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第二話 空色の衝動

 初雪の日以降、数日に一回は降り積もる雪は、確実にその厚みを増していった。智也と鈴音の日常は、その雪の量以外は変わることなく続いていた。

 その日も、智也は鈴音を待って海辺の道に立っていた。いつもの様に、父親が仕事をしているはずの宇宙センターを眺める。かつて打ち上げ前のロケットを格納していた巨大な建物の辺りで、何かが動いているような気がした。父さんかな、と思って智也が身を乗り出したとき、いつもの声が聞こえてきた。

「おはよーう、智也君」

 振り向くと、雪を踏みしめて、鈴音が歩いてくるのが見えた。積雪は増えているのに、数日前より歩くのが早い。

(そう言えば、スノートレーを予約したとか言ってたっけ。昨日連絡船がついたから、買ってきたんだな)

 スノートレー……スノートレッキングシューズは、雪道でも歩きやすい靴で、さすがにこの種子島では今まで入荷してこなかった。今年は積雪が十センチを越えるかもしれない、と言われていたので、島の商店でも扱う事を決めたらしい。智也が目を凝らしてみると、確かに鈴音の足には見覚えのない、白い靴が履かれていた。その威力か、いままで雪道を及び腰で歩いていた鈴音も、今日は軽やかな足取りだ。

「おはよう、鈴音。それ新しい靴か?」

 智也が呼びかけると、鈴音はその場にいったん止まって手を振った。

「うん、そうだよ! 智也君にも見せてあげるね!!」

 そう言って、今度は小走りに進み始める。さすがにちょっと危なっかしい。智也は声をかけた。

「おい、そんなに焦るなよ。いくらスノトレでも転ぶぞ?」

 そう言った途端、鈴音は何かに驚いたような表情になり、そしてその場でバランスを崩した。

「あ、危ない!」

 智也は飛び出したが、間に合うはずもなく鈴音はすってーん、という擬音が聞こえてきそうな勢いで尻餅をついて転んだ。しかし、痛いとか何かを言う事もなく、呆然と空を見上げている。智也は走り寄ると、彼女に手を差し出した。

「おいおい、気をつけろって言っただろ? なんだよ……そんなにショックか?」

 声をかけても鈴音がぼうっとしているので、智也は彼女の前で手をひらひらと振った。すると、鈴音ははっとしたように手を上げて、自分よりずっと上にある智也の頭の、さらに上の方を指差した。

「ち、違うよ智也君! あれ! あれ!」

「ん?」

 智也は鈴音が指差した方向を見て、そして絶句した。

 先ほど、鈴音が来るまで見ていた宇宙センターのほぼ真上、わずかに浮かんだ雪雲のそのさらに上に、何か光るものがあった。高度ニ~三万メートルに滞留する灰雲の中にあるらしく、ぼうっと霞んでいる。

「な、なんだ……?」

 智也は呟いた。その時、光源は高度を下げてきたらしく、光の輪郭がはっきりしてきた。それにしても早い。ニ万メートル以上離れているはずなのに、はっきりと移動している事がわかる。飛行機かとも思ったが、今の時代、そんな高いところを飛ぶ飛行機はない。

 そして、見上げる二人の前で、それははっきりとその姿を見せ始めた。

(火の玉……?)

 智也は思った。それはまさに火の玉としか言いようのない外見だった。白い何かの周りを、真っ赤に燃える炎が取り巻き、尾を引いて空を突き進んでいる。数もひとつではない。とりわけ大きな火の玉の周りを、それよりずっと小さな幾つかの火の玉が取り巻いている。たまに中心の大きな火の玉が爆ぜ、小さな火の玉を吐き出している。

(なんだ……隕石? いや、氷の塊……?)

 先祖から受け継がれる智也の視力は、頭の真上を通り抜けていくそれを、はっきりと捕らえていた。父親がたまに島焼酎に入れているロックアイス。それと良く似た、半透明の氷の塊のようなものが、燃えながら空を駆け抜けていくのだ。幻想的な光景だった。

 燃える氷塊はやがて水平線の向こうに消え去り、それが幻でなかった証拠に、灰雲よりも鮮やかな白い軌跡を空に残していた。長い時間が掛かったようにも思えたが、実際には十数秒の出来事だっただろう。

「智也君、今のは一体なんだったの?」

 まだ座り込んだままの鈴音に聞かれ、智也は我に返った。

「わからない……たぶん隕石だとは思うんだが。いや、流星か」

 智也の答えを聞いて、鈴音の表情が曇った。

「隕石? 落ちたら大変な事になるんじゃない?」

「いや、そんな大きいものじゃない。たぶん直径十メートルくらいだと思うが……」

 智也は答えつつ、鈴音の手を取って身体を起こしてやる。彼女は不安げに智也に身を寄せてきた。

「でも……怖いよ」

 いつも朗らかな……悪く言えば能天気な鈴音が、今日ばかりは何が起こるかわからないという不安感に囚われているらしい。智也は安心させるように彼女の手を握り、力を込めた。

「大丈夫。あのくらいなら、地面に落ちる前に燃え尽き……ん?」

 智也が途中で妙な声を上げて言葉を止めたため、鈴音はさらに不安そうな声で聞いた。

「ど、どうしたの?」

「いや、あれ……」

 智也は流星が落ちてきた方向を見ていた。そこの空が、今まで見たことのない不思議な模様を描いていた。灰雲が渦巻き、よじれ、まるで垂れ下がるように下に向けて伸びていく。そして、耐えきれなくなった様に一気に崩れ始めた。まるでトンネルや洞窟の天井が崩落して、そこから砂や土が落ちてくるように、灰雲から何かが落ちてくる。その反応は一気に加速し、流星の軌跡に沿って空が落ち始めた。

「何かわからないけど、危ない気がする……鈴音、走るぞ!」

「え? ちょっと待って、智也君!」

 智也に手を引かれた鈴音が、慌てた声を出しながらも、必死についてくる。智也は何か隠れる所はないか、と周りを見回し、用水路にかかる橋を見つけた。コンクリート製の頑丈な橋で、この季節には用水路には水がなく、たまに水溜りがあっても底まで硬く凍り付いている。

「あそこに隠れるぞ!」

 智也はそう言って、鈴音の手を引いて用水路の脇の斜面を滑り降りた。振り向くと、落ちてくる空がますますこちらに近づいてくる。小さいが風切り音も聞こえてきた。やがて、落ちる空の先端が二人の頭上に達したのとほぼ同時に、彼らは橋の下に潜り込んでいた。

「と、智也君?」

 まだ事情のわからない様子の鈴音を、智也は橋脚に押し付けるようにして言った。

「じっとしてろ……何かが来る……!」

 彼がそう言った時、最初の落下音が傍で響いた。用水路の底の水溜りの氷が砕け、その中心部に握り拳大の氷塊が転がっていた。やっぱり、と智也が思うより早く、ゴッ、ゴッ、と言う落下音が周辺で響き渡り始めた。

「な、何なの!?」

「雹だ! それも大きい!!」

 智也は鈴音の悲鳴に答えたが、それも連続的に続く雹の落下音と風切り音にかき消されがちだ。やがて突風も吹き始め、橋の下のはずの彼らの足元にも、風に流された雹が落下する。砕けた地面の欠片が二人の身体を叩いた。智也は鈴音の身体を抱きしめ、目を閉じて致命的な雹の直撃がない事を祈った。

 ゴウゴウという風の音、雹が落下して地面を叩く音、風切り音が一体になった響きは、どれだけ続いただろう。気がつくと、辺りは静寂に包まれていた。そして、瞼を通しても感じる暖かい光。

(……終わった……のか? でも、この暖かさは何だろう?)

 目だけでなく、頬や身体の半面に暖かさを感じ、智也は目を開けた。

 最初に目に入ったのは、半分ずれた眼鏡のまま、ぎゅっと縮こまっている鈴音の顔。ああ、無事だった、良かったと思いながら、智也は周囲に眼をやって驚いた。

 大きいものでは赤ん坊の頭ほどもあろうかという雹が、周囲の地面を埋め尽くしている。だが、驚いたのはその事だけではない。

 雹は光って……いや、輝いていた。どこからか差し込む光を浴び、まるで虹のような……虹を智也は見たことがなかったが……七色の光を放っている。その光源が何かを探して智也は空を見上げ、そして目を見開いた。

 それは青色だった。

 白い空しか知らない智也の目に映る、初めての青。それが空を二つに割って水平線の向こうへ続いている。そして、そこから差し込むのは、暖かく、眩しいほどの光だ。

「鈴音……見ろ。見てみろ!!」

 智也の声に、固まっていた鈴音も目を開ける。

「何これ……眩しい。私たち、死んじゃったの?」

 呆けたように言葉をつむぐ鈴音の身体を、智也は揺さぶった。

「死んでなんかいない! それよりも空を見上げてみろよ!!」

「え? あ……なに、これ……!?」

 鈴音もまた、痛みすら覚えるほどの光と青に言葉を封じられた。

 流星の軌跡に沿って、どこまでも伸びる青い帯。そこから差し込む光が雹や雪を輝かせ、建物や木々の姿を黒く地面に縫い付けている。それを見ながら、智也は言った。

「青空だ……」

「青空?」

 まだ夢の中にいるような鈴音の言葉に、智也は頷いた。

「そうだよ。青空だ。写真や古い記録映像で見たことがあるだろう? これが……本当の空の色なんだ……!」

 智也はそう言いつつ、視線は空に釘付けだった。

 青空……真の天空の色。そう言うものが存在していた事を、知識としては二人も知っていた。写真などで見たこともある。だが、どうしてもそれを現実的に捉える事はできなかった。空は白いもの。二人が生まれた世界は、それが当然の世界だったのだ。

 だが、これはどうだろう。

 どこまでも澄み切った青。天井のような限りあるものではなく、無限の深みと高さを持った青。写真や映像記録でははかり知る事のできない光景が、そこにはあった。

 青空だけではなく、太陽の光もまた、二人には驚きだった。太陽そのものは雲に隠れて直接は見えないが、それでもその眩しさは圧倒的だった。眩しいだけではなく、光の差し込む世界の何と鮮やかな事か。白いだけだと思っていた雪や氷が七色の光を放ち、鉛色しか見たことがない海が、空の青とはまた違う鮮やかな碧に染まっている。そして、木や家々の屋根もまた、普段とは違う鮮やかな色彩を見せていた。

 白い空と白い大地。モノトーンの世界しか知らなかった二人が見る、初めての世界だった。

(これが、「大噴火」以前の世界なのか……)

 立ち尽くしたまま、それを見つめていた智也だったが、ふっとあたりが暗くなった。同時に鈴音が彼の服を引っ張る。

「智也君、あれ……」

 彼女が指差す先では、空を切り裂いていた青色の帯が狭くなり、再び閉じようとしていた。智也は思わず叫んでいた。

「ま、待ってくれ! 閉じないでくれ!!」

 智也は手を天に伸ばした。そうすれば閉じていく雲の裂け目を、もう一度開けるかのように。しかし、無情にも灰雲は再び空を閉ざし、世界は白のモノトーンに戻った。

「……凄かったね」

 鈴音が言ったのは、空が閉じて数分後の事だった。

「世界は、あんなに綺麗なものだったんだね」

 鈴音はさらにそう言葉を続け……智也の返事がない事をいぶかって顔を上げた。

「智也君?」

 彼女が見上げる智也の顔は、それまで見たこともない、真剣な色に満ちていた。実際、智也は生まれて初めて、と言うほど集中して頭を回転させていた。鈴音の声も聞こえないほどに。

(流星が飛び去って……どうして、その後に雲は崩れたんだ? 何であんな雹が降ってきたんだ?)

 難しい顔をしたまま、立ち尽くしている智也が流石に心配になり、鈴音はもう一度、彼女としては思い切った大声で声をかけた。

「……智也君!!」

「はっ!?」

 智也は我に返ったが、次の瞬間、鈴音の肩を持って、有無を言わさない口調で言った。

「鈴音、済まんが今日は欠席する! 先生にはそう言っておいてくれ!!」

 言うや否や、智也はその場に鈴音を置き去りにして、全力疾走で走り去っていった。

「え? ちょ、ちょっと智也君! それってどういう事なの!? と言うか置いていかないでよー!!」

 鈴音は慌てて後を追おうとしたが、雹がごろごろと転がって足場が悪くなっている状況で、走るどころかまっすぐ歩くのも難しい状態だった。その間に、智也の背中は遠くかすんで見えなくなってしまっていた。どうやら、家ではなく、宇宙センターへ向かっているらしい。しかし、鈴音にはその意味を考える余裕はなかった。

「わ、わわ……あ、危ない……! うう、智也君のばかぁ……」

 ペンギンよりもぎこちない足取りで、鈴音は「ファウンデーション」への道を辿って行った。

 

 それから三日間、智也は「ファウンデーション」に姿を見せなかった。心配した鈴音は星見家に電話をかけたが、智也の母に「父さんと何かしてるみたいだけど、病気と言うわけじゃないから心配しないで」と言われただけで、本人と話をする事はできなかった。

 結局、あの青空を見た日から四日経ったこの日の朝も、鈴音は一人で「ファウンデーション」に向かっていた。

「もう……智也君ってば、何してるんだろ? 私にだって教えてくれてもいいのに……」

 思わず愚痴が口を付いて出る鈴音。しかし、その時彼女はいつもの待ち合わせ場所に、智也が立っているのを見つけた。

「あれ? 智也君……なに? その顔」

 近づいて挨拶しようとした鈴音だったが、智也の顔を見て思わず呆れ声を出してしまう。と言うのも、この三日間髭を剃っていなかったらしく、かなりむさくるしい様子になっていたからだ。

「ああ、おはよう。鈴音……まぁ、顔のことは気にしないでくれ。それより、先生に話があるんだ。急ごう」

「え? ちょ、ちょっと智也君! それってどういう事なの!? と言うかこの前からこんなのばっかりー!!」

 そう口では言いつつも、今日は智也が自分を置いてけぼりにせず、手を引いて走っている事に安堵する鈴音だった。

 

 三日ぶりに会う式部の反応は、鈴音と似たり寄ったりだった。

「やあ、おはよう、星見君……どうしたんだね? その顔は」

「いや、顔のことは気にしないでください……それより先生、三日前の事は覚えていますか?」

 智也の言葉に式部は頷いた。

「あの青空の事だろう? 私も見たし、ニュースにもなったからもちろん知っているが……」

 そこで、智也は鞄の中からレポートフォルダを取り出しながらさらに聞いた。

「先生は、何故あの空が見えたと思いますか?」

「ん? 隕石通過の際の衝撃波……とテレビでは言っていた様な気がするが」

 式部は首を傾げつつも答えた。彼は三日前のその時、この「ファウンデーション」にいて、直接流星を見ておらず、近所の人が騒ぎ出した所で、ようやく青空が出ていた事に気づいたのである。幸いこの時の雹落下地域は山林や田園地帯を横切っており、人的被害は少なかった。数軒の家やたまたまそこを走っていた車が雹の直撃を受けて大破し、何人かの重傷者はでたものの、死者は出なくて済んだ。

 流星自体は智也以外にも目撃者がいたものの、記録映像は残っておらず、青空の正体は衝撃波によって灰雲が引き裂かれたため、とテレビでは専門家のコメントとして紹介されていた。

「違うんですよ、先生……あれは隕石じゃありません。大きな氷の塊でした。たぶん、彗星か何かから分離した、大き目の欠片です」

 智也が当日、鈴音と一緒に流星を目撃したときの事を説明すると、式部はほう、と感心したように言った。

「それが氷の塊だと見て取れたのか。さすがは太郎兵衛の子孫と言うべきか……大したものだな、君の視力は。しかし、それが一体?」

 式部も、智也が何か大事な事を言おうとしている事には気づいたらしく、先を促した。智也は頷いて、テーブルの上にフォルダから取り出したレポートを一枚、式部の前に置いた。

「これが重要な事なんですよ……もしあれが氷の塊なら、大気圏突入時に、高熱で溶け、蒸発しながら落下して行ったわけですね。当然、その軌跡にはあるものが大量に残されます。それが、流星通過直後のある現象を引き起こした……」

 智也がそこまで言った時、話を聞きながらレポートに目を落としていた式部も、智也の言いたい事に気づいて、手をポンと打った。

「水蒸気か!」

「そうです、先生!」

 そこで、まだわからない鈴音が手を挙げた。

「えっと……どういう事?」

 そこで、智也は鈴音にもレポートを見せた。それは、雲の形成についての仕組みを解説したものだった。

「鈴音、普通の雲は、ただ水分だけで出来ているわけじゃない。水蒸気が凝結して、微細な水滴がいっぱい出来て、それが雲を作るわけだけど、それには空中の小さな埃とか、何かしら核になるものが必要なんだ」

「うん、それで?」

 まだわからない様子の鈴音に、今度は式部が先を続ける。

「星見君と君が見た隕石、いや、流星は、大きな氷の塊だ。それが灰雲の中を通過する時、大気との摩擦熱で溶けて蒸発して、大量の水蒸気を発生させる。すると、その水蒸気は周りの火山灰を核にして凝結し……」

「あっ……あの時の雹?」

 鈴音もようやく気づいたらしく、そう聞くと、智也は頷いた。

「ああ。あの時雹が太陽の光を浴びて凄く綺麗に光ってただろう? あれはただの氷じゃなくて、中に灰雲……元は火山灰だったものがかなり含まれているからさ。中の灰が光を乱反射させるから、あんなに光っていたんだ」

 智也がそう言うと、式部は感心したようにしきりに頷きながら、レポートの続きを手に取った。

「うむ。ただ衝撃波で雲が散らされただけなら、あんな雹は降ってこないからな……良く気づいたね、星見君」

「ええ、まぁ……」

 智也は照れたように顔を赤くし、頭を掻いたが、すぐに真顔に戻って続けた。

「で、本題はこれからです。レポートの次のページから先を見ていただけますか、先生」

「ん? これかね?」

 式部はレポートをめくり、数ページ読み進めたが、その間にみるみる顔色が変わり、真剣な表情になっていった。十分ほどしたところで式部は顔を上げ、智也を見て口を開いた。

「星見君、これは本気かい?」

 智也はうなずいた。

「もちろんです。念のため、父さんにも相談してみました」

 ただならぬ雰囲気に、鈴音は式部が脇に寄せたレポートを拾って読んでみた。いったい何が書いてあるのだろうか、と軽い気持ちで思ったのだが、そこにあるのはさすがにのんきな彼女すら顔色をなさしめるものだった。

「成層圏清掃計画」

 と表題のつけられたレポートは、まず三日前の流星とその後に起きた雹の関連性について論じていた。そこまでは先程鈴音も聞かされた内容だが、その後が彼女の想像を超えるものだった。

 レポートは高高度を漂う灰雲に対し、その高度に水蒸気を飽和させることで雲を発生させ、雨や雪、雹の形で地上に灰雲を落としてしまうことで、日照を回復させ、地球の寒冷化を防ごうと言う趣旨だった。だが、高高度大気圏に水蒸気を大量に発生させる、その手段が尋常ではなかった。

「……わかっているのかね、星見君。この方法を使うことは確かに効果的かもしれないが……一歩間違えば『大噴火』よりも悲惨な、それこそ一発で人類もろとも地球を全滅させかねない大災害を起こしうる手段だよ」

 驚きに目を見開きながらもレポートを読み進める鈴音の横で、式部と智也の会話は続いていた。

「もちろんわかっています。ですが、他に手段は無いのではないかと」

 はっきり答える智也。そんな彼に、鈴音はレポートのその箇所を指で指し示しながら言った。

「でも、だからって……こんなの危ないよ!」

 彼女が指し示している部分には、こう書いてあった。


「彗星の軌道を変更し、地球に落下させるコースを取る」


 式部だけでなく、鈴音から危険性を指摘されても、智也は強い意志を感じさせる口調を崩さなかった。

「わかってるよ、鈴音。俺も他に手段が無いか、いろいろ考えたんだ……海水を蒸発させて、高高度に送り込むとか。でも、それほど大量の海水を蒸発させる手段が無いんだ。ただでさえ灰雲の影響で、海水が蒸発しなくなっているのに」

 智也の言うとおりで、灰雲による全地球的な寒冷化の結果、赤道直下でも海水の蒸発するペースは、「大噴火」以前の四割以下にまで減っている。空気は全地球的に乾燥し、また寒冷化によって湿気を大気上層まで運ぶ上昇気流も弱まっているため、灰雲にまでほとんど湿気が届かず、大気上層部はより乾燥する方向で変化している。

「だから、彗星を使うんだ。彗星はほとんど氷の塊……あの流星のようにね。でも質量は桁違いだ。直径二十キロくらいの彗星を地球まで持ってきて、粉々に砕いて大気圏に落とせば、上層大気が水蒸気で飽和して、灰雲を洗い落とすことができる」

 それが、あの流星を見て智也が発想した事だった。直径十メートル程度の流星でも、長さ数十キロにわたって灰雲に切れ目を入れることができたのなら、数億~数兆トンもある彗星を丸ごと使えれば、もっと広範囲の灰雲を洗い落とすことができるかもしれない。それこそ、全世界の。

 黙ってレポートを見直していた式部は、智也にもうひとつ質問をした。

「趣旨はわかった……でも、そんなに都合良く彗星が地球のそばに来るかな?」

「ええ。五年後……正確には五年と二ヵ月後、テュールパン彗星が地球から五百万キロの距離を通過します」

 式部は本棚から理科年鑑を引っ張り出して彗星に関するページをめくった。テュールパン彗星は十八世紀にフランスの天文学者テュールパンが発見した彗星で、約三百年周期で太陽に接近する軌道を描いている。核の直径は十二キロ、質量は十兆トンと推定され、その八割以上が氷。残りは炭素化合物の混合物という、典型的な彗星の一つだ。

「五百万キロ……それでも、月までの距離の十倍以上だよ。それに十兆トンもある物体を動かすのに、どれだけのエネルギーが要る? 月ロケットを百本取り付けても動かないことは間違いないよ。そううまくいくとは……」

 悲観的な見通しを立てる式部。その時、智也はバンと音を立てて机を叩いた。

「人類は、恐竜とは違います! 確かに難しい事かもしれない。俺の言ってることは夢物語かもしれません。でも、黙って大人しく滅びることなんて、俺にはできない!!」

 式部と鈴音は、唖然とした表情で智也を見た。

「前に、先生は言いましたよね。俺たちは滅亡と言う運命に、静かに向き合っているって。俺自身そう思っていました。もうどうしようもない事だから、大人しくその運命を受け入れようって」

 鈴音が頷く。初雪の日に、この「ファウンデーション」で式部と交わした会話の一部だった。

「でも……あれを見てしまった時に、俺は気づいたんです。本当は静かに滅んでいくなんてできないって。あの綺麗な世界をもう一度見たい。あの世界で生きて行きたい。いや、帰りたいんだ。あの、本当の地球の姿の中に。光あふれる、暖かな世界に帰りたい」

「……あの日の、青空のことだね?」

 式部の言葉に、智也は頷いた。

「そうです。先生もそう思いませんか? 俺たちと違って、先生は青空を知っている世代でしょう?」

 式部は黙って目を閉じた。智也も何も言わず、鈴音もじっとその沈黙を見守りながら、智也の言葉の意味を噛み締めていた。そして。

「智也君の言う事、良くわかる……私たちの世界は真っ白で、寒くて……それが当たり前だから、別になんとも思っていなかったけど、でも、本当は世界はこうじゃないんだよね。もし、あの色のある世界に行けるなら……私もそうしたい」

 鈴音が言うと、式部は目を開け、苦笑を浮かべて智也、続いて鈴音の顔を見た。

「……君たちはひどい奴だな、星見君、神津君」

「……えっ?」

 思いがけない言葉を投げかけられ、きょとんとする智也と鈴音。その意味を問い返すより早く、式部は後を続けた。

「私が滅びに向かい合い、受け入れる覚悟を決めるまで、いったい何年かかったと思う? 生半可な覚悟じゃなかったんだぞ。それを君らはたかが十枚程度のレポートで……だが、良いじゃないか。綺麗に死ぬより、惨めにもがいてでも生きて行こうと言う気になったよ」

「じゃあ、先生……!」

 喜色を浮かべる智也に、式部は答えた。

「やってみよう。私の知り合いの学者連中全員に聞いてみる。君の……そう、“たった一つの冴えたやり方”実現の為に」

 式部は立ち上がり、手を差し出した。まず智也が、続いて鈴音がその手を握る。

 絶望に凍える世界を救うための戦いが、この日、たった三人の手で始められた。


 智也の「成層圏清掃計画」レポートを基にした戦いは、その規模を大きくしていった。最初は式部の友人・知人の学者、とりわけ天文学や気象学の分野の学者たちに話が持ちかけられ、実現性に向けての検討が始まった。

 実のところ、成層圏に何らかの形で水蒸気を大量に送り込み、灰雲を洗い流してしまおう、と言う意見は気象学の分野では検討されていた。が、その手段が見つからなかったのは智也のレポートと同じだった。中には海面高度で多数の核爆弾を爆発させ、その威力で高層大気に水蒸気を送ろうと言う乱暴な意見もあったが、今度は「核の冬」が起こりかねない、と言う事でその意見は却下されていた。

「だが、これは面白いな。大地から生み出された災厄を宇宙から制する。毒をもって毒を……ってやつなんだろうが……やはり若者は発想が柔軟でいいな。我々には思いつかないアイデアだよ」

 式部の友人の天文学者はそう言って「成層圏清掃計画」を褒めちぎったが、逆に懸念する意見ももちろんあった。

「彗星の軌道変更か……今地球上にある核爆弾を使えば十分可能だが、一歩間違えると人類に止めを刺しかねん。水蒸気を高層大気に送る、と言うアイデアは買うとしても、他の手段を使うべきじゃないか?」

 ある気象学者はそう言って、柔らかくではあるが計画を批判した。

 また、反対意見の中には、彗星を破壊してしまうことに反対する意見もあった。

「アイデアとして有効なのは認めるが、人類のエゴの為に彗星を破壊するのはどうか……それに、生命の源が彗星によってもたらされたと言う説もある。彗星を地球に落とすことで、未知の生物による汚染などが起きる心配は無いだろうか?」

 と言うのが代表的な意見だった。しかし、全般として賛成ないし、実現性を具体的に検討すべき、という意見が多く、頃合を見て、計画は各学会を集めた研究会の場にまで持ち込まれた。この時には、ある程度具体的な計画案の骨子が作られ始めていた。

「核パルスエンジンを搭載した宇宙船を建造し、それで彗星のコアまで航行。彗星とドッキングし、宇宙船の推力で軌道変更を行うとともに、コアを破砕するための核爆弾の取り付けを行う。地球投下軌道に乗ったら、宇宙船の乗組員は脱出ブロックで彗星を脱出し、地球へ帰還。彗星はその後爆破され、無数の破片となって地球大気圏に突入する」

 核パルスエンジンは宇宙船の後方で核爆弾を爆発させ、その衝撃波をやはり後部に取り付けた金属プレートで受け止めて、反動で推進するものだ。これだけ書くと乱暴に聞こえるが、現時点で人類が作りうる最高性能の宇宙船用エンジンであり、これを搭載した宇宙船なら、一回のミッションで月面に恒久基地を建設できるほどの物資と人員を運ぶことができる他、冥王星まで一年で往復できると見積もられている。

 現在テュールパン彗星は木星近辺にあるが、今から急いで核パルス宇宙船を建造すれば、彗星が火星軌道までやってくる頃にはドッキングが可能と研究会では結論された。

「問題は……」

 オブザーバーとして研究会に参加していた式部が切り出した。

「日本は核爆弾を製造できないこと、そして部分的核実験禁止条約をどうするか、ですね」

 それを受けて、研究会の座長を務めるある国立大の物理学の教授が言った。

「事はもう日本だけの問題じゃないし、こんな大計画を成し遂げるには、世界中の国の協力が必要だろう。条約に関しては、軍事利用ではないのだから、例外扱いしてもらうさ」

「では、そろそろ政治の世界に話を持ち込むべきですね」

 別の学者が言う。

「それだけではなく、マスコミ発表も行うべきじゃないかな」

 さらに別の学者……社会学専門が言った。政治だけでは、あっさり無視されて終わりになる可能性がある。世論を盛り上げて実現に向かわせるには、マスコミ対策が不可欠だ。

「政治に関しては、私の同期で今は国会議員をしている奴がいます。そいつに話をしてみようと思っています」

 式部が言った。智也たちと共にこの計画を進めると決めた時から考えていた事だった。

「そうだな。そうすると、何かこう、見栄えのする名前がこの計画には必要だね。いつまでも『成層圏清掃計画』ではパッとしない」

 座長が答えると、式部はそれですよ、といって身を乗り出した。

「実は、教え子の女の子がいいアイデアを出してくれていましてね。『スカイスクレイパー計画』と言うのはどうでしょう」


 学会に話を持ち込む前、式部と智也、鈴音で基礎アイデアを詰めている時に、鈴音が出した名前がそれだった。

「スカイスクレイパー? 摩天楼……って意味だっけ?」

 智也が言うと、鈴音は頷いた。

「うん。成層圏清掃計画って、ちょっと言いにくいでしょ? スカイスクレイパーって、直訳すれば『空を磨く』って言う意味だし……駄目かな?」

 智也は首を横に振った。

「駄目な事ないさ。良いんじゃないか?」

「うむ、頃合を見て提案してみよう」

 智也と式部がそろって賛同すると、鈴音はにこっと笑った。智也と式部に比べると理系に弱く、会話に着いていけない事もある彼女にとって、提案が受け入れられたことは素直に嬉しい出来事だった。

 式部はその時の約束を守って、今その名前を提案したのだ。それを聞いて、研究会の座員たちは手を打った。

「うん……悪くないな。よし。一週間後までに、結論を正式なレポートにして提出できるようにしよう。式部君、政界への繋ぎをよろしく頼む」

 座長の言葉を受けて、研究会は解散した。


「スカイスクレイパー」と改名された計画は国会に持ち込まれると共に、大々的にマスコミへの発表も行われ、世界的な注目を浴びた。当初国会のほうでは絵空事と捉える議員が多く……これ自体は悪いことではない。政治家は現実を見る仕事だからだ……これと言った反応を得られなかったが、マスコミ報道とそれに伴う世界各国の反応のほうが、日本の政界を動かした。

 特に熱心なのは、国家滅亡の危機を迎えているロシアや北欧諸国、カナダなどで、ロシアでは大統領が自らこの計画に全面的に協力する、という演説をしたほどである。

「日本の科学者が発表したこの計画は、わが国のみならず人類にとって福音だ。仮に日本が実行しないといっても、わが国だけでも計画を遂行する。そして祖国に暖かな日差しを取り戻す」

 これを受けて、アメリカでも大統領が演説を行った。

「摩天楼と言う言葉は、わがアメリカで発祥した。人類の未来を開く新たな摩天楼の建設も、わが国が全面的に協力すべきだと私は信じる。フロンティアスピリッツで、閉ざされた空を再び開こうではないか」

 言いだしっぺの日本が出遅れてはたまらん、とばかりに、国会は最優先でこの問題を審議する一方で、首相が記者会見で計画について触れた。

「先日の報道で皆様もご存知の『スカイスクレイパー計画』ですが、わが国としては国連でこの計画に対して全世界が一致団結して協力し、推進していくよう提案するつもりです」

 実際には国会でも閣議でも国連に提案するなどと言う話は出ておらず、首相のフライングに近い発言だったが、一気に計画が盛り上がる機運にはなった。何だかんだ言って、日本人の国連信仰は健在だったと言うところだろうか。ともあれ、半月後には実際に臨時国連総会が開かれ、国連直属の計画推進理事会および実行機関としての「国連航空宇宙局」が設立される事と、理事国として日米露英仏独中の七カ国を選出することなどが決まり、それと前後して、閉鎖あるいは縮小していた各国の宇宙開発機関が、大幅に規模と予算を拡充した上で復活する事が次々に発表された。日本でも二十四年前に事実上凍結していたNASDA(宇宙開発事業団)など三つの宇宙関連研究機関が、JAXA(宇宙航空研究開発機構)に拡大統合されて再発足した。

 白く凍り行く地球の上で、人類の歴史上最大規模の共同作業が、いささか暴走気味に始まったのだった。

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