8.
「いいですか! 坂本さん。結婚ごっこしてくれるなら、嘘だと思ってあたしの言うこと聞いて下さい」
「ちぇっ…」
と坂本はふてくされていた。
「まず、簡単なコピーとか自分でできることは、安易に人に頼まないこと!」
「はあ? そんなこと、関係ある?」
「関係あります!」
話している間に、食事もワインも運ばれてきていた。お酒も入り、食事をし出すと、エネルギーの元が入ってきたからか、もっと力が入ってきた。
「いいですか! 坂本さんだってもう十年以上あそこで働いているんでしょ! それなりに仕事だってできるんだから、もっとしっかり、少しはしゃきっとして下さい!」
「そんなこと言われても…」
「時間がなくて、どうしても自分でできないようなコピーならともかく、ちょっと通りすがりにやればいいようなことは、人になんか頼まずにさっさと自分でやりなさいよ!」
坂本は完全にふてくされて、下を向いてしまった。
「なんだかニヤニヤ笑って女子社員に話しかけるのもやめて下さい。気持ち悪いです。仕事に集中して、そういう雑念は断ち切って下さい」
「だって…」
「だってもなにもないでしょ。あたしの方が年取っている分、少しは人生経験も豊富なのよ。わりに周りのこともよく見ているし…」
たしか坂本は久須美よりは五歳くらい年下のはずだった。もう中年の貫禄があっても良さそうな年頃になっているはずだが、そのわりには、落ち着いている部分がない。
久須美の中で何かがムクムクと大きく育ち始めているようだった。久須美は覚悟を決めて、
「とにかく、ピザが冷めないうちに食べましょ!」
とすっかり、その場をリードしていた。そうやって話している間に、なんだか夢がふくらんできていた。とにかく会社を辞めるのだ! 結婚を機に辞めるのだ! 結婚退職だ!
ワインのデキャンタをおかわりする間に、坂本に会社での心得などをとくとくと話し、
「もう、口開けてくちゃくちゃ食べないの! 口閉めて!」
と、ピザの食べ方にまでダメ出しして、
「ほらほら、脇を閉めて」
などと、姿勢にまでにダメ出ししていた。
そして坂本のマンションについても聞き出し、だいたいの構想を練った。
「あたし、けっこう料理うまいし、掃除洗濯できるし、マンションの返済分の半額と食費と折半だとどうなのかな…。そこまで負担するのは無理かもしれないけど…、しばらくは失業保険もらったとして…。そのうち派遣の仕事とかしてもいいし…。とにかく最初はあたし、家事担当ってことで、食費は持つから」
坂本は、久須美のペースに飲み込まれていた。
「ね、あくまでもあたしたちは、『ごっご』の夫婦だからね! あのね、妻帯者だったら、川澄さんも気を許すかもしれないから…。結婚してからでも遅くないわよ、彼女にアタックするのは。禁断の恋だと燃えるってこともあるかもしれないしね。とにかくそれまでに少しはマシな男になることね。その修行のつもりで、居候を置く、ってそんなふうに考えたらいいんじゃないかしら」
今までの一人暮らしの生活からは見いだせなかった、新しい未来が見えるような気がしていた。
坂本は返事もせず、しょんぼりしながら食事し、うつむいていた。
「そんなことで、川澄さんの気が変わるかな…」
消え入りそうな声でポツリと言う。
「あのね、わりにそういうことで急に失ったものが惜しくなるようなことだってあるんですよ。人の物って良く見えることがあるでしょ?」
なんだか、久須美はセールスマンのように調子よく言葉が出て来るのだった。
「ほんとですか?」
と坂本はずるそうな小さい目を輝かせた。
「そうよ。恵まれない人に手をさしのべるいい人になり切ることね。心の広い人って人を引き付けるから…。外見はそりゃあ大事だけどね、それだけじゃあないはずよ」
久須美はわりに適当に言っていたが、坂本にも何か別の希望がわいたようで、少し元気が戻って来ていたようだった。
「退職には二カ月は必要ね…。まあ、正社員じゃないんだし、そんなにガチガチに考えることもないか…。夏休み前にしようかな…。うん、いいかもいいかも。とにかく、今度のお休みにでもマンションを見に行くわ。きれいにしておいてね」
ワインがさらに久須美の思考回路を活性化しているらしく、気持ちがどんどん大きくなると、どんどん強引になり、話をどんどん具体的に進めてしまうのだった。この勢いに乗ってなんとか乗り切ろう、と久須美は胸をさらに熱くしていた。




