第一話 白い世界
古の時代、人々は空を大地を覆う巨大な蓋だと考えていた。「天蓋」と言う言葉に、その名残が今も見られる。
時を経るにつれ、人々は空が蓋ではなく、宇宙へと続く無限の連なりの一部だと理解するようになり、同時にその高みは目指すべき目標となった。イカロス、リリエンタール、ライト兄弟、イェーガー、ガガーリン、アームストロング……多くの勇者たちが、より遠く、より高く、より速くを合言葉に、天の頂を目指し続けた。
その飽くなき挑戦の歴史は、人類の歴史とともに果てしなく続くと思われていた。その年、本当に空に蓋が現れるまでは……
九月下旬、早くも今年の初雪がうっすらと地面を白く染めた。この島ではそうでもないが、少し北の本土や、隣の屋久島の山腹には、短い夏の間も溶けずに残った雪が、援軍を得てその領土を広げつつある。
(いつか、この島も万年雪に埋もれて真っ白になっていくのかな。この空のように)
さくさくと雪を踏みしめて歩きながら、星見智也は空を見上げた。灰色の雪雲が所々に浮かぶ空は、一面の白に染まっている。
視線を少し下に落とせば、灰色の凪いだ海の向こうに、かつてこの島のシンボルだった施設群が、雪化粧を施されて眠っている。眠っている、と言うのは比喩表現ではない。二十九年前、「あの事件」が起きた翌年から、その施設は使用中止・閉鎖と決定され、永い眠りに……おそらくもう覚める事のない眠りに就いたのだ。今は僅かな保守要員が巡回しているだけだ。それもこの日本と言う国にありがちな、前勤続行主義のなせる業で、何時か将来再びこの施設を使う日が来るかもしれない、という深慮遠謀の元にやっているわけではない。もし、マスコミがこれを知ったら、無駄な予算の使い道として政府叩きの材料にするかもしれなかった。
もっとも、政府を叩くような元気のあるマスコミは、もうこの国にはほとんど存在しないだろうが。
(父さんの夢の国……か)
雪に覆われた施設を見て、智也がそう心の中で一人ごちた時、彼とは別の足音が背後から聞こえてきた。振り返ると、予想通りの姿がそこにあった。頭の左右で結った二本の三つ編みを揺らし、こちらへ向かってくる少女。本人は走っているつもりなのだろうが、雪に足をとられ、転ばないようにしているため、動きの大きさの割には、その速度は亀のようにのろい。
「智也君、待ってよー」
少女の声に、智也は足を止め、彼女が追いついてくるのを待った。一分後、ようやく彼の元にたどり着いた彼女の肩に手を置いて支えてやりながら、智也は言った。
「明日は雪になりそうだから、早く出て来いと言っただろ? 鈴音」
少女……神津鈴音は息を整えながら抗弁した。
「十分くらいは早く出たよ~。でも、思ったより雪が積もってて、なかなか進めなくて」
智也は苦笑した。
「お前、ぜんぜん雪に慣れないんだな。もうこの島に雪が降るようになって十年以上経つのに」
鈴音はようやく息が整ったのか顔を上げ、すこしずり落ちていた眼鏡を指先でくいっと持ち上げて直すと、にこりと笑った。
「そりゃ、南国育ちだもん。本土生まれの智也君みたいには行かないよ」
「俺だって、この島で暮らした時期の方が長いんだがなぁ。それに本土といっても雪なんか降らない場所だったぜ?」
智也がこの島……種子島に引っ越してきたのは、五歳の時。父親の転勤に伴っての事だった。それまでは、本土……九州は鹿児島に暮らしていて、「あの事件」後もまだそれほど雪の降らない時期が長かった土地だった。
一方、鈴音は島生まれの島育ち。智也が島に来て初めて出来た友達でもある。いわゆる幼馴染み、と言う関係に当たるのだろう。
「それに、先祖はこの島の出だし、里帰りみたいなもんだな」
智也がそう締めくくると、鈴音は頷いた。
「知ってる。今日は先生にその辺りの事を話すんだよね?」
「おっと、そうだった。あまり先生を待たせちゃまずいな。行こう、鈴音」
「うん」
二人は再びちらつき出した雪の下、主が「ファウンデーション」と呼ぶ建物に向かって歩き始めた。
三十年前……七十年代の終わり頃、人類の月面到達の熱も冷めやらず、宇宙を舞台にした大作SF映画やアニメが年に何本も公開され、人類は未曾有の宇宙ブームに沸いていた。次は火星、いや宇宙基地だ、などと言う会話が当たり前に日常の中で聞かれたそんな時代、それは起きた。
アフリカの大地溝帯と呼ばれる、大陸を南北に貫く巨大な裂け目――その一角、エチオピアの西部で、人類が経験した事のない未曽有の超巨大火山噴火が発生したのである。
元々、この大地の下には地球の奥深く、地下数千キロから上昇してきたホットプルームと呼ばれる巨大なマグマの湧昇流が存在し、それが大陸を東西に引き裂く原動力となってきたが、そのホットプルームの上端部にいくつか存在したマグマだまりの一つが、何かの拍子に突然地下深くから大爆発を引き起こしたのだ。
野生生物の楽園だった広大な谷は地下十数キロから吹き飛ばされ、爆発したマグマは高さ数十キロの噴煙柱を形成した後、重力で崩壊して巨大な火砕流と化して全方位へ拡散。火口から周囲二百km以上の広大な大地を焼き尽くし、さらにその数倍の大地を分厚い火山灰で埋め尽くした。
噴火が収まった時、その後には南北八〇km、東西六五kmに及ぶ巨大なカルデラが形成されていた。直接の噴火被害だけで五百万人以上が即死。いくつかの国は存続不可能なほどの大打撃を受け、膨大な難民が周辺諸国へ流出して巨大な人道危機を発生させた。
爆発の規模は、7万年前に人類を滅ぼしかけたインドネシアのトバカルデラ噴火のおよそ2倍。余りの被害に、単純に「大噴火」と言えばこの事を指すようになった巨大災害は、それはそれで、何百万年に一回と言うオーダーの大事件ではあったし、大きな悲劇であった事に違いは無い。しかし、今や三十億を優に超える人口を持ち、地球全域に広がる生存圏を得た人類にとって致命的と言えるような事件ではない筈だった。
本来は。
「問題は、何十兆トンと言う膨大な火山灰とガスが、大気圏の最上層部にまで吹き上げられた、と言う事だな」
智也と鈴音が「先生」と呼ぶ人物……式部怜一郎教授はそう語る。本職は文化人類学者らしいが、興味を持った事ならなんにでも首を突っ込み、その道の玄人はだしの知識を持たずにはいられないという、好奇心が肉体を持ったらこうなった、と言うような人物である。
年齢は六十歳前後だと思われるが、智也も鈴音も、正確な年齢を聞いた事はなかった。縁あって、二人はこの一風変わった学者の仕事を手伝うようになり、もう一年近い付き合いになっている。
「グレート・エチオピアカルデラからの噴出物は粒子が細かくて、しかも白くてアルベドの高い性質がある。また、火山性ガスも太陽光を反射しやすい冷却効果を持つ。これが大量に上層大気中を漂うようになった事で、この星の気候は一変しつつあるわけだ」
「アルベド……確か光を反射する率の事でしたっけ?」
鈴音の質問に式部は頷いた。
「うむ。今日本付近を漂っている灰雲は、太陽の光を50パーセントも反射し、宇宙へ戻している。そのため、気温が著しく低下してきている」
人類が「大噴火」の衝撃から立ち直る前から、すでにその兆しは出始めていた。
アフリカでは空が暗くなり、直接火砕流や降灰被害の無かった地域でも、急激な気温の低下によって植物の枯死や飢餓が発生しだした。その影響範囲は赤道に沿って急速に広がり、二ヵ月後にはインドや南米でも「大噴火」の灰雲が空を覆った。空から青色は消え、太陽も、月も星も見えなくなった。
灰雲は赤道付近で特に分厚く、地表に入射する太陽光は実に大噴火前の三割にまで激減した。気温は劇的に低下し、山岳部や高原地帯など、場所によっては雪のちらつくところさえ出てきた。標高一千メートルを越すアフリカのサバンナは凍死した野生生物の死骸で埋まり、アマゾンでは密林の木々が気温低下と日照不足のダブルパンチを受け、枯死していった。
そればかりではなく、電波障害が多発し、無線は役に立たず、テレビやラジオの放送も聞き取りづらくなった。
「火山灰にはもう一つ特徴があって、帯電しやすいんだ。噴火後に降灰によって送電網が漏電し、損傷するという事例は良く知られているが、これが空中を漂っている間は、電波障害などの厄介な問題を引き起こす」
式部教授の講義は続く。
灰雲も内部で灰同士がこすりあう事で帯電を起こし、激しく雷光を閃かせた。それは人類から光学的な面以外でも、空を奪う結果になった。飛行機の運航が困難になったのだ。
落雷が多発し、レーダーは利かない。細かい灰雲は、音速に近い速度で飛ぶジェット機と激しく衝突し、窓を擦りガラスのように白濁させてしまう。エンジンも灰を吸い込めばすぐに故障を起こした。盲目にされ、傷ついた金属の大鳥たちは、地上で翼を休めるほか無かった。
「今はまだ、船が使えるからいい。しかし、このまま行けば……気温の低下によってさらに南の海でも、氷山や流氷、港の結氷が海運の妨げになるだろう。国際貿易は完全に止めを刺され、物流と言う血液を失った文明社会は崩壊していく事になる。その前に多くの国が氷の中で息絶えていく事になるだろうが……ね」
そう言って、式部教授は講義を締めくくった。事実、灰雲が赤道から南北両半球の高緯度地帯に広まるにつれ、どこでも気温が低下し、無線が通じなくなって、社会が荒廃の一途をたどっている。このまま寒冷化が進めば、いずれ大地や海は広く氷に覆われ、それが太陽光をさらに跳ね返す事で、地球はますます冷えて行き、やがては地上の全てが分厚い氷に覆い尽くされる「全球凍結」が訪れるだろうと予測されている。気温は赤道直下でもマイナス50度以上。人類が生きていくにはあまりにも厳しい。
「だから教授は、この島に来たんでしたね。人類と言う種がこの星にいた証を残したい、と」
智也が言うと、式部は頷いた。
「ああ。遠からず人類は『大噴火』によって滅びるだろう。生き残ったとしても、厳しい氷河期の中で文明の記憶を失ってしまうだろう。そのために、私は人類文明のデータベースを作り上げ、遺しておきたい」
そう答え、式部は窓の向こうを見る。ここに来る前、智也が見ていたかつての島のシンボル――種子島宇宙センターがそこにあった。
「できれば、『モノリス』は宇宙に打ち上げてしまった方が、形として残りやすいと思うのだがな……」
式部が種子島を研究の地に選んだのは、宇宙センターがあり、もしかしたらいずれはそこを使えるかもしれない、と思っての事だった。
「それこそ、月面にでも置きたい位ですか?」
智也が言うと、式部は微笑した。
「そうだな。どうやら、先日貸した本はちゃんと読んでくれたようだね」
智也は頷いて、鞄の中から「2001年宇宙の旅」を取り出した。同様に鈴音も本を取り出す。そちらは「銀河帝国の興亡」だった。
式部は自分が作ろうとしている人類文明の証を「モノリス」、自分の研究室を「ファウンデーション」と呼んでいる。その理由を尋ねた二人への答えとして、式部が貸したものだった。
「面白かったです。ちょっと難しいところもありましたけど……」
鈴音が言うと、智也は彼女から本を受け取って、まとめて式部に渡しながら聞いた。
「先生は、『大噴火』が無ければ、人類はこのくらいすごい宇宙船を作って、木星まで行けたと思いますか?」
式部は少し考え込んでから答えた。
「なんとも言いがたいな。作中のディスカバリー号は原子力エンジン搭載だが、現実には宇宙船に原子力エンジンを搭載するのは条約で禁止されている。その縛りが無ければ、木星どころか土星に行くのも簡単だろう。ただ、コンピュータはHALのように発達しないと思う」
なるほど、と頷く智也。実際、いまだにコンピュータは自分の意思を持って話したり出来るようにはなっていない。宇宙船に原子力エンジンを搭載すると言うアイデアは、六十年代にいくつかの国で計画されたが、部分的核実験禁止条約によって宇宙空間での核開発が禁止された事により、終焉を迎えたと言う。例え何事もなかったとしても、人類が木星まで行くのは難しいようだった。
「それにしても」
式部は智也と鈴音を見た。
「こんな希望のない話を聞かせているのに、君たちは良く平気だね」
今日明日の話ではないとはいえ、人類の滅亡を前提に話をする式部だったが、彼自身今の境地に到達するまでには、大いなる葛藤があった。何しろ「大噴火」が起きた三十年前、彼はまだ三十代の若さで、未来というものの存在を信じられる年齢だった。それが唐突に、自分たちにはもう未来はない……という事実を突きつけられた時、式部と同じ世代の人々はパニックに陥った。
式部が現実を受け入れ、それに対して自分はどう向き合えば良いのか、という答えを出すまで……「モノリス」の作成を思い立つまでの間、将来を悲観して自殺を考えたこともあり、事実「大噴火」後の世界では、自殺する人間が劇的に増加していた。彼の同級生の中にも、自殺したり、自暴自棄になって酒や薬物に逃避した挙句に死んでいった者たちは、一割以上いる。
学究の徒として、せめて最後まで己の学問に向き合っていよう。見苦しく慌てることなく、従容として死を迎えよう。そういう境地に達したのは、式部が四十歳を過ぎて数年後のことだった。
ある程度成熟した大人だった自分たちの世代がそうなのに、まだ若い二人が人類の滅亡という、未来も希望もない話を落ち着いて受け入れられる事が、式部には不思議だった。すると、智也は苦笑するような表情を浮かべて答えた。
「平気かといわれると、そうでもないですが……俺たちは学校でも先生から『いずれ人類は滅びる』と言い聞かされて育ちました。たぶん、もう馴れっこになっているんでしょう」
二人はまだ二十歳になるかならないかの年齢であり、生まれた時にはすでに人類の滅亡という言葉が、現実味を帯びて語られるようになっていた。滅び行く世界の中で、彼らは育ってきたのだ。それが若い世代に、諦めとは違う、一種達観したような滅亡観を抱かせたのだろうか、と式部は思った。
「そういうものかね……」
式部は自暴自棄になることなく、滅亡という現実を淡々と受け入れている二人の若者を、まぶしいものでも見るような目つきで見た。
「まぁ、それはまた今後聞く機会もあるだろう。今日は星見君の祖先の話を聞かせてもらう約束だったな」
「はい、先生」
智也はうなずいた。
夕焼けが辺りを覆うころ、二人は「ファウンデーション」を辞した。大気上層部の灰雲の影響で、朝方と夕方には血のような赤い光が辺りを覆う。「大噴火」以前の世界を知る大人たちはこの時間を忌避していたが、智也と鈴音にとっては慣れ親しんだ光景だった。
「それにしても、智也君の先祖ってすごい人だね」
鈴音の言葉に、智也は横を歩く彼女の顔を見下ろした。高校時代はバスケ部に所属していた彼は180cmを超える身長の持ち主で、150をようやく超える鈴音とは頭ひとつ以上の身長差がある。
「そんなに凄いか? 別に大名って訳じゃないぜ」
智也はそう答えながら、さっきまで式部に話していた祖先の話を思い出していた。
彼の家、星見家はこの種子島が出自である。戦国時代、星見家の初代である太郎兵衛は猟師をしていて、「昼間でも星が見える」と豪語するほどの視力の持ち主だった。真偽を確かめようと領主が太郎兵衛を召しだし、昼間の星がどこに見えるのか説明させて、天文に詳しい暦法学者に確かめさせてみた。
すると、太郎兵衛が見ている星と、暦法学者が計算で割り出した昼間の星の位置は、ピタリと一致したのである。領主は太郎兵衛を大いに賞賛し、「星見」の姓を下賜して、家臣の一角に加えたという。
優れた視力と猟師の出自を持つ太郎兵衛は、種子島への鉄砲伝来後、その扱いを領主から任された一人となり、鉄砲を売り込むべく本土に渡った。各地でその腕を披露した太郎兵衛は、やがて薩摩の島津家に仕えることとなり、鉄砲組の足軽大将を務め、大いに活躍したのだった。
智也はその星見太郎兵衛から数えて十八代目の子孫にあたる。先祖の血を受け継いでか、智也も両目ともに視力2.5と非常に目が良い。目が悪く、ぐるぐるのビン底眼鏡をかけている鈴音は、智也の視力を一番羨ましがっている一人だ。
「大名じゃなくたって、戦国時代に名のある祖先がいるなんて、凄いことだよ。うちは曰くありげな苗字だけど、ずっと由緒貧しい農民だし」
「何だ由緒貧しいって」
鈴音の言葉に智也は笑った。その時、二人は朝に出会った、種子島宇宙センターの見える海辺の道に差し掛かった。智也の家はこの道をまっすぐ行った海辺の高台にあるが、鈴音の家は内陸の方へ向かったところにある。ここが二人の出会い以来、いつも別れてきた場所だった。
「それじゃ、また明日ね、智也君」
「ああ。気をつけて帰れよ?」
手を振って、雪の積もった道を恐る恐る、といった足運びで進んでいく鈴音の背中を見送り、智也は自分も家に向けて歩き出した。緩やかな坂道を登っていくと、屋根の上に銀色のドームを乗せた一軒家が見えてくる。そこが今の星見邸だった。ドームを縦に割るスリットから微かに光が漏れているところを見ると、今日も父はそこに篭っているらしい。
(父さんはまた……どうせ何も見えやしないのに)
智也は苦笑すると、ポケットから家の鍵を取り出し、玄関に向けて歩いていった。
台所で夕食の準備をしている母親に帰宅の挨拶をし、夕食の献立を確かめると、智也は二階に上がった。そこに自分の部屋があるからだが、部屋の手前にアルミの折りたたみ梯子が下がっているのを見ると、智也は梯子が吸い込まれている天井の穴に向かって声をかけた。
「父さん、そろそろ晩飯だって」
返事はなかったが、梯子がカタンと揺れて、天井の穴から足が突き出した。その足が二段、三段と梯子を下りてきたところで、持ち主の顔が見える。智也の父、智幸だった。
「お、帰ったか智也」
そう言いながら降りてきた父に、智也は笑ってただいま、と答えた。
「天文台から、俺が帰ってくるところは見えなかった?」
「見えなかったな。空ばかり見ていたから」
息子の問いに、智幸はそう答えた。
この天井裏は、智幸が家族を連れて島に引っ越してきた時に、真っ先に家を改造して作った、彼のプライベートな天文台だった。と言っても、これを作った時には、既に「大噴火」の影響で、空に星など見えなくなっていた。
「空を見て……何が見えるって言うんだか」
智也が言うと、智幸は息子の揶揄するような口調に怒りもせず、真摯な口調で答えた。
「何も見えないさ。でも、いつか何か見える時代が来るかもしれない。父さんはまだ、何もあきらめる気はないよ」
何か見えるかもしれない……というのは、ほとんど叶う可能性のない望みだった。「大噴火」後、灰雲が数年内に大気中から落ち、再び青空が見えるかもしれない、と言う予測もあったが、三十年後の今も、灰雲は「大噴火」直後の九十九パーセント近い質量を保ったまま、ゆっくりと地球を覆いつくそうとしている。余程の事がない限り、それが空から吹き払われる日は来そうもなかった。
しかし、智幸は何事もあきらめない男だった。その奇跡に賭けて天体望遠鏡、それも個人ユースとしては最大級の1m口径のものを買い、「大噴火」による天体望遠鏡の価格暴落を、幸運と笑い飛ばせる人物だった。仕事もまたそうだった。種子島宇宙センターの数少ない保守要員……その一人が智幸なのである。政府自体は惰性で予算をつけている業務だが、智幸は真剣だった。いつかこの基地から、再びロケットが打ち上げられる日が来るかもしれない。いや、来るに違いない、と信じているのだ。宇宙センターを望む高台の家を買ったのも、特等席でロケットの打ち上げを見る日のためだった。
智也はそんな父を、無駄な事をしていると口ではからかいつつも、内心尊敬していた。自分が式部から楽観的に見られるのも、教育の影響とともに、この父からの影響もあるだろうと思っている。
(そう言えば、鈴音のおじさんもそうなんだよな)
鈴音の父、神津繁人は年々厳しくなっていく寒さの中で、今も農業を続けている人物だった。寒冷化で農地が使用不能になり、漁業も衰退して、世間に出回る食糧のほとんどが工業的に合成されたものになっていく中で、繁人は「いつか来る春のために」農業の火を灯し続けると誓っているのである。もちろん、智幸とはウマの合う親友同士だった。
「まぁ、それはいいさ。それより飯なんだろう? お前も早く着替えて来いよ」
「うん、わかった」
父に言われ、智也は部屋に入った。
夕食が終わり、家族でテレビを見ていると、智幸が智也のほうを向いた。
「今日も式部先生のところだろう? 仕事は面白いか?」
寝転がって画面に目をやっていた智也は起き上がると、父親のほうを向いて頷いた。
「ああ。何だかんだ言って、あの先生の話は面白いしね。式部先生が大学に残ってるんだったら、そこを受験したかもなぁ」
智也と鈴音は大学に通っていない。若い世代が比較的冷静に迫り来る滅亡を見ているとはいえ、モチベーションが維持できているわけではない。大学に通って勉強を続けたい、と言う人間は、ごく少数だ。高校卒業後、智也も鈴音も式部が島に来て知り合うまでは、近所の屋根の雪下ろしを手伝ったり、今も農漁業をしている人の手伝いをして暮らしていた。
「そっか。ちょっと悲観的な人だけどな。お前が楽しんで仕事をしているなら文句はないな」
智幸は頷いた。式部と智也が出会ったのも、父が関係している。「モノリス」を宇宙に打ち上げたいと思っている式部が、宇宙センターの様子を見に訪れて、当直だった智幸が案内したのが、二人が知り合ったきっかけである。
「先生はまだ『モノリス』の宇宙打ち上げをあきらめてないみたいだったけど、実際どうなんだろう。あそこ使えるの?」
息子の質問に、智幸はもちろん、と胸を張る。
「世界中に閉鎖された宇宙基地は数多いが、うちが一番保守が行き届いていると思うぞ。二ヶ月も整備すれば、本格的に打ち上げ再開できるはずだ」
人類の宇宙開発がほぼ停止したのは、「大噴火」から一年後の事だった。
光学レベルでも電波レベルでも観測を妨害する灰雲の前に、地上の天文台は次々にその機能を失って行ったし、仮に灰雲の影響がない宇宙空間に衛星を打ち上げたとしても、それと地上が交信することができないのでは、結局何の役にも立たない。
また、莫大な予算を必要とする宇宙開発を進めるよりも、食料合成プラントの建造や耐寒住宅の建設など、進行する寒冷化対策のほうが優先順位が高くなっていったこともあり、最後まで宇宙開発存続の道を探っていたアメリカのNASAも、八十年代初めには他の科学関連の機関に吸収される形で姿を消してしまっている。
宇宙開発が完全に停止してから二十年が経ち、世界中のほとんどのロケット打ち上げセンターや付属施設は廃墟と化すか、敷地がほかの施設に転用されて姿を消していった。種子島宇宙センターが残っているのはある意味奇跡と言えた。
「まぁ、ロケット本体の生産をしていないから、先生が望むような打ち上げは難しいと思うがな」
智幸がそう言って話を締め、智也はそっか、と頷いて、再び寝転がると天井を見上げた。テレビからは、相変わらず暗いニュースばかりが流れている。アメリカでは食糧暴動。ヨーロッパからは、寒冷化によって発達した永久凍土に呑まれつつある国土から脱出する、北欧やロシアの難民たちの、途方にくれた表情。日本は今はまだそんな酷い事になってはいないが、それも時間の問題だろう。
かつて、赤道海域からは日本海流やメキシコ湾流など、地球上の大河全てを合わせた百倍もの水量を運ぶ暖流が流れ出ていた。その流れが運ぶ熱が、日本やヨーロッパに温かさをもたらし、暮らしやすい気候を与えてくれていたのだ。
今やその流れはか細くなり、水温自体も下がっている。やがてその流れが止まってしまえば、地球全体の熱循環自体が停止する。高緯度地域はますます寒くなり、冬には海すら凍りついて、地上には氷河が発達し、それらが結びついて巨大な氷床ができていく。雪や氷のアルベドはほぼ90パーセント。ただでさえ灰雲に遮られて減少している太陽の光の、さらに九割が宇宙へはね返され、地球は熱を吸収できなくなる。
そうなってしまえば、十年もたたないうちに地球は赤道まで凍りついた真っ白な星と化し、人類も、人類が数万年かけて築いた文明も、そして多くの動植物たちも、全てが白い氷の柩に封じ込められ、滅んでいくのだ。
いや……灰雲に覆われた今の地球は、もう既に宇宙からは白い星に見えるだろう。もう人類の滅亡は決まっているのだ。この白い天蓋の下で、自分たちは何も遺すことなく消えていく。この星に人類と言う種が存在し、一時は宇宙にまで手を伸ばしたことを記憶してくれるものは、誰もいない。
(でも、だからって俺に何ができるだろう?)
智也はそう自問する。そう、あまりにも大きな自然の摂理を前に、自分はあまりにも無力だ。できることは、せいぜい式部の手伝いをして、「モノリス」を完成させることくらいだろう。そうすれば、何時か太陽系外から宇宙人がやってきたとき、あるいは何億年かが過ぎて、再び地球が青さを取り戻し、新しく文明を発展させた種族が出てきたときに、人類がこの星にいたことを知ってくれるかもしれない。
そこまで考えて、智也は自分の考えに苦笑した。何というか、生きる目標としては、あまりにも不確かな話だと思う。例え「モノリス」ができたとしても……実を言うとどんな形にするかすら決まっていないのだけれども……それを評価してくれる存在が本当にいてくれるか、わかりはしないのだ。
それでも、いつかは「モノリス」を見てくれる誰かがいることを信じて、智也は式部の仕事を手伝い続けるのだろう。滅びが避けられないなら、せめて見苦しくない最期を。そういう式部の潔さに、智也は共感を覚えていた。
(あいつは……鈴音はどうなのかな?)
ふと、智也は一緒に仕事をしている幼馴染みの顔を思い浮かべる。高校を卒業して二年。成人式もすんで、もう少女とは言えないはずの彼女だが、今もまだ子供のように思える時がある。父親の影響を智也以上に受けて楽観的な性格をしている彼女は、自分がその年齢まで生きていられない可能性が高いことなど考えもせず、おばあちゃんになった時の事を語ったりするのだった。
それは中学生ごろの話だった。
「死んだおばあちゃんが、良く縁側でひなたぼっこしながら、猫と話してたりしたんだよね。私はそんな風に猫と話してみたくて、でもぜんぜん言葉がわからないの。おばあちゃんになるころには、猫の言葉がわかるようになるかな?」
そんなことを言う鈴音の頭を、智也は指でつつきながらからかう。
「そりゃ、お前のおばあちゃんだからできるんだ。お前は無理だろ。猫と言うより犬だし」
いつも智也の後をついてくる鈴音は、周囲からは子犬を見るような目で見られることが多かった。もうこの頃から、智也と鈴音の身長差はかなり開いていて、同い年の幼馴染みというよりも、兄と妹的な見方をされることが多くなっていたのでなおさらである。
「もう、つつかないでよ智也君。それに、犬に例えるなんてひどいよ。私犬嫌いなのに」
子供のように頬を膨らませてむくれる鈴音の姿は、何時の間にか高校生の時の制服に変わっている。このやり取りは、智也と鈴音が知り合って以来、年に数度は繰り返されてきた、定番中の定番だった。いつしか制服に夏のものがなくなり、上にコートを羽織るようになっても、変わらず続いてきた二人の関係。
ああ、そうか、と智也は思う。ずっと変わらない鈴音と一緒にいることで、自分は変わり行く――それも絶望のほうへ――世界の中で、普通でいられるのかもしれない、と。
(なんだかんだ言って……俺はあいつに救われているんだな)
そして思う。例え世界が滅びるその時が来ても、一緒なら寂しくないだろうな。
決して前向きとは言えないが、それが滅びを迎えつつある世界の中で、星見智也が達した境地だった。テレビの向こうで、滅びに対してあがき続ける人々が苦しみ続けていても、智也の心は静かだった。
彼があがこうとする事など、もうないはずだった。