15.
それからの数か月は夢のような日々だった。自分の将来が輝くもののように思えたし、雅人と一緒に歩いているだけで気持ちが高揚し、すべてのものが自分を受け入れてくれているように思えた。その一日一日をなるべく長く続けたいと思っていた。そのためにはどんな努力でもするつもりだった。
卒業した後、久須美は弥生と同じ医療専門学校に通うことに決まっていた。それなのに、進学することすらやめてしまった。雅人と少しでも長く一緒にいたかったのだ。家族に対する反抗心が生まれていたのかもしれない。そのことで、久須美は家族からも孤立してしまったのだと思う。でも、その時の久須美はそんなことちっとも気にならなかった。
まったく女子学生の想像する少女漫画的な世界は甘かったな、と久須美は苦々しく思い出す。
雅人とはけっきょく続かなかった。会えば会うほど、自分と雅人の間の温度差を感じた。久須美はそれでも雅人にすがるような思いを捨てきれなかったし、それに反比例するように雅人の熱が冷めて行くのがわかった。
久須美の身体の中に新しい生命が宿った時。久須美はそれがまた雅人との関係をつなげてくれるだろうと思い、期待し、その命を愛おしく思い、祈るように雅人のことを思った。
だがそのことで、さらに雅人と関係は冷めて行った。久須美はもう、何もわからないまま、身体の中のことだけを思い、それは久須美の中ですくすくと育って行った。
この時になって、久須美は家の中で一人離れた存在になってしまっていたことをやっと実感した。もうだれも面と向かって久須美にどうしろ、こうしろとは言わなかった。
出産の日。
西垣の病院でそれは静かに執り行われ、久須美の中の命は産声を上げ、この世界の一員となった。
雅彦の一番上の兄夫婦には子どもがいなかった。その詳しい事情はわからないのだが、子どもは望めないという事情が夫婦のどちらかにあったらしい。とにかく、久須美の身体の中で育った命は、当然のように、西垣の家に暖かく迎え入れられることになっていたのだ。
久須美は母親として数か月をこの息子と過ごした。あとで聞くところによると、母乳を与えるということで免疫がどうのこうのという、西垣の方の配慮があったらしい。
その息子が輝彦と名づけられたことは知っている。そのあと輝彦の正式な母となる人と一緒に授乳をし、久須美はなすすべもなくその人が輝彦を抱き、うれしそうに見つめているのを無感情で一緒に見つめた。約一年の間、西垣の長男夫婦と輝彦とが少しずつ、抵抗なく親子になるように、すべての台本ができているようだった。久須美は輝彦の幸せを祈り、そこにいなければならなかった。
その時久須美に何ができただろうか?
離乳が進むと同時に久須美が家に戻る時間は多くなり、やがて西垣の家から声がかかることはなくなった。火照る胸をいたわりながら、ただ泣いているしかなかった。雅人の存在はその間にまったく感じられなくなっていた。今どうしているのかも、もう思い起こすことはなかった。
実家でそのことが語られるのはタブーのようになり、不自然にその話は避けられ、その疎外感は久須美の存在自体を否定されているような、不思議な日々だった。
雅彦と久須美の間には何もなかったのだ。皆が無言でそう語っていた。家族は家族の生活を守ることが第一だったのだろう。今なら久須美はなんとなくわかる。だけれど自分の存在は? 久須美はやりきれない思いを整理できないまま家を出た。
それからも盆暮れには家に帰ることはあったけれど、家族の中でいつも疎外感を感じるようになっていた。
母や姉たちにもどうすることもできなかったのだろう、と久須美は今は思っている。
純吉を受け入れる間、眠っていた自分の中のその部分が開かれると、久須美の中のすべての感情が解き放たれた。
それは雅彦を受け入れた時とは違う感覚だった。言葉では説明できない何かが久須美の中で待ち受けていて、思考の壁をやぶり、衝動だけが反応した。久須美は今、必死で純吉にすがりついていた。気持ちが上りつめ、そして爆発した。
今、自分の上で事を終えた純吉をまっすぐ見ることができず、久須美はあふれてくる涙を抑えることができなかった。
ふとわれに返った純吉はそれを当惑して眺めていたが…
「そ、そんな……、泣くことないじゃないか」
としゅんとしてしまっていた。
久須美には何も言葉が浮かんで来なかった。ただばかみたいに泣いていた。
「だって…、光熱費はおれの出費だろ。もう、電気点けたまま寝てて…、腹立ったんだよ。で、なんか、ここに入って来たら、なんか、胸のあたりがはだけて見えてて…、その…、ちょっとくらい触らせてもらっても、まあ、いいんじゃないかと…」
と、自分の行動をなんとか正当化しようとする純吉のことが、なんだかおかしくなり、今度は笑いが起こって来た。
「お、おい! だいじょうぶか? おい? もしかして、初めて? 頭おかしくなった?」
久須美はただ首を横に振った。
「なんなんだよ!」
久須美はそばにあったティッシュをたぐりよせ、鼻をかみながら言った。
「いいのよ。お給料を入れてくれれば。これからはあたしが家計費を管理するわ」
ぽかんとする純吉の顔を見ると、久須美はさらにおかしくなり、
「ね、あなた、もう休んだ方がいいわよ。明日、また会社でしょ」
と純吉の背中を押した。




