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平等という誤解

 フェミニズム、ジェンダーフリー、ポリティカル・コレクトネス。

 どれも、最近の日本で流行りだした新しい、と言うか先鋭的な思想だ。

 それぞれの原義を見ていこう。

 フェミニズムは『女性の社会的、政治的、経済的権利を男性と同等にし、女性の能力や役割の発展を目ざす主張および運動。女権拡張論。女性解放論』

 ジェンダーフリーは『性による社会的・文化的差別をなくすこと。ジェンダーにとらわれず、それぞれの個性や資質に合った生き方を自分で決定できるようにしようという考え方』

 と、それぞれ最近復縁したデジタル大辞泉が教えて下さった。ちなみに、ポリティカル・コレクトネス通称ポリコレだが、そう言う名前の概念はあるのだが実は定義が定まっていない曖昧な存在だ。社会的政治的中立の下であらゆる偏見や差別を是正する的な概念だが、その中立の存在が具体的になっていない、つまり本当に中立なのか保証が無いのだ。従って、議題としての価値すら無いと判断したため今回は触れない。

 何はともあれ、全て原義だけを見てみたら素晴らしい考えだ。


 だが、私がこう言った主義主張を声高に叫ぶ方々を見る限り、私の思う平等と彼らの思う平等は齟齬があるように感じる。


 具体的な話をしていこう。


 まず、私の思う平等を書こう。

一、社会のあらゆる権利を受ける機会が均等である事。例えば、どの地域にいても同じ質の教育や医療を受けられる事等。

二、個人の評価をする上で性別や人種など本人の努力でどうにもならない部分を含めない事。

 上記二点を守る社会は平等な社会だと考える。

 何故ならば、これを守った社会であれば少なくとも人種、肉体的性別、精神的性別の点で色眼鏡を付けられずに評価されるからだ。脆弱な点を挙げるとするならば、個人の努力でどうにもならない部分の定義が時代と共に変わるため明確にできないところだ。例えば、信教に関しては担保できるかどうかが怪しい。

 従って、そう言う曖昧な部分については適宜話し合いが必要になる考え方ではある。


 対して、いわゆるフェミニズムやジェンダーフリーを主張する一部の方々の意見を取り上げてみる。が、全文書き切ると暇潰しに読んで頂く文字数に抑えられないので、極力その主張の意味を歪めないまま要約する。


例一、フェミニズム。

『日本のジェンダーギャップ指数がとても低いので、ジェンダーフリーの観点から女性議員や女性の役員など要職に就く女性を増やすべきである』

例二、日本教員組合によるジェンダーフリー教育

『児童生徒の発達段階を踏まえない行き過ぎた性教育、男女同室着替え、男女同室宿泊、男女混合騎馬戦の実施等。また公共施設におけるトイレの男女別表示を同色にすること』


 私は、この二つの主張にそれぞれ違う違和感を感じた。

 結論から言うと、例一については数的平等や結果の平等を求めている点。例二については、現実的に存在する性差を無視してしまっている点。

 これが違和感の正体だった。


 まず、例一に対しての私の考えから述べていこう。

 まず、ジェンダーギャップ指数という物がかなり恣意的な指標である点が、私の眉を潜めさせた。この指標は教育、経済、政治、保険の大きな四項目の下に十二個の小項目が設けられている。

その項目には完全不平等の〇点と、完全平等の一点が割り振られて、その平均値が結果となる。

 日本は、一五三カ国中一三〇位と言う低順位にあり、主要七カ国中で最下位の位置にある。

 何が日本の足を引っ張っているかだが、労働所得、政治家、経営管理職、教授、専門職、高等教育、国会議員数の七項目だ。これが一〇〇位を下回る項目なのだが、私は正にここに恣意性があると感じた。

 まず、労働所得だが日本全体の労働者の所得を男女で分けた平均値を出してその差が大きいと評価された結果だ。

 しかし、重要な事がある。日本には労働基準法と男女雇用機会均等法がある。この二つの法律により、男性と女生とで賃金に差があってはならないと定められている。つまり、同じ会社に務めている経歴が全く同一の男女に基本給の差は無いのだ。ならば、何故平均値で男女差が出るのか? これは、男性と同等の高所得の女性もいる中で低賃金層の数が男性と比べて高い割合で存在している事が原因だ。そのため、結果として女性の所得の平均値を下降させている。

 次に、政治家、経営管理職、専門職、国会議員数だがここがまた恣意的だ。ここに属する職種はいわゆる高級職であり、指標基準とするには余りに幅が狭すぎる。

 例えば、責任者の下限を中間管理職級までに広げたら違った結果が得られる可能性がある。政治家に至っては、日本人は政治そのものに興味があっても政治家になろうという発想に繋がる人間が少ないため、ジェンダーギャップとは関係無い問題まで絡んでくるのだ。国会議員数も同じ説明がつく。

 高等教育についても異論がある。と言うのも、少なくとも義務教育期間は男女に教育の質の差が無い。特に算数、数学、国語、古典漢文、理科、科学、物理、生物、英語はほぼ同質だ。社会科目は残念ながらばらつきがある。しかし、それが高等教育に進むための足枷になるかと言えば否だ。進学して更に学びたいのであれば、門戸は開いているので後は各々の自助努力だ。機会の平等は既に設けられているので、そこを目指すか否かは本人の選択なのだ。

 そもそも、国際社会の中で日本の歴史や文化はかなり異質で少数派だ。それが、例えばキリスト教社会やその文化を背景にした欧米各国等と比較されても、民族としての土台や価値観すら違うのに結果だけを比べられても困るのだ。

 皆さんは理科の授業を覚えているだろうか? 比較実験をしたいならば、比較する対象以外の要素は全て同一でなければならない。でないと、正確な評価ができないからだ。

 ジェンダーギャップ指数はその観点を完全に欠如させている。 

 現行の日本の社会制度は女性を差別的に排斥するようにはできていないのだ。思想文化は別だが、それは制度的な問題では無い。

 そもそも、日本は男女に対して平等な機会を設けている。性差別的な制度があるのならそれは撤廃すべきだが、事実として日本にそれは無い。

 故に、結果の平等を求めていると思われる一部のフェミニズムを掲げる方々の主張は、単に女性優遇措置に成り下がる可能性があるのだ。それは逆説的に男性差別である。それは本末転倒だ。

 結論としては、私は例一の主張を否定する。しかし、現実問題として結果的に男女に社会的格差と捉えられる状態が生まれているので、その原因の追及と対策改善は必須だ。


 次に例二についてだ。

 そもそも行き過ぎた性教育って何? と私はポカンとしてしまった。何せ、日本の教育期間で実施される性教育は、実際の性行為に触れる事がまず無い。あくまで生殖の仕組みだけを教え、ついでに避妊具やピルの存在を伝えるのが関の山だ。そんな物、実際のセックスで言えば前戯どころかキスすらしていないような状態だ。男女同室で見つめ合う事は性行為では無い。

 この私の文句は、どちらかと言えば日本の教育そのものに対する物でジェンダーフリーに対する異論では無い。

 本筋に戻して、ジェンダーフリーについての異論だが、まず性差という違いは現実として存在する。

 例えば、男女の体つきの違い等は顕著な違いだ。具体的には男性と女性の骨格は唯一骨盤だけが完全に異なる。しかし、そこが異なる事によって女性は男性に比べて腰や尻周りが大きくなりやすい。そして、本能的な要因で男女は各々が魅力的と感じる異性像を己の中に持つ。その異性像が、男性視点なら『女性らしさ』であり逆なら『男らしさ』である。

 そして、成長と共に性意識や性自認が明確化し、異性に対して一定の距離感を持つようになる。この時発生する感情は、羞恥と若干の嫌悪感だ。その感情の発生源の一つは、男女共に番になりたいと思う異性がいない事が含まれる。特に女性側の本能はそれがやや強い。具体的に言えば、その雄の子孫が欲しいと感じられないのにそう言った雄ばかりが周囲にいる事による精神的負担だ。これは他の生物の繁殖行動において、雌が雄を拒否する原理がそのまま来ている。

 男性と女性の運動能力や体力的な差も無視してはならない。成長期に入ると、それぞれの性ホルモンが分泌される事によって男女共に違った体つきになる。骨格の成長速度が異なるし、筋肉や内臓の成長度合いも異なる。その結果、骨格的な強度や筋力等の身体能力に埋めがたい差が生じるのだ。

 日本教員組合によるジェンダーフリー教育は、私が上に挙げた如何ともし難い性差の存在を完全に無視している。

 違いはあるのだ。そもそも、ジェンダーとは社会的性別、例えばその社会の中での男女の役割を指す言葉なので、生物的な性別であるセックスとは異なる。そこをこのジェンダーフリー教育は完全に混同してしまっている。これでは、正しいジェンダーフリー教育は夢のまた夢だ。

 本来あるべきは、社会の中であるべき男女の役割について選択肢をもっと広げるようにしよう、と言うもの考えるべきであり、何でもかんでも男女を一緒にしたら良いというものでは無い。


 多様性を尊重すると言う価値観が主流になった現代日本社会において、一部の思想がおかしな方向に突き進んでしまう事はそれこそ多様性を損なう結果になりかねない。

 そもそも多様性を尊重する社会は、各々に違いがある事を前提としている。むしろ、違うからこそ価値があるという考え方であり、皆を平等にする事や結果の平等を求める事は、その理念に反する。

 

 違いがある事が悪いのでは無い。違いを差別する事が悪いのだ。そこまでは私も同意する。

 しかし、この問題の乗り越え方は慎重になって考えるべきだ。

 少なくとも、結果の平等や違いの無視等の安直で稚拙な手段は間違っている。

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