「そうだったんですね」をまかり通すな!
「最近残業続きで、大変なんだよ」
「そうだったんですね」
と、こんな使われ方をされている「ね」という語。
言葉は変化するもの。だから言葉に対しては、「伝統的」とはいえても、「正解」といういい方はしない――と言うのが、言葉に対する丁寧なスタンスである。けれど私も、もう、堪忍袋の緒が切れそうだ。おかしいよ、「ね」の使い方。
何がおかしいのかと言うと、「ね」というのは「相手に念を押す気持ち」を伝え、同時に「親しみを示す」ための言葉だ。会話のはじめ、上手くいくコミュニケーションでもよくとりあげられるけれども、最初は、互いの共通の話題・共通の認識を確認しあう所から始めるものだ。
この深層心理は、そう難しいことではない。
「今日は天気がいいね」「そうだね」、「賑やかな店だね」「うん」、「混んでるけど平気?」「平気だよ」――というやりとりの積み重ねがコミュニケーションだ。これは何をしているのかと言うと、上記の通り、互いに認識をすり合わせていく作業をしているのだ。言い方を変えれば、心を相手に近づけているのである。その心理から生み出された語が、「ね」である。だから「ね」には、親しみが籠っているのだ。「あなたと親しくなりたいと思っているよ」という意思表示でもある。
じゃあ、「そうだったんですね」はいいじゃないか、と言う人がいるかもしれない。
しかし、そうじゃない。なぜかというと、「ね」は、最初にある程度互いに同じものを見ている必要がある。同じ空を見ているから天気の話題に「ね」がつく、同じ料理を食べているから「美味しいね」となる。同じ空間、同じ想像、同じ何かを見ているという前提の上で、「ね」は成りたつ。
「そうだったんですね」の何がおかしいか。それは、「そうだったんですね」と言う方が、言われる方の話題について知らない(=見ていない)のに「ね」を使うからだ。
「高校時代は挫折続きだったよ」
「そうなんですね」
……お前に俺の何が分かる? 挫折の事、わかるのか? 俺が挫折してたこと、今知ったばかりじゃないか。ふざけるな! と、「ね」について敏感な人は思っている。知りもしないのに、「念押し」の「ね」が使えるわけがないのだ、本来は。だからここでは、「そうだったんですか」とか、「そんなことがあったんですか」、「初めて知りました」とか、そいう風に返すのが正しい。そのほうが、「寄り添う気持ち」を感じることができる。
それがどうだ。わかってもいないのに「そうだったんですね」と、言葉と文字面だけで平気で言う。何と浅ましくて軽薄なことだろう。今の日本の言論そのものじゃないか。いや、違う。言葉を大事にせず、言葉の意味を考えず、派手な言葉だけに群がるから、言葉によってなされれること――つまり言論は当然として、思考そのものさえ、不正確に、そして空虚になっていくのだ。言葉に鈍感になるというのは、そういうことだ。言葉が秘めている感情を、読み取れなくなっている。
「高校時代は挫折続きだったよ」
しかしもし、この語りかけられている相手が、苦楽を共にしたマネージャーや友達だったらどうだろう。こう言ってもおかしくないはずだ。
「あの時は、大変だったね」
これが「ね」のあるべき姿だ。
知ったかぶりの相槌、「そうだったんですね」に私は断固反対する。
それは、間違った日本語だ! 「正しい」日本語じゃない!