第一章 パトロン(7)
ジュリエッタと麻人は逃げ出すように理事長室を後にして、学園内に設置された巨大な建造物に移動しました。大人同士の腹の探り合いとなんて一秒も同席したくありません。アマデオさんは上手いタイミングで席を立ちましたね。場の空気を読む感覚は貴族を相手にしていた経験から培ったでしょうか。
もうすぐパトロン戦が始まるので本校舎からも生徒達が集まって来ていますね。
みんな見世物が大好きなのです。
まかべさんがアマデオさんに勝てるとは思いませんが、事前に誰と誰が戦うか知らなければ興味を惹くのは当然でしょうね。それは麻人も例外ではないようです。
「大きな建物だよねぇ」
「この学園の自慢の一つですよ、麻人。大きさは――」
「建築面積はおよそ五万平方メートル、高さ四十メートル。東京ドーム一個分といったところかな」
「貴方は知っていたのですか?」
「ん、目測だよ。このくらい見れば分かると思うけれど」
「ジュリエッタには分かりませんが」
「そうかなぁ」
「そうですよ」
「そうかなぁ」
「そうですよ」
微妙な空気が流れます。
いけません、ジュリエッタ。なんとか会話を続けないと。
「ところで麻人さん。この建物がなんと呼ばれているか知っていますか」
「闘技場とか」
「当たらずとも遠からずですね」
「なら武道館」
「?」
「ごめん。不思議そうな眼で僕を見つめないで」
「この場所は演習場と呼ばれているのですよ、もっとも俗称ですけど」
「面白い俗称だね」
うまくやりました、今度こそ興味を惹けたようです。
「周囲への影響を考慮せずに思う存分魔術を行使できる環境を整えるという目的から、建造物の大きさに負けず堅固な結界を幾重にも張られているんです。ある程度以上の威力を伴う魔術の授業、個人練習は全てこの施設は使用されているのですよ。おかげで校内は安全そのものです」
「安全なのはいいけれど堅牢過ぎるのは気になるなぁ」
「どうしてです、麻人」
「堅牢さが売りならそれを打ち破ることにロマンを感じる人が出てくると思ってね」
「困ったことに結構いるのですよ、そういう人。この場所が演習場と呼ばれるようになったのも、学園の授業を拝見したある王族が『これでは授業ではなく演習だな』とぼやいたのが理由らしいですよ」
「面白い逸話だね」
麻人が笑いました。
可愛いです、可愛すぎます。
ジュリエッタはこの瞬間を一生忘れないません。
「ジュリエッタさん、僕の気のせいでなければ生徒が集まって来ているように思うけれど。パトロン決定戦はいつもこうなんですか?」
「ジュリエッタでいいですよ、麻人さん。そうですね、パトロン決定だからというよりも、この演習場で行われる催しだから集まると言った方が正しいかな」
ジュリエッタは演習場の入口近くを指差します。
「あれはアマデオさんとまかべさん、いずれが勝つかを賭けているのですよ。ここだけの話し、新学期になると色々トラブルが絶えないのです。トラブルの白黒をこの演習場で付けるのですが、どちらが勝つかを賭けるのが学園の恒例行事だったりします」
学園公認のイベントだから賭けられているのが食券です、ということも忘れずに付け加えました。来訪者の方はコロッセオの剣闘士みたいだといって、このイベントに好感を持っていません。それは麻人も同様のようですが背景を聞いて納得してくれたました。
よかった、変な感情を持たれなくて。
「納得がいったよ、ジュリエッタ。ところで僕も麻人と呼んでよ。女性に麻人さんと呼ばれると気恥しくて困るんだ」
ジュリエッタ、ジュリエッタ、ジュリエッタ。
麻人の声が頭の中で連呼したのは、気のせいではありません。
ジュリエッタは心の中で大きなガッツポーズをしました。
いけません、態度に現さないようにしないと。
なによりこの機会を逃がしてはいけません。ジュリエッタは何事もなかったように「麻人」と呼び捨てにすることにしました。
「では、麻人」
「なんだい、ジュリエッタ?」
「麻人もこのイベントに参加しませんか?」
「参加したいのは山々だけど、僕は転入してきたばかりで持ち合わせがないんだ。できれば少し貸してもらえないかな」
上目使いで頼まれても困ります。
そういえばお父様もこういうのは必要経費だと以前を仰っていました。
ジュリエッタが今から使用するお金の事は深く問わないで下さいね。
乙女の戦いにはお金がかかるものなのです。
「今度だけですよ、麻人。アマデオさんとまかべさんのオッズは上限一杯の四十倍のようですね。麻人は面白く思わないでしょうけど来訪者が勝利するのは稀なのでは妥当な評価だと思いますよ」
「来訪者というだけで評価が低いなら賭ける人なんかいるのかな?」
「当然の疑問ですけど大穴狙いの人はどこにでもいるのですよ。学食一食分なら余興としては充分価値がありますし。麻人はまかべさんに賭けると思いますが、今までの話しを踏まえた上でいくら賭けますか?」
「僕が真壁さんに賭けるとよく予想できたね」
「男の子は大穴を狙いたがるものです」
「なるほどね、ジュリエッタはまわりをよく観察しているね」
「では麻人。貴方はいくら賭けますか?」
ジュリエッタの問いかけに麻人はいたずらを思い付いた猫のような表情を見せます。
「そうだね、賭けられるだけ賭けるよ」
「?」
「ジュリエッタが僕に貸してくれるのが可能な額ではなくて、真壁さんに賭けるのが可能な額の限界まで賭けたいんだ?」
麻人はさりげなく凄いこと言いました。
思わず悲鳴を上げなかった自分を褒めてやりたいと思います。
がんばりました、ジュリエッタ。
賭けの上限といえば食券一ヶ月分です。仮に全部貸してしまったらジュリエッタの手元には食券が一枚しか残りません。麻人はジュリエッタの懐事情を知りようもないですが、発言した言葉に責任を持てる人物なのか試しているのかと疑ってしまいました。
「……上限は一ヶ月分ですが、本当に賭けるのですか」
「ごめん、ごめん。ちょっとした冗談だよ」
ちょっとでこの発言ですか!
麻人はよほどの悪戯好きか真性のギャンブラーのいずれかです。疑惑の視線で麻人を見つめると悪戯猫のような表情でウィンクしてきました。
半分冗談で半分本気。
ジュリエッタは葛宮麻人という人の本質に触れたような気がしました。
「……ちょっと驚いただけです」
「ちょっとかぁ、残念」
本当はちょっとどころではありません。
「冗談だとしても笑えない冗談ですよ、麻人」
「僕は常に本気だよ。それが冗談だとしても」
充分に分かりました。
それよりもいまは、まかべさんの話題です。
「まかべさんは魔力が強い方なのですか?」
「そういうのとは違うんだよね、あの人は」
「すみません。麻人が言いたい事が分からないのですが」
「ごめん。でもそうとしか言いようがないんだよ。一対一という条件付きなら真壁さんが負ける事はまずありえない。だからあんな冗談も言えたんだ」
わかりませんが分かりました。
まかべさんは麻人の信頼を勝ち得るなにかしてきたというのでしょうね。
シンイチ先生もまかべさんの勝利に太鼓判を押していたとか。ジュリエッタはシンイチ先生の講義を受けたことがないですけど控えめな表現をされる人でした。そのシンイチ先生が太鼓判を押したということは、なにか根拠があってあるのでしょうね。あるいはシンイチ先はまかべさんを以前から知っていたのか。
そうでなければ、つじつまが合いません。
でも、でもです。まかべさんを評価した意見をシンイチ先生から直接聞いていないのも事実。まかべさんがシンイチ先生の名で語っただけでハッタリな可能もありえます。
分かっています。分かってはいるのです。
まかべさんを過小評価するのは危険だと心のどこかで告げています。理事長室で不遜な態度を取り続けたあの自信はハッタリだけではありえないと。
これもお父様が持っている冒険者の血なのでしょうか。
それとも乙女の勘なのでしょうか。
いずれでもいいです。
麻人に食券を貸してしまったらジュリエッタの手元に残っているのは一日分だけ。
麻人と同じ危険を共有するためなら、まかべさんに食券一日分を賭ける価値はあるでしょうね。まかべさんを意識してしまうのは悔しいですけれど、ジュリエッタはそのように自分を納得させました。
「麻人。賭ける食券ですがやっぱり一ヶ月分にしましょう」
「ジュリエッタ、実は怒っている? その場を和ませる冗談だったんだから本気にしないでよ」
「麻人。まかべさんには敵わないかもしれませんがジュリエッタだってパトロン候補です。麻人の要求に応えるくらいジュリエッタにもできるのです」
なんでしょう、この得も知れぬモヤモヤした感情は。
まかべさんだけが信頼されるということに対する嫉妬なのでしょうか。
なによりこのまま引くのは乙女として負けるような気がします。
まかべさん、負けたら許しませんからね。
図らずもジュリエッタは一ヶ月と一日分の食券を賭けることになってしまいました。