百式の旅行魔女
カララン、とジョッキの中でロックアイスが震える音がして。
「どれ、どれ」
この後、娘は殆ど音もなく静かに席を立ち上がり、猫を刺激せぬようそこを離れると、ツギハギだらけのローブの裾から、細く色白の手を伸ばしてターゲットのほうに向きあう。
そして、ニ、三回ほど振るった。
彼女の指先には、非常に小さな魔法杖が握られている。
魔術帽子娘は黒猫の不安げな双眸をじぃーっと直視した後、その可愛らしい姿に見惚れたのか「……ふくく、く」と朗らかに笑った。
だが、まもなく口早に呪文のようなものを詠唱開始する。
そのまなざしには先ほどまでにはない冷たい光が宿っていた。
「…………我は百式の旅行魔女、エンジェである。悪魔との契りを交わした者なり。ナンバー50! 百式の捕縛魔術よ、いざ我のために作動したまえ」
詠唱が終わるや否や、魔術帽子の少女の口元が三日月形がひっくりかえったかのように、ニィーっと吊りあがった。
「ニャ、ギャニャニャニャアアアアアアアアアア」
同時に、轟く小動物的な絶叫。
黒猫の双眸が今まさに、あたかも悪魔でも間近で見てしまったかのように見開かれていく。
そして、時が止まったかのようにそのまま動かなくなった。
「……ンニャ、ニャ」
いや、そうではない。
よーく見ると、微かに身体を動かそうともがいてはいるのだ。証拠に、猫の目はせわしなくグルグルと周回して、まさに自分の身に起ったこの事態を把握しようと努めている。
どうやら、本人としては動き出したいのだが、見えない手に身体をつかまれて、ぎりぎりと締め付けられているかのように微動だにできずにいるようだ。
この魔女と黒猫の一連の戯れ(?)に驚いた4人もターゲットと同様にその目を大きく見開いていた。
「な。なんていうことだ」
これを見ていたリックが呆気にとられたような声を上げていたが、驚くにはまだ少し早いのかもしれない。
というのも……。
「どれ、どれ、どれ」
百式の旅行魔女・エンジェと名乗った娘がパチン、と指をはじくと今度は、椅子の下から見えない手によってあっという間に黒猫が皆の面前に引きずり出されたのだ。
「ニャンーっ!」
先ほどまでの威勢の良さはどこへ行ったのやら、黒猫はいま完全に涙目だ。おまけに事態はそれだけでは留まらず、黒猫の小さな身体は天井に向かってそのままゆっくりと持ち上げられるかのように上昇していく。
「ニャ、ニャニャーっ!」
だが、最後の最後には黒猫の叫びが通じたのだろうか、地面から二メートルほどの位置でぴたりと停止した。
いや、そうでもない。
百式の旅行魔女エンジェが魔法操作で上昇を一時的に停止させているのだ。……この芸当に顔色一つ変えないことからも、彼女が恐るべき魔力の持ち主だということが分かる。
「あの、……旅行魔女さん。どうも、ありがとう。おかげさまで――」
七川が少々動揺した声色ながらも彼女に礼を言おうとした時、
「おっと、我に礼は必要ないぞ」
七川の言葉を遮ると、エンジェは再び指を鳴らした。
パチン、というその音で黒猫は旅行魔女の面前に落下してくる。魔術帽子の彼女はその落下をしっかりと受けとめて、まるでマリアがキリストを抱くかのように黒猫をツギハギローブの胸に抱いた。
そして、そのまま言葉を続ける。
「我は当たり前のことをしたまでよ」
「「「……え」」」
「……何故なら、こいつはもはや我の所有物だからだ。……我の言っている意味が分かるか?」
「「「「「な、な!?」」」」
これを聞いて4人は絶句する。
「さーて。俺は関係ない、関係ない」
一方で、ドワーフの店主はというと、まるでその光景が目に入っていないかのように振舞うと黙々と使用済みのグラスを布巾で拭いていく。
だが、それと対比して凍りつくような戦慄がいままさに店内を包みこんでいるといえよう。一触即発の空気が流れる中で、七川が感情を殺した声で尋ねた。
「……ふーむ、そういうことか。あ、名乗り遅れたけれど、わたしは私立探偵の七川若奈々という者だ。わざわざその猫を捜しに異世界にきてこれまでにトータルで百万里は歩いてきたと自負する。さて、いまの君の発言はわたしの予想外だったんだけれど、やっぱりそういうことと解釈していいのかな? ……まぁ、せっかくここまで来てんだからさ、ターゲットを目前にしてみすみす引いてくれなんて発言は少なくとも控えてもらいたいのだがね。それに争いなども希望しないので、できれば避けたいのだよね。もう一度だけ最後の希望で君に尋ねてみよう。猫、返さないつもりか?」
すると、百式の旅行魔女は、口元に薄く笑みを浮かべて。
「自己紹介などいらん。……君がその七川で、男がリック・ワーグナー素人爵、メイド姉妹がシアラとキアラのグルード姉妹じゃろう? 相手の名前など聞かずとも魔力で見える。さて、先ほどの我の発言だが、撤回するつもりはないよ? これは我。百式の旅行魔女が、この店で最初に捕まえた。だから、我が、我の行う魔術実験の材料としていただくのだと言っている。それだけだ。なにぶん、異世界では黒猫は黄金よりも価値があり貴重なのでね……。この我がこいつを見逃す理由もなければ、そのつもりもない」
「ぬ、あなたは自分が何を言ってるか理解できているんですか!」
「ぐるるっ、いますぐボクたちにその黒猫を返してくださいませ。そうすれば事態は丸く収まるのですよ!」
シアラ、キアラのグルード姉妹も七川と同様で、引き下がるつもりなど毛頭ないようだ。
このままでは悪い方向に状況が加速することは避けられない。