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3.

 ボンジョルノから帰ると、久須美の席には宇佐美が来ており、にこやかに麗奈の帰りを待っていた。

「いやあ、守木さん、良かったですね。おいしかったですか?」

「ええ、とっても」

「それはそれは…」

 なんて、言いながら、

「じゃ、ぼくたちは、新店舗の進捗状況を見に行きますんで…」

 と二人でうれしそうに会社を出て行った。

 やっと気力を持ち直したところだったのに…。久須美の目の前にはまたどんよりと霞がかかったようになっていた。

 そこにぺらぺらっと一枚の書類を持って坂本純吉がやってきた。その紙を久須美の前でぺらぺらさせたので、久須美はさっきのボンジョルノでのメニューのことをぼんやりと思い出していた。

「玉置さん、このコピーお願いね。三枚ね」

 久須美が目を上げると、まずネクタイに目が釘付けになった。ショッキングピンクの地に黒いネコ? みたいな細い動物が立って、体操をしているのか? それが連続模様になっている。

 久須美が唖然とそのネクタイを見つめていると…、

「あ。これ? やっぱり気になります? ちょっとお茶目でしょ?」

 なんて坂本はうれしそうに言いながらも、

「じゃ」

 とその原紙を置いて行ってしまった。

 コピーブースは同じフロアの中央にあり、低いキャビネットで区切られている。

 久須美がコピーを取り出すと…、あろうことか、三枚目でちょうど用紙切れになった。

『まったく…』

 もう踏んだり蹴ったりっていう気持ちになりながら、用紙のストック棚を見ると、ストックが無い!

 用紙などの事務用品の倉庫は一階下の階にあるのだ。それを取りに行かなければならない。

『もう、どこまでついていないんだ…』

 と久須美はそこに置いてある、折り畳み式の台車を広げ、またその台車のタイヤがなんか油切れして軋んでるんだかなんだか、グィグィグィと奇妙な音を立てるのを、気を使いながら押して行き、非難がましく目を上げる人の気配を感じて、じっと下を向き耐えて、エレベータホールまで押して行き…。

 エレベータが来たら、なんか、宅配業者が乗っていて、荷物でいっぱい。ストライプのシャツのさわやかなお兄ちゃんが「あ、ども」と言い、久須美に乗るスペースはなく、乗れず、次に来るのを待ち、やっと一階下りて、またグィグィグィと音を出しながら、そのオフィスの奥の事務用品置き場まで行って、せっかく来たからとコピー用紙五箱を台車に積んで、台車の音が気持ち低めになり、グィグィグィ言わせて、エレベーターを待ち、一階上がり、コピーブースに戻り、四箱をストック棚に入れて、自分が使う一箱を開けたら、なんか、ボール箱に手をはじかれて、自分の目の辺りを自分の手で思い切りひっぱたくことになり…。じんわり目が痛くなり涙が浮いてきた。でもとにかくどうにかこうにか一包みを開けて、コピー機に入れ、さあ、残りの最後の一枚を取るんだ! というところに、坂本がやって来た。

「玉置さん、遅いね! コピー三枚取るのに、どんだけ時間かかるんですか! まいるなあ。ぼくだって遊びで頼んでるんじゃあないんですよ。もう! いい、ぼく自分でやります」

 と、ぷりぷりと怒りながらちょうど用紙の補給が終わったコピー機を動かしている、坂本のその背中に向かって、

「すみませんでした。ちょうど用紙が切れていて、ストック棚にもなくて…、下の階に取りに行っていて…」

 と言うと。コピーの終わった坂本は、

「もう、すぐに言い訳するんだから! 良くないですよ、そういうクセ。まったく、役に立たないなあ」

 とさらにぷりぷり怒って行ってしまい…、久須美はなんだか、もう本当に情けない気もちになって来て、いい年して、目に涙がたまってきた。それはみるみると目からあふれそうになり、焦った。

 まずいと思って、久須美はトイレに駆け込んだ。

 女子トイレの個室は三つある。その一番奥の個室に入った。なんだか、やけにいろいろ情けなくて、これまでの情けない思い出が総動員で押し寄せて来ていた。久須美はしょんぼりとため息をついた。

 と、そこに人が入ってくるのがわかった。コソコソ何かを話している。

その声で、久須美にはすぐに同じ部署の山田幸恵と川澄知美だとわかった。二人とも独身、たしか二十代後半に差し掛かるくらいの同じ年で、いつもつるんで行動している。

 二人の会話がしばし止まった。

 二人は一番奥の個室に誰かいることを気にしているのかもしれない。久須美の耳はダンボになっていた。

「ね、ね、あれでしょ。あげたって…。ピンクのネク……」

 幸恵の方が言っている。

「そうそう」

 ここまでの話で久須美にはピンとくるものがあった。たぶん、坂本のネクタイのことを言っているのだ。坂本は知美に好意を寄せているらしい。それがあからさまにわかるような雰囲気なのは、なんとなく皆気がついていた。これまでにも、そういうことが何度かあった。そういう時、坂本はわかりやすすぎる。

「ね、いくら?」

「千円ぽっきり」

「へえ」

「なんか、貯めてる……、ちょっと…」

 と、こそこそしていて、その先は久須美の耳には届かない。ときどき、ぼんやりつかめる言葉がある。

「四LDK!」

「そう。一人で…」

「バッグ?」

「そうそう」

 そのキーワードだけではよくわからなかったのだけれど、たぶん、ネクタイを買ったお礼か何かに、ブランドもののバッグでもらったということなのだろう。あるいは、バッグをもらったからネクタイをあげたのかな? 「四LDK」とは何なのか? 坂本がマンションでも買ったのだろうか?

「つきあうの?」

「まさか…」

 久須美はなんだか居心地が悪くなってきたので、トイレの水を流した。

 それで、二人はそそくさと外に出たようだった。

 洗面所で自分の顔を確認すると、目のあたりがぼんやり赤くなっている。でも、二人が入って来てくれたおかげで、気分が切り替わったような気がした。

 トイレから自分の席に戻る間、仕事をしている知美、幸恵と目が合った。彼女たちもトイレに誰がいたかが気になっていたのだろう。

 自分の席に戻り、やっと気を取り直してパソコンに向かおうとしているところに、また坂本がやって来た。

「玉置さん、これ、あと一枚追加コピーお願いします」

 おいおい、さっきと同じ書類だよ。急いでいるの、遅いのと文句を言っていたのに、たった一枚を頼みに来る、この坂本という男はいったい何なのだろうか? ちょっとびっくりして見つめると、

「早くお願いしますよっ」

 となんだか怒り気味にまたぷりぷりと行ってしまった。

 久須美の所に頼みに来る間にコピー機の横を通るんだから、コピーを取りに行ってしまえば一番早いと思うけど…。久須美はなんだかおかしくなってきて、『はいはい』と心の中で返事して、コピーを取りに行った。

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