勧善懲悪よりも因果応報を
悪は滅びる。
そんな言葉は薄っぺらだ。
僕らの掲げる正しさなんてとても移ろいやすくて曖昧だからだ。
善行を積めと言う人が笑顔の裏で悪事を働き、悪行を為す人が善意を見せることもある。
その時その時でその人の正しさは変化してるし、間違いも変化する。
誰もが同じ物差しを持ってるわけじゃない。
「お前ほんと気持ち悪いんだよ」
例えば、僕がこうして罵詈雑言を叩きつけられ、殴る蹴るの暴行を受けていても、与える側にとっては正しい行為だ。
周りは、止めないことで自らに降りかかる火の粉を避けそれが正しいと思うのだ。
大人たちは、やめろと言わず、馴染もうとしない僕こそが間違いなのだと言う。
間違うことは悪いことだ。
そんな風潮を植え付けられた僕たちは、間違いを正すことへの行為は全てが正しさに守られていると勘違いしている。
最初に戻ろう。
悪は滅びる。
ならば、間違っている僕こそが滅びるべきなのか?
閉じた狭い世界の正しさと、その外にある広い世界の正しさが違うと言うのに?
勧善懲悪なんて糞食らえだ。
悪因があれば、悪行を為せば、悪果がある。
善因があれば、善行を為せば、善果がある。
因果応報こそ尊重されるべきなのではないか。
誰もが言うだろう。
復讐はなにも生まない、と。
でも復讐は、失ったものを埋める為のものなのだから当然だ。
奪われた物を修理する為の行為に生産性を問うのだから。
勧善懲悪の思想。
復讐は何も生まないなんて言葉は悪を懲らしめてきた正義の語る言葉だ。
それは何よりも薄っぺらで。
奪うだけの彼らこそが何も生み出さない。
僕は血まみれのナイフを握り、僕は奪われた人間の尊厳を取り戻した。




