第九膳『再会のメニュー』①(愛情豚汁)
突然だが、
――――、
ハムが、いた。
「ハム……?」
達月の足が止まった。
アパートの自分の部屋の玄関前に、落っこちてる生ゴミ――ではない、ちっこい生き物。グレーとゴールドが混じった薄汚れた体毛に、ちょこんと乗った黒ぶち眼鏡。おっさんの証、はげ頭。こんな生き物、ほかにいない。
「ハム! ハムか?」
「達月くん、おかえりなさいー」
ちっこい前足をふりふりして出迎えるハム。しゃがんで手を差し出すと、うんしょと手のひらに乗ってきた。落っことさないように、両手で大事に抱えて持ち上げる。
「おかえりなさいって……今までどこ行ってたんや!」
「ちょっと、色々とやりたいことがありまして。もしかして、心配かけちゃいましたか?」
達月は手元や声が震えるのを必死に押しとどめた。しかし表情筋が言うことを聞いてくれない。今、どんなに情けない顔になっているだろう。
「思ったよりも時間がかかっちゃいました。達月くん、なかなか来れなくてごめんなさい」
そう言いながらぺこりと頭を下げられては、憎まれ口も出てこない。
無事だった。ちゃんと元気だ。そう確認するだけで胸がいっぱいで、それ以外のことが何も考えられなくなってしまう。
「こんにちはー。ハムスター便ですー」
「あ、ちょうど来ましたね。達月くん、受け取ってくださいな」
そこへ現れた配達員と、ひとつの段ボール箱。達月は言われるがままにハムを下ろし、受領サインをして箱を受け取った。
◇ ◇ ◇
「『ご依頼主・イルハム』って……何送ってきたんや」
キッチンに箱を下ろすと、ハムがとてとてと寄ってきた。
「これはですねー」
「ちょっと待った、のん気に土産とか言うつもりやないやろな」
「え、そのつもり……」
「こっちはまた死んだんやないかって心配しとったんやぞ」
「ありがとうございますー。見ての通り、僕はハムハム元気です。とりあえず、その箱開けてもらえませんか」
間の抜けた声に、本気で怒る気力も抜けていく。
冷蔵便で送られてきた箱の中身はというと、
「キャベツに、豚肉、味噌……あと色々……なんやこれ、どこが土産や」
「達月くんのために用意した物なんです。普通にスーパーで買ってきてもよかったんですけど、僕、こんなに運べないでしょ?」
これ全部どころか、一品だって運べない。さらに代金すら運べない。どうやって買ったのか、と尋ねるよりも先に。
フリルエプロンを装着したハムが、豹変した。
周囲に黒い瘴気のようなものが立ち込め、両目に赤い光が宿る。気のせいか、「コオォォォ……」などという、少年バトル漫画のような効果音まで聞こえてきた。
「ハム……?」
「達月くん。僕、お話しましたよね。僕には地球を滅ぼしかねないほどの強大な力があると」
「へ? うんまあ、言うたな」
気のせいだと思いたいが、突風まで出始めた。エプロンのフリルがバサァッ! と舞い上がる。ハムを中心に、黒い嵐が渦を巻いて吹き荒れる!
「ご覧あれ! 僕の能力の正体、それは重力と反重力を操る力! あらゆる物体を意のままに動かし、変形させることはもちろん、果ては空間と時間を歪め高次元宇宙を創造することも可能! この部屋にブラックホールを生成し、一億年先の未来につなぎ、アパートを僕の鼻クソくらいの大きさに圧縮することもできるのです!」
「なんや凄いけど鼻クソはやめれ! 大家さんに怒られるわ!」
ハムの両目が! 突然、ビカーっとビームを放った!
「うわッ!?」
「今こそ! 目的を果たすため、その力を解放する時です! 達月くん、ホワイトホールに銀河の端まで吹っ飛ばされたくなかったら、しばらく僕から離れててください!」
「離れるって、どんくらいや!」
「キッチンに入らないで! そっちの部屋で、梅昆布茶でも飲んで待っててください!」
段ボールの中に、梅昆布茶も入ってた。
今のハムに逆らえば、きっと素粒子単位でケシズミにされる。達月は言われるがまま、キッチンと居間を隔てる引き戸を閉め、おとなしく梅昆布茶とともに待つことにした。
キッチンからは、日本の安アパートとは思えないほどの凄まじい大爆音と光の渦が暴れ出し、ゲームのボス戦さながらの大迫力のエフェクトに世界が支配されてゆく。
「きょえぇェェッ!」「あちょおぉォッ!」「どっかん!」「あ♡」などの奇声まで響いてくる。
さらにこの世の終わりとも思われる震動まで加わった。視界がガンガン揺れているが、不思議と梅昆布茶はこぼれず、アパートの壁にヒビひとつ入らない。たぶんシールド的な何かが施されているのだろう。
「ちょワーーッ!!」
ひときわ甲高い断末魔の如き叫びがとどろき、その後、急に静かになった。
キッチンからは、災禍の痕跡を示すかのように白煙がたなびいてくる。
「は、ハム……?」
「……終わりました。達月くん、どうぞ入ってください」
達月はキッチンの引き戸を開けた。そこには、生気が抜き取られてしまったかのように困憊し、前よりもちょびっとハゲが広がってしまったハムと、ほかほかの湯気を立てるひとつの鍋。
「ハム特製、愛情たっぷりキャベツたっぷり豚汁です。どうぞご賞味あれ」
「と、豚汁?」
まだ頭が実況に追いついてこない。
「ハム、これ自分ひとりで作ったんか?」
「そのとおり! このハムハムボディは達月くんなしでは料理のひとつもままならず、やむなく封印されし我が能力を解放したまでです」
「……」
このおっさん、豚汁ひとつ作るのに星をも滅ぼす能力使うてしもうたわ。
と、全力でツッコもうかと思ったが、ハムにも何か考えとか理由とかがあるのだろう。たぶん。
達月は言われるがまま椀に豚汁を注ぎ、小鉢にハムの分も注ぎ、二人で仲良く居間のローテーブルを囲んで手を合わせた。
「「いただきます!」」
椀からは、芳醇な味噌の香りが漂ってくる。どこか懐かしい心地にさせる香りだ。
一口すすると、ほどよいバランスで味噌の味わいと奥深いだしとのハーモニー、豚肉とキャベツの甘味と旨味が一気に押し寄せてきた。
すべての味が、凝縮され、舌を、喉を、脳髄を刺激する。
その刺激は、達月の中、奥深くに覚えのあるイメージを掘り起こした。
「この、豚汁……覚えがあるで。ハム、これどないした?」
「達月くん、よかった。覚えていたんですね」
感慨深げに、にこにことうなずくハム。
「これは、僕があるお宅で教わった『達月くんゆかりの味』です。
僕が今までどこで何してたか、聞いてもらえますか。
達月くん。僕は、きみが忘れてしまったきみの過去を、探すための旅に出ていたんです――」




