リック・ワーグナーの消失
「なぁ。とりあえず落ち着こうぜ。……ここは冷静に話し合ってみよう」
状況悪化を懸念した素人爵はそんな言葉で「まぁ、まぁ……」とお互いをなだめにかかるが、どうやらそれは困難なようだ。
エンジェが眉間にしわを寄せて怒鳴った。
「……うるさいな。黙っておれ、若造! 我は外見こそ若いが、これでも千年以上を生きて荒地で修行を積んだ天才魔女だ。貴様ごときに諭される覚えはないぞ」
むしろ火に油を注ぐことになってしまった。
しかも、それだけでは終わらない。
「ふくくく、それともなんだ? どうしてもこの黒猫を返してほしければ我とやりあうか? 雑魚ども」
百式の旅行魔女は胸に抱いた黒猫をこれ見よがしに見せつけて、そんな挑発まで4人に仕掛けてきた。
だが、この挑発に乗るのは危険だ。
明らかに魔女の力は4人の手に負えるものではなく下手に関われば命すら落としかねない。それだけ、いま危険な状況にいるのだということをリックは認識して、ごくりと喉を鳴らした。
「…………くぅ」
気が付けば、彼の頬には冷たい汗がにじんでいた。
絶体絶命のピンチ。さて、どうするか。
しかし、そんな彼の意識とは裏腹に七川若奈々やシアラ、キアラのグルード姉妹はもうすでに腹をくくっているようだった。
「やるだけやってみてもいいよ? このまま尻尾を巻いて逃げてもきっと後悔することになるだろうからね」
と、七川は吐き捨てると、バサッと外套を揺らして腰のホルスターからきらりと鋭い黒光りを放つ物騒なものを取り出した。
それは、程よく手入れされた回転式拳銃だった。
現代世界ならすぐさま銃刀法違反となる代物だが、異世界では銃刀法はほどよく緩和されているためにそれには当たらないのかもしれない。もっとも、本物ではなくてただの空気銃(威力強化版)の可能性も否定はできないだろうが……、どちらにしろ無傷で済む代物ではない。
「やってあげますよ」
「売り言葉に買い言葉ですね。姉サマ」
シアラとキアラも、ガソゴソと懐から何やら取り出す。
七川と同じく物騒な飛び道具かと思いきや、そうでもないらしい。
彼女たちの手にそれぞれ握られているのは、宗教徒が祈りをささげるのに使う一般的なロザリオに宝石が埋め込まれたものに見える。
これで賢狼の娘たちは必殺技なりを繰り出すのだろうか……。
どちらにしろ、彼女たちにも獣人の確固としたプライドがあるだけにここは引くに引けない状況らしい。
さて、一方でリックはというと。
「当方、いつでも逃げる準備はできてますよ」
そう言って、ハンチングをぐいっとひっぱる。と、やがてカバンから一冊の分厚い本を取り出した。
これまた用途不明である。
この本……。何らかの武器になり得るのだろうか、それともただの……読書用なのか。
「ふ、いいじゃろう。待っておったぞ。その買い言葉をな」
旅行魔女がさも嬉しそうに「ははははは」と笑うと、彼女のローブの裾がバサバサと揺れ始めた。室内だ。当然ながら風などはないはずである。だが、それにも拘わらずローブの裾は確かに強く揺らめく。
いままさに、百式の旅行魔女と猫捜索団の4人との間、戦いの火ぶたは切って落とされたのだといえる。
「じゃあ俺は外で読書してくるんで、やばくなったらせめて一報を入れるように」
やっぱり、リックの文庫本はただの読書用だった。
そのように呑気な言葉を残して、素人爵がそちらに背を向けた時だった。
「ふ、意気込みだけは買うが、貴様らの実力など、とるにたらん。無駄な体力の消耗であろう。手早く片付けてやるぞ」
エンジェがぱちんと指をはじく。
すると、リックの足もとに何やら小さな穴が現れる。
「ん、なんだ!」
それは瞬く間に拡大していき、マンホールのように巨大な深淵へと姿を変える。
「…………我は百式の旅行魔女、エンジェである。悪魔との契りを交わした者なり。ナンバー55! 百式の強制移動魔術よ、いざ我のために作動したまえ」
「え、え、うあああああああああああああああああっ」
その詠唱が終わると同時に、素人爵の絶叫が店内に響きわたった。
そして、彼の手にしていた文庫本のページが風圧でパラララと無造作にめくりあがる小さな音が続く。
さて、この質素な断末魔を最後にリック・ワーグナーは居酒屋から完全消滅した。
「わ、わああ、リックが消えた! おまえ何したんだ! あいつに!」
目の前で起きたこの恐ろしい事態に、七川が動揺して叫ぶ。
ギジッ、と渋い音がして恐怖感に駆られた彼女の指が回転式拳銃の撃鉄を起こしていた。
「う、うわあああああああ。リック素人爵!」
「リック様ーっ!」
「「うわわああああああああああああああああああん」」
次にはシアラ、キアラの咆哮に近い悲鳴が店内を包み込んでいた。
しかし、百式の旅行魔女はこれに臆することもなく、
「あいつは死んではない。この広い世界のどこかに強制転移したのだ。あの大穴に落ちたことによってな。だが、言い方によるな。やはり穴に落ちれば最後だ。もはや、どこにいくかはランダムなために推測不能。施術者である我にもどうすることもできない。案外、その辺でひっくり返っているのかもな。ふ、くくく、あははは」
淡々とそのような事実を述べて微笑すら浮かべていた。
と、次の刹那。
「「グランド…………クロス!」」
――――ドガッ!
「……ぐは」
いち早く危機を察して素早く防御呪文を詠唱したが、完全には間に合わない。
「うくぐぐ」
百式の旅行魔女エンジェはすさまじい一撃をその身に受けてがっくりと膝をついた。




