の仕組みであり、学問です。私たちは言葉で作られた法律で生活を縛られていますけど、虫や魚、風や草花にとっては人間が考えた言語も法も知ったこっちゃないですよね。だからこれらは『人文学』の分野に入ります」


 人文の欄に、言語、文学、芸術、法律、経済、などと、いわゆる文系学問を書いて並べる。


「それはまさにその通りですな。虫畜生や風雪に言葉が通じようはずもなく。畢竟、芸術や金勘定も人にとってのみ、人だけの営みでしょう」


 伝わっているようなので、私は説明を続ける。


「逆に、高い所から物が落ちるとか、温かくなったら雪が解けるとか、男の子と女の子はだいたいいつも一対一の割合で誕生するとかは、人間が考えた仕組みではなく、自然が、そうできているからです。自然の中にすでにある法則を見つけて行くのが『自然学』という大分類になります」

「すでにあるものを、見つける……」


 難しい顔で場蝋さんがしばし、考え込む。

 そして、次のような質問を私に投げかけた。

 その言葉に、私は大いに驚かされることになる。

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