第八膳『孤独を癒すラーメン』②
「時間大丈夫だったら、ちょっと二人で出かけない? 行きたいお店があるから。おばさんのお喋りにつきあってあげると思って」
断る理由はなかった。彼女は達月の口座に毎月五十万円も振り込んでくる人なのだ。
正直、助かってる部分もあるが、彼女の正体も、そこまでされる理由もわからない。
咲子は少し離れた場所にタクシーを待たせていた。
二人で乗り込み、「お願い」と言うだけでタクシーが発車。どこへ連れていくのか。
「あまり口座に手をつけていないのね。アルバイトだけで、生活費足りてるの?」
「ええ、まあ……それくらいは、自分でせなあかん思って」
どこまで話すべきか。咲子との距離感に迷いながら返答する。
「家賃と光熱費が口座で引き落とされてるから、十分助かってます。つうか、多すぎるくらいです。あの、大沢さんは、どういう」
「着きましたよ」
タクシー運転手が到着を告げた。咲子は支払いを済ませ、タクシーを降りて「こっちよ」と達月の先を歩き出した。
駐車場の先に、赤い門と緑の屋根の、中華風のたたずまいを見せる二階建ての建物がある。門の上に大きく並んだ漢字の店名で、中華料理店だとわかる。
近場にこんな店があるとは知らなかった。
老舗の高級レストランにも引けを取らない瀟洒な内装の店内は、ほとんどのテーブルが主に女性客の団体で占められており、各所でお喋りの華を咲かせている。
着飾ったご婦人方の会食に使われるということは、味とサービスには間違いがないということだ。ジャージでついてきてしまった自分がひどく場違いに思える。
店員に案内されたテーブルは、大家族にも対応できそうな、広々とした個室だった。
え、ワイとこのおばはん、二人でここ使うんか? と、ますます場違い感が強まる。外野のおばさんたちにじろじろ見られずに済むのは助かるが。
「達月くん、お腹空いてる? お任せで頼んじゃってもいいかしら」
「あ、はい」
「ここのお店美味しいのよ。せっかくだからたくさん食べてってね」
幸い、あさりラーメンを食べてからだいぶ時間が経っていた。料理を待つ間に、咲子がじっと達月の目を見て話を切り出した。
「私が誰なのか、全然覚えてないんだったわね」
「……すみません」
「謝らなくていいの。私は、達月くんにとっては赤の他人。ただのお節介おばさんよ」
「……」
「たまたま、記憶を失くしてさまよってた達月くんを見つけて、たまたまひとり暮らしで寂しかったから保護しただけの人。好きでやってることだから、達月くんは何も気にしなくていいの」
「いえ、それでも。本当にすみません」
達月は深々と頭を下げた。
「自分が誰に世話になっとるか、ほんまは調べればわかったんです。免許持っとるから住民票とか取れるし、アパートの管理会社とか、銀行とか、方法はいくらでもあった。なんもせずに、ただ黙って世話になっとった」
顔を上げた達月は、勢いよくコップの水を飲み干し、大きく息をついた。
「もう、諦めとったんです。色々調べたところで、どうせまた忘れてまう時が来るんやと。ワイだけやない。今になって来たっちゅうことは、大沢さんも、今まで忘れとったんですよね?」
「――ええ。忘れてました。なぜかあなたのことだけ、きれいさっぱりと」
「それ、ワイのせいです。ワイはすぐにおかしな現象を引き起こして、その度に記憶が抜けてってしまうんや。ワイだけやのうて、大沢さんまで」
「落ち着いて。確かにあなたに関係あるのかもしれないけど、私はあなたのせいだとか、あなたが悪いだなんてひとつも思っていません」
きっぱりとまっすぐに、咲子は言い放った。
「あなたが故意にやったのでないなら、あなたを責める理由なんてありません。そうでしょ?」
「……」
なんと返していいのか、わからなかった。
この人は、自分を肯定してくれる。自分が招き寄せてしまう厄災ごと、自分に近づこうとしてくれる。
だからこそ、近づいてはいけないのではないか。
この人に拾われ、救われながらも独り暮らしをしていたのは、距離を取ろうとしたからではないのか。
この人は、「普通」。普通に暮らせば、こんな苦労をせずに生きていける人。
優しい人だからこそ、「普通」を奪ってはいけない。巻き込んではいけない。
「お待たせいたしました」
店員が料理を運んできた。
「話はまた後にして、食べちゃいましょ。ね」
湯気の向こうに、優しげな笑顔。
今だけは、この卓をちゃんと味わおう。そう思った。
◇ ◇ ◇
コースでは時間がかかるからと、アラカルトで何品か頼んでくれたらしい。
味は、どれも文句のつけようがないほど素晴らしかった。厳選された食材。調理人の技術の結晶ともいえるソースの深い味わい。光沢を放つ食器の上に趣向を凝らして効果的に配置された、まるで芸術品のような美しさ。
蒸し鶏。ワイが作ったのとは柔らかさがまるで違う。
餃子。肉も皮も絶品。あふれ出る肉汁まで上品や。
北京ダック、鮑のステーキ……こんなん普段食べれんわ……
鶏肉とカシューナッツの炒め物。
そういや、カシューナッツを餃子に入れたら喜んでくれたやつがおったっけな……
麺料理が運ばれてきた。
なんと、大きなふかひれをそのまま丸一枚乗せた高級麺。
これはふかひれなのか、麺なのか。いったい一杯いくらの中華麺なのか。
「うまい……」
思わずこぼれた言葉を、咲子は満足そうに聞いた。
「今日選んだのはね、どれも達月くんが前にも食べたことがあるメニューばかりなの」
「え、そうなんですか」
「初めて出逢った時にも、ここに連れてきたのよ。どう? 覚えてる?」
「……」
達月は黙って、ありがたく麺とふかひれを完食し、スープを最後まで飲み干した。
「ごちそうさまでした」
ゆっくりと、思いを込めた言葉。これが最後になるかもしれない言葉。
「大沢さんには、いくら感謝してもしきれません。今日の食事、とても美味しかったです。
ただ、すんません、せっかくご馳走してもろうたのに、何も思い出せんかった。こんなに世話になったのに、ここの味も、あなたのことも、何も覚えとらんのです。
お願いしたいことがあります。ワイの面倒を見るのは、この食事でしまいにしてください。ただ出逢っただけの人に、さすがにずっと面倒見てもらうわけにはいきません。
ワイは、なんとか生きていきます。記憶が戻っても、戻らなくても。ただ、できればあのアパートにはいさせてください。家賃は、自分でちゃんと稼いで払いますんで。
わがまま言うて、ほんますみません!」
深々と、頭を下げた。正直、相手の顔を見るのが怖かった。
下を向いたまま、「ただ、」と、小さく言葉をつなぐ。
「よかったら今度、遊びに来てください。何か手料理、御馳走しますんで。もちろんこんな高級なんやのうて、庶民の安い料理やけど。ワイがなんとか生活できてるとこ、よかったら見に来てください」
ゆっくりと、顔を上げた。
咲子は穏やかな顔で、「わかったわ。達月くんの料理、楽しみにしてるわね」とうなずいた。
◇ ◇ ◇
「お手洗いに行ってきます」と、いったん退出した咲子は、店の隅で携帯電話を耳に当てていた。
「あなたのおっしゃるとおり、真面目で思いやりのある、とてもいい子でしたよ。ただ、残念ながら、ふられちゃったみたいです。私のことを心配してくれたのでしょう。できればいつかは家族に……なんて、図々しいお願い、できませんものね。
あなたのおかげで、彼を思い出すことができました。もう一度彼に会うことができました。本当に、ありがとうございました」
電話を切ってバッグにしまい、「さて、」と咲子はひとつ息を吐いた。
彼女にとっても、達月にとっても。
新しい関係の、新しい生活が始まる。
今は、この小さな縁を大事にしたい。許されるなら、この縁がこれからも続くことを願って。
彼女はしゃんと背筋を伸ばし、達月の待つ場所へと戻っていった。