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9.

 日曜日に約束をして、坂本のマンションを見に行った。都心から一時間。公園に面したわりに大きいマンションで立地はいい。七階建ての三階で東南角部屋。公園の緑が心地よい。思ったよりもきれいにしていて、物はあまりなく、広々していた。

「へえ、わりにいい所ね」

「だって、川澄さんが、こんな所いいわね、って言ったんですよ」

「完全におもしろがっているのね、あいつら。坂本さんがでれでれ言いなりになるからよ!」

 久須美はビシバシと言った。

「あたし、ここでいいわ。この和室で」

 リビングの隣に使い途のなさそうな和室があり、久須美はそこが気に入った。リビングに面しているところは障子になっていて、反対側はベランダに面している。昼間は明るそうだ。

 坂本はふて腐れていた。

「もう、ほんと、勝手なんだから…」

 などと言いながら、

「会社でまでいろいろ、ダメ出しするのやめてもらえませんか?」

 と久須美に文句を言った。

 ここ数日、久須美はすっかりやる気になっており、会社でもビシバシと坂本を鍛えた。にやけていると、メールをして注意して、歩き方にまで注文をつけた。

 坂本の方では、久須美に言われるのは腹が立つのだけれど、人から言われるとどうも気になってしまい、身の回りに気をつけるようになってしまっていた。

「だって、しょうがないでしょ。あたしだって遊びでやってるんじゃないんだから。なんせ、退職かけてるんだから!」

 久須美はきっぱりと言った。引き下がる気はちっともなかった。

「いいわ、とにかく、あたしが来るまでにこの押入れの荷物は他の部屋にまとめておいてください。あたし、洋箪笥あるからそれはここに置いて…、押入れけっこう広いから、突っ張り棒買ってきて、ここに半分洋服かけるようにして…と。冬はこたつね! それにはぴったりね、この部屋」 

 そして、キッチンを確認。

「へえ、わりに食器揃えてるじゃないですか。あたし大して持ってないから…。わりに使えるかもね、こういうのは」

 坂本はもう、返事もしなかった。

 坂本はなかなかの目利きだということで、社内で信用されているところがあった。たぶん会社のつてで仕入れたと思われる、インドネシアかマレーシアあたりのテーブルが居間に置いてあった。素材がよく、足部分に象などの彫刻がしてある。それと対になっている椅子は背もたれに植物を模した装飾があり、タイシルクのうすいマットが置いてある。そのほかにも、さりげなくアジア・アフリカのしゃれた調度品が置かれていた。

 選ぶもののセンスはまずまずだと思うのに…、ネコが踊るネクタイをうれしそうに身に着けるセンスとのギャップはいったいなんなのだろうか。

 久須美はあちこちをくまなく点検し、そこに自分が住むイメージを重ねてみて、『悪くないな』と思っていた。

「いい、坂本さん、皆に軽く言いふらさないでね。こういうことには、ちゃんとしたシナリオが必要なのよ。それに勢いも必要。とにかく乗り切りましょう」

 久須美は目を輝かせた。


 それから八月の退職の日をXデーと決め、それに向けて、仕事を片付け、身辺を片付け、とにかくその一日に向かって久須美は全力を注いだ。エステに通い、デパートの化粧品コーナーで「ナチュラルメークで、ごてごてにならず効果的」な化粧のしかたを習い、歩き方に気をつけ、会社で気になったことがあるとすぐに坂本にメールでダメ出しして、それでも直らないとその日の帰りに坂本を呼び出し、説教した。

「いいですか? 退職のその日一日はあたしが主役になるのよ。あなたにはあたしを引き立たせる名わき役になってもらいたいの。主役の女優をサポートして物語全体を盛り上げる。そういうできた男の自覚をもって欲しいわ」

「そんなこと言われても…」

 とぶつぶつ坂本が文句を言うと、

「しょうがないなあ、今日はあたしがおごるから。何か気をつけると、それなりにお得なことがあるわよ」

 と坂本を励まし、坂本は坂本で

「え? いいの」

 とわりとすぐに調子に乗り、どこから湧くとも知れない久須美の情熱はどんどん高まり、坂本を引っ張った。 

 なんだかんだいって十年も勤めていたのだ。いざ辞めると思うと、なんだか職場が愛おしいような気にもなってきていて、仕事にも力が入った。今までと違い気持ちが引き締まっている。一段高い所にいるような、上から目線が生まれ、人を優しい目で見ることができるようになっていた。

 退職一か月前には、社内にも久須美の退職と結婚の噂が広まっていた。


 そして、やっと退職の日を迎えた。

 その前の週にはカリスマ美容師がいるという原宿の美容院に予約して、カットとパーマをたのみ、このところのナチュラルメークよりは少し気合を入れ、でもあまりごてごてしないように気をつけ、今まで買っていたスーツとはゼロが一ケタ違うパンツスーツを着込んで職場に向かった。

 最後の日、と思うと、さらに皆を愛おしく思い、これまで以上に気分も高まっていた。

 久須美はその日、完全に主役女優になり切った。

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