探偵・七川若奈々(ななかわわかなな)
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さて、リックたちが住む屋敷の裏庭に存在するこの異世界扉。青年がわざわざこのような辺境地に居を構えている理由は当然ながらこれに集約されていた。
そう、この土地こそ人間たちの生活する現代世界と異世界とを隔てるはざまにある世界のうちの一つだった。異世界扉が存在しているのがその証であるともいえる。
俗に『ハザマ』と呼ばれるこの場所は当初、リック一人で管理運営をしていたのだが、やがて異世界からやってきた2人のメイドたちがそこに加わったのである。そして、3人はそこで古書店のほかに『異世界におけるガイド役』とでもいうべき新事業を立ち上げることを模索している。
それはともかく現代世界へと戻った3人はこの世界においても高い価値を持つ3枚の銀貨をさっそく十分な金額の世界共通通貨『ロイアル』に換金することに成功。
封書を送りつけてきた件の役所に、メイド2人を連れてさっそうと出向いたリックは、
「……やあ、当方はリック・ワーグナー素人爵だ。今日は珍しく、もろもろの税の支払いにきてやったぜ」
満足げに言い放った。
「一気に払っちゃいますから!」
「払っちゃいますからっ!」
役所の質素な空間にはあまりにも不釣り合いな格好の賢狼メイドたちが、そんな素人爵の取り巻きとして口ぐちにはやし立てている。
「あ、はい。あちらのほうで受け付けますので税務課へどーぞ」
不可思議な光景の中で、若い女性職員は表情ひとつ変えずに淡々とした口調で、素人爵らを案内した。
風変りな市民には慣れているらしい。
その後、彼は固定資産税支払いをはじめとした諸々の厄介な手続きを職員たちの面前でいち早く済ませておいた。
「確かにお支払いをいただきました。ありがとうございます」
支払いを確認して笑顔を浮かべる職員たちを残して、3人は役所の出口へと足を進めるのだった。
とにかく、これで懸念事項のひとつが片付いたという訳だ。
役所での手続きが終わった帰路にて。
「……懸念事項は消えました。でも、ボクたちが思っていたよりもずいぶん帰りが遅くなってしまったのですー」
「だな。晩餐用の食材を買い込みしていたから仕方ないが」
「ですわね。まさかこんなに暗くなるとは」
彼らは余った資金で購入した食材を手にして、自分たちの屋敷に帰還すべく森を進んでいく。
3人の言葉どおり、すでに日は暮れて辺りは宵闇に包まれていた。
「着いたぜ」
「ディナー楽しみです!」
「……姉サマと同じく」
何はともあれ、一行は微かな月明かりを頼りに夜の森を抜けて『ハザマ屋敷』に到着した。
ギギィー、という音を立てて敷地を守る頑丈な鉄門が開き、次に彼らが入ろうとする頃。
「待ちたまえ!」
突如、背後で呼び止めるような声が響いた。
「な、なんだっ!?」
「ん?」
彼らが目をやると、そこには紺色の外套に身を包んだ一人の少女が微かな月光を背にして立っていた。
「わわわ、どうしてこんなところに女の子が!」
驚いて食材の一部をその場に落としそうになり、シアラが口をぱくぱくとさせる。
いったい、この少女はいつの間に。
そう、3人が3人とも一切気が付かなかったのだ。それにこの森道、一般人がそう簡単に尾行できるような場所ではない。わずかに照らす月明かりに頼るしかない宵闇の森道ともなれば、素人での追跡はなおのこと難しいだろう。
だとすれば、相手は尾行のプロか……。
リックたちを呼び止めた、この少女。
その顔はビスクドールのように整っており、漆黒のショートヘアとは対照的に肌は陶器のごとく透き通っている。まるで絵画から抜け出してきたかのようだ。
年齢は外見から察するに、グルード姉妹とそう変わらないくらいであろうか。だが、この少女の頭上に何故かシャーロック・ホームズが被るような鹿撃ち帽がちょこんと乗っているのと、手にはパイプのようなものまで携えていること、例の完璧すぎる尾行から察するに、探偵業とみてまず間違いはないはず。
「なんなのですか、この人?」
辺鄙な屋敷の前に突如姿を現したこの娘に、3人は当然ながら戸惑ってしまう。
すると謎の少女は、パチンと指を鳴らして鈴のように澄み渡る声色で平然と言ってのけた。
「驚かせたかな。リック・ワーグナー素人爵。そしてメイドのシアラ、キアラ」
「「「どうして名前を!」」」
「……まさか例の職業の人、ですか!?」
これに対して、鹿撃ち帽の少女はにやりと口角を引き上げた。
「ご名答だねぇ! わたしは私立探偵、七川若奈々(ななかわわかなな)という者だよっ。とくと驚きたまえ!」
さて、少女が言い放ったこのセリフは、リックやメイド姉妹の不安をさらに増幅させるはずだった。
あくまでも彼女の中では完璧に決まった、一言。
しかし、3人から返ってきた反応は意外にも、
「へー、私立探偵か」
「なんだつまんないですね」
「……まぁ、そうだろうなとは思ったのです」
このようなユルユルで気の抜けたものだった。
「いや、いや、いや。もっと驚けよ! 私立探偵だぞ!? この闇夜に私立探偵に尾行されている人間なんて、今現在でもごく僅かなはずだぞ! もっとなんかリアクションあるでしょ! っていうかさっきまでのシリアスモードはどうした!」
私立探偵の七川若奈々という少女は、そんな3人にすかさず突っ込みを入れる。
「……すまん。ちょいと遠出して、オーバーリアクションする余裕がないくらいに疲れててな。で、私立探偵さんが一体、俺たちに何の用だ?」
「……です。ボクたちは辺境地に住むただの素人爵とそのメイドに過ぎません。それが何故、尾行される必要があるのか聞きたいのですよ」
リックたちからすれば、実にまっとうな疑問であろう。
これに対して七川はふっと髪をかきあげる仕草を見せた。
そして、少女は悠然と言い放った。
「この国有数の資産家からある依頼を受けていてね。その調査の過程でわたしは君たちに、そして君たちがこれから入ろうとしている『屋敷』の存在にたどり着いたわけさ」
そこまで言い終えたところで、七川のお腹がぐーっと鳴った。
「なるほどな。……ところで君は空腹なのか?」
次に素人爵が七川に投げたこの質問。
「ん、ま、まぁね……。丸二日は調査に必死で何も食べてない、かな……」
これは彼女にとって図星だったようで。
切実なそれを聞いて見かねたシアラは七川に提案する。
「探偵さん。我々これから屋敷でディナータイムなんですけど、よかったら一緒にどうですか?」
「お、おい。シアラ。おまえ、こんなわけの分からないやつを晩餐に誘うなよ」
一方のリックはその提案自体が気に入らないようだ。
「いや、たまにはいいのですよ」
「おい、シアラ。おまえ誰の許可で……っ」
「……リック様。しーっなのです」
リックがあわてて止めに入ろうとするが今度はキアラが、しーっと唇の前に指を立てて彼を制した。
恐ろしいことに屋敷ではリックとグルード姉妹の関係は対等で、時と場合においてはリックよりも姉妹のほうが権力を持つこともあった。
もはや、主人と従者というパワーバランスは崩壊しているといっても過言ではない。
さて、当の私立探偵はというと。
「ええ。光栄です。じゃあお言葉に甘えて」
殆ど即答である。
ただし、直前でキアラが七川にひとつの条件を出す。
「……七川さん。その代わり、その資産家からの依頼というものをボクたちにもちゃんと教えていただけるってことが条件なのですよ」
「ううう。でも私立探偵には本来、守秘義務というものがっ」
これに対して、すかさずリックが、「じゃあ、フカヒレのスープはおあずけだな」と口を挟んだ。
この思わぬ一撃は、七川に利いたようだ。
「話します! 話しますよぉー」
結局、フカヒレスープという最終兵器を前に探偵、七川は白旗を上げるに至った。
「私立探偵の守秘義務って……フカヒレスープより軽いんだ」
「それはボクも思いました姉サマ。でもあえて突っ込まずです」