第三膳『シチューと苦手料理』(※挿絵有)
突然だが、バトルである。
といっても戦闘行為ではなく、さながら親が子を叱りつけているような場面である。
「なんやワレェ……ワイの料理が食えんのかぁ?」
訂正。さながら「その筋」のモンが脅しをかけているようである。
小さなローテーブルの上には、ほかほかと湯気を上げているホワイトシチューの皿。
皿を挟んで睨み合うは、ひとりの金髪ヤンキー青年と、一匹のちっさいおっさんハムスター。
おっさんこと「ハム」の、黒ぶち眼鏡の奥のちっさい瞳がうるうると潤んでいる。
皿を前に、眉間に皺寄せ、ぷるぷると震えながら固まっているさまは、どこか切なそうにも見えるが――
「あんなに食う気満々だったやないか。見た途端になんや、その顔は。食えんなら食えんて、理由くらい言ったらどうなんや」
青年・達月が機嫌を損ねるのも無理はない。
今朝早くから、手間暇かけて用意したメニューだ。
鮭とホタテ、タマネギ・ニンジン・ジャガイモ・ブロッコリー、おまけにベーコンまで入っている。
バターで炒めてコンソメ入りでコトコトと煮込み、柔らかく煮上がったタイミングで投入するホワイトソースももちろん手作りだ。牛乳にもこだわり、根気強く煮詰めた自信作である。
ハム向けに、具材は柔らかく小さめに。
カレーをあれだけ喜んで食べてくれたハムなら、きっとこのシチューも喜んでくれると思っていた。
どうしても食べられないなら、せめて理由が言えないものか。
「もしかして牛乳か? チーズやヨーグルトはあんなに喜んどったくせに、牛乳は別と言いたいんか? それとも、シチューはビーフシチュー以外認めん! とか? 魚や貝は大丈夫言うとったし……あ、ニンジンか?」
ハムはただぷるぷるしているだけ。よく喋るこのハムスターが無言なのは珍しい。
達月は少し心配になってきた。
「具合、悪くなったんか?」
それでも何も言おうとしないハムに、さすがにちょっとイラついてきた。
「もうええわ、なおすから。今日はもう帰り」
片づけようと、少し乱暴に皿に手を出した。それだけの、はずだった。
達月が動かした皿が、ハムに当たった。思いのほか強く。
その衝撃でハムの体が勢いよく転がり、ローテーブルから落下し、ぽてっと畳の上に落ちた。
「……え……ハム……?」
とっさのことで、達月の思考がすぐに動かない。
数秒待っても、ハムの体も動かない。
時が、凍りついた。
「おい……ハム、嘘やろ? 返事しいや! ハム!」
ハムは、まだ動かない。
達月の、全身の血の気がいっせいに引いていった。血の全部が、頭からさあっと昇って消え失せてしまった。
「ハム! ハム! すまんかった、大丈夫か! はっ、そや、獣医に、ってどこや!」
「……達月くん……」
ハムがゆっくりと目を開ける。
達月は震えながら小さな体を撫でた。
「ハム、堪忍な! 痛いか? すぐ病院連れてったるからな!」
「あの、くすぐったいです……」
「そうか、ちっと我慢せ……え?」
「くすぐったいんですってばぁ!」
達月の手の中で、ハムは両前足をぐーんと天に向かって突き上げ、大きく伸びをした。
「うーーーん。あ、僕なら大丈夫です、見ての通り。病院は必要ありません」
落ちた黒ぶち眼鏡をかけ直し、そのままラジオ体操を始めるハム。達月はへなへなと崩れ落ちる。
「無事かぁ……。ほんまに無事、なんか」
「達月くん?」
「よかった。本っ当によかった。堪忍な、ハム。もう二度と、あんなことせえへん……」
弱々しい声に涙が混じる。ハムは、うなだれた達月の膝を優しくぽんぽんと叩いた。
「言ってませんでしたね。僕は地球を亡ぼす強大な力だけでなく、どんなダメージも受けない強靭な肉体を持っているんです。この姿になってもそこは継承されたみたいで、おかげで極北の彼方から日本まで渡ってくることができました。といっても、簡単ではありませんでしたけどね」
達月はくしゃっと笑いながら、ハムのハゲ頭を優しく撫でた。
◇ ◇ ◇
「しかし、なんのダメージも受けんて。便利な体やなー」
ハムをもう一度テーブルの上に座らせ、感心しながらしげしげと眺める。
見た目は眼鏡をかけてるだけの、ハゲてるだけの普通のおっさんハムスターだ。
「ですよねー。でも以前の僕は、この体が嫌で仕方なかったんです」
「なんでや」
「なんの危険もないということは、なんの感動もないことに繋がります。何かに注意することも、何かに目を留めることも必要ないんですから。僕にも何人か大切な人がいましたが、彼ら・彼女らと喜びを分かち合うことも、悲しみを共有することもできないんです」
「そんなもんなんか……」
「でも今日は、この体に感謝したいです。おかげで、まだ達月くんと一緒にいられるし、達月くんに悲しい思いをさせずに済みましたからね」
「そやな。ワイも感謝や。ハム、元気でいてくれておおきにな」
一人と一匹、大きさの違う二対の瞳が笑い合う。
互いの視線が心を温めてくれるのだと、互いに感じ合っていた。
「安心したら腹減ったわ。何か別のモンこさえるさかい、ちいと待っとれ」
立ち上がった達月の背中に、ハムが小さな声を投げる。
「あ、待って、達月くん。僕の方こそ、悪かったです。このシチューが嫌というわけじゃないんです。ただ、ちょっと微妙なことを思い出しまして……」
「なんや?」
「言いにくいんですけど……ホタテ、の」
「ホタテが嫌なんか」
「ホタテの、『ひも』が、苦手なんです……。日本へ来るとき、海を渡るうちにホタテの養殖場に紛れ込みまして……。そこで、たくさんの『ひも』の残骸に、全身がんじがらめに巻きつかれちゃって」
ブハッ! と達月が噴き出した。
さっきまでの泣きを吹き飛ばすくらい、豪快に笑ってしまった。
「そんじゃ、『ひも』をよければ大丈夫やな。ホタテの味自体は平気か?」
「はい。でも、せっかく作ってくれたのに……」
「うまかモン食べてもらうために作ったんや。たいした手間やあらへんよ」
達月はキッチンへ向かい、シチューを温め直しながら何やらトントンし始めた。
やがて、ハムの前に再び湯気の立つシチュー皿が置かれる。
ハムは目を見張った。
ホタテのひもは取り払われ、残りのホタテ自体がさらに細かくほぐされている。ホタテ貝の形状自体を思い出さないための配慮だろうか。
達月がすくってくれたスプーンから、ひとくちパクッ。
ホタテの味わいはそのままに、よくほぐされた貝柱がホワイトソースのコクとほどよく絡み合う。ジャガイモもいい具合に溶け出して、具だくさんのトロトロシチューに仕上がっている。
時たま現れるブロッコリーの、つぶつぶ触感も嬉しい。
鮭にベーコン、ニンジンも、口に運ぶごとに新たな感動を舌に届けてくれる。
「こっちも食べてみ」
達月が差し出したのはバターライス。
パセリと一緒にご飯に混ぜ込まれた、茶色の物体は……ホタテのひも!
「細かく刻んでバター醤油で味付けしたんや。うまいでー」
「ふおお……バター醤油の香りがたまりません! 黄金色のバターライス、いただきます!」
あっけなく陥落、完食。
どこまでも「ひも」には勝てないハムであった。
◇ ◇ ◇
ハムは全身を達月にすりすりし、目いっぱいの喜びと感謝を伝えながら帰っていった。
うまいモンを、誰かと一緒に食う。
ただそれだけのことを、今日も味わえる喜び。心の底から感謝したい。
どこからか、「ハムー、捜したんだぞー。どこ行ってたんだよー」と声がする。
窓の外を見ると、ひとりの男が路上に手を伸ばし、アパートから出たばかりのハムを拾い上げていた。
ジャージ姿に明るい茶髪だが、自分と同じヤンキーというわけではなさそうだ。
「ほら帰るぞっ」と、そのまま軽快なテンポで走り去っていく後ろ姿は、ランニングに慣れた健康的な若人そのもの。
「あれが、ハムの言ってた『トゥルーフレンド』ってやつか?」
ハムがわざわざ日本へ訪ねてきたという、なじみの友人。
「ちゃんと会えたんやな。いい人そうやないけ。よかったなー、ハム」
そのままキッチンへ洗い物に向かう達月の心は、すがすがしく晴れ渡っていた。