第九膳『再会のメニュー』②(シャッキリ豚丼)
「ワイの過去、やて……?」
ことりと、テーブルに椀が置かれた。ハムは「はい」とこくんと頷く。
「達月くんが記憶を失うことは、もちろん達月くんのせいじゃありません。周りに迷惑かけないよう控えめに生きることも、記憶が戻らなくてもこつこつと前向きに生きようとすることも、僕、とっても立派だと思います。達月くんに関わった人まで記憶が飛んでしまうことも、決して、達月くんが悪いわけじゃありません」
達月は息をのんだ。先日ここへやってきた女性・大沢咲子のことも、彼女が達月のことを忘れていたという事実も、ハムは知らないはずだ。
「なんで知っとるん? ワイは、そこまで話とらんで……」
「調べました。大沢咲子さんのこと。それからその前の、土屋香苗さんのことも。残念ながら、まだ二人しかわかってません。ひょっとしたら、その前にも何人かいるかもしれませんね」
土屋香苗。やっぱり思い出せない。咲子だけではなかったのか。
「達月くんは、決していじけず腐らず悲観せず、僕にいつも優しくしてくれました。達月くんの作ってくれる食事は、美味しいだけでなく、いつも僕のことを考えてくれる温かな食事でした。きみは、誰かと食卓を囲むありがたみを知っている人。大切な家族とのひとときを知っている人だと、ずっと思ってました。だからこそ、僕は、もしもどこかに達月くんの家族がいるなら、絶対に取り戻してあげたいと思ったんです」
「……家族……」
長い間、自分から完全に離れていた言葉。今の自分に全く縁のないもの。それなのに、なぜ、こんなに抵抗なくすとんと胸の奥に着地するのだろう。
「それに。誰のせいでもないとしても、咲子さんと香苗さん、二人とも、あまりに寂しいじゃありませんか。きみのことが頭から消えてしまったというのに、咲子さんは毎月お金を振り込み続け、香苗さんは毎日この豚汁を作っているんです。このままじゃ、あまりに悲しいじゃないですか。だから僕、二人にきみのことを思い出してもらおうと、ちょっと頑張ったんです」
「え」
じゃあ、咲子がここを訪れたのは、ハムが関わったからなのか。
この豚汁の材料も、香苗という人が送ってくれたのか。
「咲子さんと食べた中華、きみは最初に食べた時泣きながら食べていたそうですね。でも、残念ながら忘れてしまった。先日も含めて、二回しか食べなかったからかもしれません。
その点、香苗さんの豚汁は毎日欠かさず飲んでいたそうなので、きみの記憶にもしっかりと根付いていたのでしょう」
もう一度、椀を手に取った。
冷めてしまった汁を、口に含む。確かにこの味を知っている。
この味のそばに、誰か、優しい笑顔を向けてくれる人がいなかったか。
もう一度、椀を置いた。それ以上、飲めなかった。
長い間諦めていたもの。あえて心から遠ざけていたもの。それらが一気に押し寄せてきて、体中を駆け巡り、苦しいほどに胸が締めつけられる。
忘れたままでもいい。――そんなわけはなかった。
大切な時間だった。自分にとっても、相手にとっても。
それが自分にないことが、今、こんなにも悔しい。
うなだれた達月の手に、ハムがぽんと前足を置く。
「きみに悲しい思いをさせるつもりじゃなかったんです。勝手なことしてごめんなさい、達月くん」
「……いいんや。謝らんでええ。ハム、ワイのために、おおきに……」
今過ぎていくこの時も、間違いなく大切な時間。達月にとっても、ハムにとっても。
決して忘れたくない、優しいひとときが部屋の中を流れていった。
◇ ◇ ◇
「ところで、ふと思ったんですけど」
「なんや?」
椀を片付け始めた達月の背中に、小さなハムの声が飛ぶ。
「達月くんって、ジゴロですよねえ。それともマダムキラー?」
「いきなりなんや!」
「だって、お金持ちの美しいマダムばかりじゃないですか! ちなみに香苗さんはキャベツ農家。大地主さんです」
「だからなんや」
「べ、別に、羨ましくなんかないんだからねっ!」
「……」
考えてみれば、ハムもおっさん。年齢的には、ハムの方が彼女たちとお近づきになりたくても不思議ではない。
「僕だって、まだまだイケてるんだから! 二人とも、僕のイケボに夢中なんだから! 若輩者の達月くんには、もっとキャピキャピした若い子の方がお似合いです!」
「言うことがいちいちおっさんやなー。そういやハム、二人にワイのことを思い出させたって、どうやったんや? そのハム面さらしたんか?」
「まさか。二人には電話及びモニター越しに連絡を取りました。僕はこの通りイケボですし、モニターではイケオジの『ちゅーあばたー』が僕と同じ動きをしてみせるんです。イケボのイケオジ、洗練されたこの動き。ご婦人方はメロメロです!」
「心の底からどーでもええわ……」
「そうだ、達月くんもやってみましょう! 僕がご婦人方に手ほどきしたこのダンスは、ボケ防止、もとい忘れてしまった記憶を取り戻すのに効果抜群です!」
「今二人がボケた言わんかったか?」
「さあ、両手を上げて! オイッチニー、サンハム、ニーニッ、サンハム!」
「ラジオ体操やないかい!」
「ハム体操ですってば!」
言いながらおしりふりふり、しっぽもふりふり。イケオジがやっていい動きではない。
「達月くん! リピートアフターミー! レッツハムハム!」
「嫌や」
「なぜです! これで記憶がよみがえるかもしれないのに!」
「だとしても嫌や! 断る!」
テーブルの上で、めげずに続くハムハム体操。
この一人と一匹が揃うと、アパートが果てしなく賑やかになる。
それだけは変わらない。何があっても。
◇ ◇ ◇
「ゼイハー、ゼイハー。お腹がすきました。達月くん、ご飯まだですか?」
達月は体力こそまだあるものの、ツッコミ力の方が尽きかけていた。黙ってキッチンに向かい、黙って残りのキャベツと豚肉を手に取る。
あっという間に、食卓に丼と小鉢が登場した。
ほかほかご飯の上に千切りキャベツ。その上に、ニンニク・生姜・醤油・みりんで甘辛く味付けした豚肉。あとは好みでマヨネーズや白ゴマ、薬味などを添えて。
「「いただきます!」」
「ハムハム、もこもこ!(キャベツのシャキシャキが、だんだんしなしなしてくるところがたまらんですね~。甘辛な豚肉とマヨは王道ですね!)」
「そうやろ、スタミナたっぷり豚丼や。これぞ簡単にできる男子飯や!」
一人と一匹、キャベツと豚肉の夜はこうして平和に更けていった。
――明日からまた、彼らの新しい物語が始まる。




