プロローグ 学園都市エレン (2)
「毎日毎日、この有様ですよ」
愚痴る相手は傍にいない、ただの独り言。
日々三時間の残業は当たり前で、月に一日しか休日が与えられない勤務実態はブラック企業顔負け。労働基準監督書がまともに仕事をしていれば即業務改善命令の対象となるだろうが、学園都市エレンに労働基準法や三六協定は存在しない。年数回の祝日を考慮に入れてもサービス残業は年間1千時間を超えていた。これではシンイチが愚痴をこぼすのも無理がなかった。
「終電に乗れず会社へ泊まり込む社畜と僕。どちらがマシな存在でしょうねぇ」
満天の夜空を見ながら溜息一つ。
夕食すら済ませていないのに一日が終わろうとしていた。残り時間が少ない以上、帰宅ルートの選択は重要になる。大通りから入り組んだ路地を駆け抜けるのが最短ルートだが果たしてどうするべきか。
思案、約三秒。
ふと周りに目をやると、街灯代わりにライトの呪文で照らし出す生徒達がいた。
学園都市エレンでは生徒達が、毎夜エレンを夜の装いに衣替えをしている。
街灯代わりと言うは易い。街全体をライトの呪文で灯すというのは魔法士を人海戦術的に動員すれば可能なのである。魔法士を多数抱えるエレンだから運用可能なのであって、同じような行為をする都市は大陸広しと言えど他に存在しなかった
不夜城。
夜の貴婦人。
エレンの街灯を讃える名は多い。
電気もガスも無いこの世界で夜を灯す一般的な手段は炎。ライトの灯りはそれと比べて光量が段違いだった。しかも火事の心配もないときている。不夜城エレンを他の都市が羨望の眼差しでみるのも無理もなかった。
かつてシンイチがいた世界にも不夜城と謳われた都市は存在する。電気の力で輝く都市の灯りは宇宙空間からも視認できた。それと比べたらエレンの街灯は敵わないが、故郷を忍ばせる風景に魅せられ、シンイチはエレンにこだわり続けていた。
「来訪者が身の程もわきまえずに」
「ペーパーテストの点数だけで教授の椅子に座る脳無し」
耳を覆いたくなる陰口を愛想笑いでやり過ごす日々。そんな日々が続くと分かっていても、アマデオやジュリエッタの誘いに首を縦に振る気にはなれなかった。
(故郷か……)
大きな溜息を一つ吐き出す。
特に意味があったのではないが。シンイチは人目を避けるように路地へと足を踏み入れた。
エレンの街灯も路地裏に入れば薄暗くなるのは避けられない。
光あるところに影が付き纏う。それはまるで学園で教授の椅子を得る栄誉に預かっても、来訪者と蔑む声が鳴りやまない現実と同じようにシンイチは思えた。自分が置かれた状況を視覚的に突きつけられたようで、あまり気味がよい光景ではなかった。
シンイチは自らの選択に後悔したが戻るのも癪にさわる。逃げるのが嫌ならば前に進むしかなく、覚悟を決めて前に進むしかなかった。曲がりくねった細い路地を奥へ奥へと進み、何度目かの十字路を右に曲がる。これでもう大通りまでは一本道。薄暗い路地ともおさらば。
大通りまで駆け抜けようとしたところで言いようのない違和感を覚えた。
(あの場所は空き地だったような)
エレンには公園が多い。
公園といっても遊具などなく木々が映えている程度。それでも公園の設置は都市計画の段階で用意されているのだから、行政トップの意向が働いているは疑いようがなかった。もっともシンイチの目から見れば、公園というより空き地という評するレベルではあるが。
計画的に設置された空き地の用途や意図をシンイチは知らないが、余程のことがないと利用されず放置されているのは知っていた。
(あり得る可能性としては違法建造物か建造物に見えたのは幻術の類。生徒が空き地に対してゲリラ的に幻術を用いたのでしょうか? あれもアートの一種とは思うけれど、住民や教師達、なにより行政を司る貴族には受けが悪いんだよね)
大人が保守的なのは、いつの時代のどの土地でも同じ。
個人として好感を持とうとも、教師の職にある身としては防止する立場にならざるをえなかった。
(また残業ですか)
諦めて通り過ぎようとした建物物へ振り返る。「えっ」と、あっけにとられて思わす声がでた。 視認できたものが信じられず目を擦るが見間違いではなかった。
塔だ。
巨大な塔がそこにあるのだ。
いや、塔と形容するにはあまりに異質な建造物。
(いや、あれは塔なんかじゃない! ビルだ、信じられないけれどビルディングです!)
付近の建造物より五倍以上は高い。
表面はコンクリートで覆われ、各階には窓ガラスが塔を覆うように配置されている。ビルの外壁をライトアップするネオンサインは次々切り替わる。
夜の貴婦人と呼ばれるエレンの街灯もネオンサインと比べれば程度のよいガス灯でしかない。
エレンの街灯が貴婦人ならばネオンサインは享楽と快楽へと誘う魔性の娼婦。
(差し詰め僕は魔性に魅入られた愚者かもしれない)
それほどまでにシンイチの心をネオンサインはとらえていた。
惚けるように見つめていると電飾で彩られた看板に目に留まる。余人なら装飾かと見間違うだろうがシンイチは一目でその内容を理解できた。
「このビルが真壁探偵事務所? でも、どうしてエレンに?」
予想しない展開に思わず声を出してしまう。
もう遠い存在となったあの世界。
その建造物がどうしてエレンにあるのか。
幻術の類という可能性はありえなかった。
幻術は対象を正確にイメージすることを前提とする魔術である。エレンと言えどもこれほどの幻術を駆使できる人物は限定され、彼らが同郷の人間ではないことをシンイチは知っていた。
未知の風景を幻術で再現することなど不可能なのだ。
(僕が白昼夢を見ているのでなければビルディングごと転移してきたとしか思えません。巨大な建造物にエレンの住民が気付かない点は妙ですが。現実問題として存在している事実に変わりありません。
でも、どうやって?
想定外の事態に考えがまとまりません。
落ち着けシンイチ。
ようやく手にした手掛かりです、冷静にならないと)
ポケットから煙草らしきものを取り出し、魔術で火をつける。
大きく煙を吸い込むと、大きく吐き出す。
(いいです。現実を受け入れましょう。ビルディングは存在します。いま目の前に存在しているという事実こそが重要です。観察や観測こそが科学的方法であり、妄想や盲信に囚われた魔法士達と僕との違いです。騒動になっていないのは転移してから時間が経過していないということなのでしょう。そうでなければ住民が気付くに決まっています。あるいはライトで照らされたエレンだからネオンサインの灯りに驚かないのかも?
これ以上結論はでませんね。
いずれにしても騒ぎになっていないということは僕が第一発見者ということになります)
吸っていた煙草はあっという間に短くなり、新しい煙草に火をつける。
学園にいち早く報告すべき一大事だがシンイチにその気がなかった。
(二十年、僕はこの時を二十年待ちました。
誰誰であろうとも邪魔はさせません。
あの世界への手掛かりは僕のものです!!)
二階の外壁に設置してあった電光掲示板が五秒間隔で次々に情報を表示する。
スポーツ。
天気予報。
為替情報。
電気によって作られたネオンサインはより輝きを増し、薄暗い路地を照らし始める。
シンイチは導かれるように入口と思われる扉の前に移動する。目の前に立つと扉は自動的に開いた。現れたのは赤い絨毯とその上に立つ黒のスーツを着こなす紳士。初老の域に達している外見だが背筋はしゃんと伸びており年齢感じさせなかった。
老紳士は恭しく頭を下げると挨拶を口にする。
「ようこそ真壁探偵事務所へ。所長の真壁征志朗様は上の階におられます。御同郷の方、どうかこちらへ」
(僕を同郷と理解しているということは……)
ゴクリッ、唾を飲みこむ音が漏れる。
シンイチはビルディングに一歩を踏み入れた。
これがエレンの街が見たシンイチの最後。
以降、シンイチがエレン魔法学園に来ることはなかった。