朝方思い付き短編「なりたい自分(ドッペルゲンガー)」
ある日の朝、そこにいたのは知らない人だった。
「おはよう。起きたかい?」
まるで自分の家であるかのように振る舞うその人物に、わたしは首を傾げる。
「貴方、誰?」
警戒心より先に疑問が出たのは、寝ぼけていたからかもしれないが、警戒心を抱かせないほどに、その人物は自然体だった。
「僕は君さ」
まるで歌うようにそう言って、その人物は笑う。
「正確には、君がこうあってほしいと望んだ自分とでも言うべきかな?」
寝ぼけるわたしの頭をポンポンと軽く撫でて、その人物は良い匂いのする皿をわたしに差し出した。
「トーストで良かったかな?」
「…うん」
少し多めに塗られたバターが、口の中でじゅわりと溶ける。
いつも自分で塗っているのとはまた違った味だけれど、不思議と口に馴染む味だった。
「それで」
幸せを噛み締めながらトーストを齧るわたしに、その人物は言う。
「これで君は死ねるのかな?」
言われた意味を頭の中で反芻して、頷く。
わたしは自分が嫌いだった。
気弱なところ。他人より劣る外見、内面、声、体格、体に出来た傷、全てが嫌いで。
だから、目の前のとても美しい外見で、ずっと聴いていたくなる歌うような声で、魅力的な人物にしか見えないその人がわたしになると思えば、それは素敵な事だった。
わたしの言葉に、その人物はそっと微笑む。
「じゃあ、死んでくれるかな」
首に伸びてくる手を受け入れるように、わたしはそっと目を閉じる。
多分、苦しいのだろうな、と思いながら、けれど嫌いな自分が消える事に喜びを感じながら。
――しかし、この首に手がかかることはなかった。
「どうして」
そう呟いて目を開けると、目の前の人物は泣いていた。
「困ったね。僕は君が理想とした人物になってしまったものだから、君を殺せそうにない」
本当に困ったようにそういうその人物は、涙を流しながら苦笑する。
「僕は悪魔。契約に則り、君に成り代わるドッペルゲンガー」
「だったら、殺せば良いのに」
何故泣くのか、何故殺さないのか、とわたしが咎めるような眼を向けると、その人物は首を振った。
「君が望んだ君は、無抵抗の人を殺すような人物なのかい?」
言われて、わたしは呻く。
そんな人間になりたいなんて思ったことは無い。
誰もが愛してくれて、誰の好意も疑う事なく信じて愛を向けて、悪意ある人間から大事な人々を守れて、自分に自信を持っていて、嫉妬なんてしなくて、心からの善人で、外見も運動神経も声も歌もすべてが良くて。
なれるわけがないからこそ、わたしは憧れた。
憧れたからこそ、追いかけた。
追いかけた。追いかけて…そして?
どうしたんだったか。
「潰れたんだろう?」
その人物の言葉は、ストンと胸に落ちた。
そう、潰れたんだった。
元々、できるはずが無かったのだから。
憧れに手が届く訳も無く、自分という人間はどこまでも汚かった。
だから諦めて、死にたいと思った。
「だから、もし貴方がわたしになってくれるというのなら、わたしは喜んでそれを受け入れるのに、どうして?」
わたしの言葉にその人物は呆れたように言う。
「諦めてなんて、いないじゃないか」
「え?」
「本当に君が望んだ人間になることを諦めていたのなら、今頃君は他人を平気で傷つける人間だ」
それは違う。無自覚に他人に迷惑をかけたり、傷つけることなんてしょっちゅうだ。
「でも、他人を傷つけたり、迷惑をかけたと思ったら、君は申し訳なく思うだろう」
当たり前だ。
「他人から悪意を持って奪う事を善しとしないだろう」
当たり前だ。
「どうして?」
……どうして?
言われて、答えに詰まる。
「自分が苦しくなったとしても良いからと聖人君子のような人間に憧れて、諦めたというのなら、どうして、自分が楽になるためにそうしないんだい?」
それは……。
そんなことをしたら、きっと後悔するからだ。
「どうして、悪意を向けられて、他人に傷つけられて、どうしてその発散先として、自分自身にその矛先を向けるんだい?」
他人を傷つけるのは、良くないことだからだ。
自分が傷つけられたからって、誰かを傷つけるのは、いけないことだからだ。
それはきっと、やってしまったら、自分がもっと傷ついてしまう事だ。
「ほら」
その人物は、わたしの考えを読んだように笑う。
「君はまだ、諦めてないじゃないか」
違う。わたしはもう、諦めた。
「君は優しい子じゃないか」
優しくなんかない。わたしは汚い人間だ。他人に嫉妬しては、その自らの醜さに吐き気を催すほどに。
「そこで他人を貶めず、他人を傷つけず、自らに問題を見出して、自らを傷つける子のどこが、優しくないんだい?」
違う。他人を傷つけたら、自分が後悔するからだ。
「好きなだけ傷つけて良いんだ。良い人を諦めたのなら」
他人に嫉妬すればするほど、自分の醜さが浮き彫りになる。
「どうして嫉妬してはいけないんだい? それもまた原動力の一つだ」
嫉妬は人を狂わせるから。他人を傷つける刃になってしまうから。
「だから、君は羨んだ。自分に無い物を持つ人を」
そう、羨望することは、決して悪いことじゃないから。
「今も、そんな人間を羨望しているのかい?」
当たり前だ。だから、わたしは貴方のような人がわたしに成り代わってくれるのならと――。
「認めたじゃないか」
その言葉に、思考が停止した。
「羨んで、望んでいるのだろう? そんな人間になる事を」
違う。違う――。
「君は良い子だよ。少なくとも、君が思う以上に」
わたしは悪い子だ。
わたしは、異端者だ。
わたしは、誰からも救われてはいけないクズなんだ。
「だから、死にたい?」
そう。わたしは死ぬべき人間だと――。
「違うね。君はそんなに醜い人間じゃあない」
「どうして!」
「わからないかい?」
「わかるわけがない! わたしは汚いんだ! 皆がそう言った! 皆がわたしを迷惑なものを見る目で見る! わたしが悪いんだ! 全部!」
「わたしがそう思ったからだよ」
「何が――」
「君が理想とした人間が、君がなりたいと羨望した人間がわたしだ。善人を愛し、悪意ある人間を排し、人を見る目がある人間として、君が望んだのが、わたしだ」
その言葉で、わたしの口から続きの言葉が出る事は無くなった。
「分かるかい? 君が理想として見てくれたわたしが認めたんだ。君の価値を」
とてもいい笑顔で、そう言うその人物に、わたしは思わず泣きそうになった。
「世間にはいろんな人がいるよね。そう、いろんな人が。じゃあ聴かせて欲しい。客観的にね。
他人を傷つける事に怯えて、他人に迷惑をかけることに心苦しさを覚え、他人が傷つくくらいなら、自分が傷ついたほうがマシだって、そう考える人物は――
本当に、生きる価値の無い人間なのかい?」
声が出ない。
「わたしはそうは思わない。それは善人だ。まごう事なき、善人だ。だってそうだろう? 他人に迷惑をかけたくないと思う人間の、どこが悪人なんだい?」
「それにね、死にたいと思う人間の大半は、善人ばかりなんだよ。
他人を傷つける刃が無いから、他人からの刃で傷ついて、殺されるしか術を持たないだけでね」
「君は、誰かのために生きようとする人間が、一方的に殺される事を、善であると思うかい?」
「君は、君を追い込んだ全てが、正しいものであると、本当に思うのかい?」
「だったら、言わせてもらうよ。君がなんと言おうと、わたしはそうは思わない。君には価値があると、そう思うから、わたしは君を殺すことが出来ない」
涙がぽろぽろと流れ出てくる。
どうして、という言葉だけが、なんとか喉から絞り出せた。
「どうして? まだわからないのかい? 僕は、君だからさ。君が望んだ君自身だからさ。君がこうありたいと、こんな人間になりたいと、そう思った人間が、わたしだからさ」
「君は、善人であろうと努力する人間を、愚かだと、死ぬべきだと、思うのかい? わたしはそうは思わない。だから、君も思わないだろう? これが仮に、他人だったのなら」
わたしは、生きていて良いのだろうか。
「わたしは、そう思うけれどね」
わたしは、間違っていないのだろうか。
「さぁ。少なくとも、善人が死ぬことを善しとする今の状態は、間違っていると、わたしは思うけどね」
食事の手が止まったままのわたしを、その人物はベッドに横たえると、そっと布団をかけてわたしの頭を撫でる。
「他人に迷惑をかけてしまったのなら、その何倍も、他人のためになる行動をすれば良い。他人を傷つけてしまったのなら、その何倍も、他人を助ける行動をすれば良い」
「他人を認め、自らを恥じる事が出来る人間は、自分が絶対の正義だと信じて他人を認めない人間の何倍も正しいと僕は思う」
少しずつ落ちていく意識の中、わたしはその人物に問いかけた。
「貴方は、本当に悪魔なの…?」
少し、困ったような顔をしたその人物は、笑う。
「…そうとも。僕は悪魔さ。だから、君の葛藤から産まれた感情が、僕のごはんなのさ」
だから、対価はもういただいたから、ゆっくりおやすみ。
その人物のその言葉と、頭を撫でられる感触を最後に、わたしの意識は落ちていく。
ありがとう。
わたしのその言葉が悪魔さんに届いたのかは、分からないけれど、わたしは忘れていた泣き方を思い出しながら、微睡の中に身を任せていった。