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14.

 久須美が育った町は伊豆半島にあった。温泉地帯で、温泉を利用した医療施設が多い。その町で一番大きい温泉医療施設の社宅が久須美の家だった。家族全員がその医療施設にかかわる形で生活しているような、そんな家庭だった。

 母はその医療施設の食堂をまかされている栄養士、父は麻酔医、今は姉二人も理学療法士、作業療法士として働いているはずだった。ここ五年は家に帰っていない。一年に一度家に電話する程度だった。

 その温泉医療施設は町のシンボル的な存在だったし、ランドマークだった。観光を兼ねて療養しに来る人もおり、周辺に住んでいる人にとっては身近な病院でもあった。

 たまたまその院長の息子、西垣雅人と久須美は同級生だった。そして付き合っていたことがあったのだ。久須美にとっては、憧れの人であり、夢のようなできごとだった。

 雅人の方は男三人兄弟の三男で、医者になることを望まれていた。

 勉強もそこそこできたけれど、それを鼻にかけず、けっこう遊んでもいるという噂だった。洋楽にも詳しく、外国からアーティストが来日すると東京まででかけて行くこともあるらしい。男子が集まっているところで、そんな話をチラチラしている姿が久須美は好きだった。

 ある日、学校からの帰り道が一緒になり、久須美はときめいた。

 でも自分から声をかけるなんてことはできなかった。ただ帰り道を一緒に歩いているというだけで、気分が舞い上がってきていた。

 気さくに話しかけてきたのは雅人の方だった。

「この間の猫、どうした?」

 と唐突に雅人が言った。

 それはもう、まったく何の話かわからなかったので、久須美は、びっくっりして雅人を見つめた。

「なんだよ。大きい目だな」

 と雅人が言った。そして、

「ね、こんど、遊びに行かない?」

 と誘って来たのだ。でも、その日はさっさと先に行ってしまった。

 まるで魔法にかかったように、久須美はびっくりしたまま、ほんわりと心を弾ませたまま家に帰った。

 雅人の言った言葉、「この間の猫、どうした?」、「今度遊びに行かない?」このふたつのフレーズが耳に焼き付き、その場面が目に焼き付いてしまった。その言葉は何度も久須美の頭の中で繰り返された。

 猫については、ふと思い出したことがあった。一年くらい前、段ボールの中に入れられ捨てられていた子猫を拾ったことがあったのだ。でも、久須美の暮らす社宅ではそれは飼えない。

 久須美は友達、地域の自治会、獣医師などを回って、その猫たちがどこかの家にもらわれるようにと奔走した。

 きっと、雅彦はそのいつかの自分を見ていてくれたに違いない。そう思うと胸が熱くなった。

 「今度遊びに行かない?」というのは本当のことなのだろうか? それだったらいつなのか? まさか、本当ではないのではないか。

 雅彦に対する思いが募り、久須美は学校に行くのにも気持ちが高揚するのを抑えきれないのだった。


 その頃、仲の良かったすぐ上の姉、弥生は静岡の医療専門学校に通っていた。学校から帰って来た弥生に久須美はそれとはなしに、その様子を言ってみた。

「え? 雅人君って…、西垣の? 遊びって…」

 と弥生はむっつり言い、

「ね、西垣の人といざこざ起こすの良くないし、遊びなんて何のことだかわからないし、期待しちゃだめよ、クスミ」

 今の久須美にはその時の姉の優しさがわかる。姉はたぶん、本当に久須美のことを心配して言ってくれていたのだろう。

 だが、その時久須美ははっきりと思ったのだ。もう、弥生に何か相談するのはやめようと。

 自分の中で光り輝こうとしいている宝を、けなされたように感じた。その光をただ手の中に灯し続けようとしいているだけなのに、なぜそれをけなされるのか、わからなかった。

 学校ではどうしても雅人を気にしてしまうようになった。はっきり雅人の方を見ないようにしていても、身体全体で雅人の存在を感じてしまう。雅人はといえば、何も変わりがないように見えた。

 家で弥生を見ると、なんだか腹が立った。雅人が本気で声をかけてきたのではないだろうことは自分だってどこかでわかっていたはずだ。でも、その焦がれる気持ちを削いだのは弥生なのだ。

 雅人と帰りがまた一緒になる時を待ち焦がれるのと同時に、それがもう起こらなければそのままでいい、と思う気持ちもあった。

 久須美はその、もやもやする自分の気持ちが面倒くさくなってきていて、早く卒業したいと願うようになった。


 その卒業式の日に雅人がまっすぐに久須美の方に歩いて来た。

「よ、遊ぼう」と雅人は久須美の目をまっすぐに見て言った。その様子は皆にも丸見えだった。そんなところで、そんなことを言う雅人に久須美の心は持って行かれてしまったのだ。自分が世界の中心にいることを確信した一瞬だった。

 雅人に連れられるままに入った安っぽいホテルが城のように思えた。ただただ雅人を見つめ、雅人の世界に入り込めると、その時は信じていたような気がする。

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