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第1話 閉鎖病棟

第1話 閉鎖病棟


「何故に地球はこんなにも複雑なのだろうか」

と感じる一人の男が宿舎の玄関前の腰掛けにもたれ掛かっていた。

 ここは八ヶ岳や南アルプスを真近に見る長野県諏訪市であって男の出稼ぎ先である。彼は暗い朝の5時ころに起き一仕事を終えて朝食後に一休みしているのであった。季節は厳寒の1月中旬で、ここでは最低気温が氷点下20度以下となることも珍しくない。それでも男は言った。

「今日は暑くなりそうだな」

 気温はそれほどでもないのだろうが、快晴の日の日差しは確かに肌を焼くような感じを与えるのであった。陽の強さは諏訪盆地が関東平野などより数百m太陽に近いせいではないだろうかなどと考えながら、また男は自然の中へと見入っていった。


 この男の名は田郷数鎮たごうかずちかといい東北の寒村に住居を構えて雪のないときには僅かな畑を耕している。三年ほど前に全ての家族を病で失い、現在は天蓋孤独の身である。そこは彼の故郷である実家であるが、そこに戻ってくる前は首都圏で小さな会社を経営していた。その会社の年商は数千万円で生活のためには有り余る額のお金を稼いでいたのだが、些細なトラブルがきっかけで全ての預貯金を吐き出し、数千万円の負債を負うことになった。その負債の返済に追われながら、最期に残った家族である母の明日をも知れぬ病の看病とで数鎮は身も心も日々削りとられていった。やがて原因不明の激痛が全身を襲うようになり、心にも得体の知れない恐怖が纏い付くようになった。それまでにも軽い幻聴などの予兆はあったのだが、負債を返済するまでは首都圏を離れるわけにはいかなかった。故郷に戻れば返済の目途は全くたたなくなるからだった。やがて母の死と時を同じくして負債の返済も終わり、無一文となった数鎮は故郷に帰ったのであった。


 実家には父の遺したぼろ家とはいえ持ち家を持っていたから、大きな支出もなく雨風もしのぐことはできた。しかし、心身の異常からどこかに勤めに出ることは叶わなかった。そのため、僅かの農作物を生産し数羽の鶏を飼って暮らしを支えていたのだが、支出は大きくはないが、父の遺したほんの僅かの貯蓄は減る一方であった。母は入院していたため、その家は数年人が住んでいなかったからほとんどの電化製品は機能しなかった。テレビも冷蔵庫も洗濯機さえも動かず、唯一の電化製品は会社から持ってきたパソコン一台だけであった。このパソコンをネットに繋ぐ費用月数千円が最大の支出となって、家計を逼迫させていたのだが、数鎮からパソコンをとりあげることは唯一の喜びをとりあげるに等しく、結果として出稼ぎという選択をすることになっていたのである。


 今回の出稼ぎの数鎮の仕事は寒天製造の補助業務であった。ところが補助の仕事とはいえ重労働であったので日差しはあまり強くないほうが好ましかった。朝は厳寒で日中は酷暑となれば、体力を維持する自信が数鎮にはなかった。寒天製造は初めての経験だったので要領もわからず、無駄な労力を使い他の人の3倍も多く動いているような気分であった。同じ従事者には、

「下手くそ」

「遅い」

などとそしりを受けながらただただ己の精神状態を安定させるのが精一杯のできることだったのである。


 ところが、精神の天秤の片一方の重しが外れるときがやってきた。つまり、精神が不安定となってしまったのである。すると行き先は決まっていた。最初は仕事が終わってからお酒を飲んでいたのが、仕事を休んで朝から酒を飲むようになっていった。数鎮は3ヶ月ほど前に退院したばかりであった。入院したときの病名はアルコール依存症で、一生酒を飲んではならないと宣告されていた。傍にないものであれば我慢もできようが、酒などどこにでも転がっているようなものだ。飲むなと言われても数鎮にとって、酒はいつでも手に届くところにあったのである。病院からもらった精神安定剤の効果の効き目より数鎮のストレスの重さが勝った瞬間にこのようなことになってしまったのである。


 結果として解雇となるのは必然であった。故郷に帰って病院に通院するとダメ押しのような診断が待っていた。

「再入院ですね」

 数鎮はただお酒を止める手段の相談に病院に行っただけなのに「この仕打ちは何なのだ」と怒りさえ覚えたのであった。閉鎖病棟に入院させられ出入りの自由は奪われた。病室は4人部屋で皆が似たような病を抱えていた。会話がはずむときはそう多くなく、それはこの病棟が精神疾患者専用で多くが気分性の障がいを持っていたためであった。その中でアルコール依存症者は数段格下の病人と他の患者から見なされていた。同じ病を持つ者同士なのに何故かと考えてしまうが、それはアルコール依存症は酒を飲まなければ病気といえず、飲むのは本人のあまさからくるものであるという通説が理由のようであった。


 アルコール患者には、治療プログラムと称する特別なスケジュールが毎日数時間組み込まれている。数鎮はこのことを知っているからうんざりとしていた。そのプログラムは自分が如何に愚かで他の人に迷惑をかけてきたのかを学ぶことが主題であった。(それなら、おらがこの世から消えたら全て解決するではねぇべか。ここはおらを治してくれるところでねぇ)と数鎮は思っていた。さらにはビデオを見せられ「アルコールを飲み続けるとこうなって死んでいきますよ」と教えられる。これにも(これは脅しではねぇべか。一人一人にここが悪いんですよと教せるのならともかく、悲惨なビデオを見せるだけでここはホラー劇場なんだべか)とも思っていた。とにかく数鎮は何事にも反発を覚えるのであった。


 それというのも最初の主治医がいけなかった。アルコール患者の治療は否認を解くことから始められる。最初に「あなたはアルコール患者ですよ」と告げると多くの患者が否認するからであるが、数鎮は最初から否認しなかった。確かにショックではあったが、(これが心身の異常の原因だったのか)と納得したからである。ところが、主治医は頭から数鎮が否認していると決め付けていた。数鎮が医師に賛意を示そうとも医師はそれに反論を加えた。医師は自分の発言を自分で否定することになり、数鎮への否認を解く治療は支離滅裂となった。医師も拙いと思ったのだろう。会話は「あなたは何もわかっていない」で締めくくられることになった。つまり、医師は数鎮を責めるためだけに治療を行っていたと数鎮は信じている。


 入院してから数日後、病室に看護師がやってきた。入院したときに検査した結果を伝えるためだという。本来なら週に1回の医師の診察のときに結果発表があるのが通例であるが、別の病院で早目に精密検査を受けたほうがいいという判断だったらしい。最近仲良くなった”さっちん”という看護師曰く、

「田郷さんの脳に腫瘍ができているってよ」

 覚悟はしていたが、ついにこの日がやってきたかと数鎮は思った。覚悟の根拠を数鎮は持っていないのだが、己の運命はそうなるのだろうという予感がその覚悟を支えていた。

「ドリルで頭の中に穴を開けるの?」

「そんなことしたら死んじゃうわよ。なんたって、腫瘍は脳のど真ん中にあるんだから」

(やはり、治療不可なのか。そういえば、そんな曲があったな)

などと考えていると、

「冗談よ。腫瘍があるのは本当だけど、良性だって。それを確かめるために大きな病院で検査を受けてきて」

(なんだ。なんだ。運命の歯車が狂っていくのか)

 つまり、数鎮は妄想癖を持っていた。幼いころの数鎮にその兆候はなかったから、これもアルコールの大量摂取の業かもしれない。


 大きな病院で検査を受けた結果、腫瘍は海綿状血管腫という良性のものらしい。しかも、その腫瘍は先天性のものであるらしいのだ。医師が言うには、

「稀に血管から出血することがありますが、おそらく死ぬまで破裂することはないでしょう」

(死んでからも破裂することはないだろうな)

と思いながら、生来の気質から数鎮は医師にいくつかの質問をした。数鎮は知らないことを知ることが大好きだったのである。

 それによると、海綿状血管腫とは血管の奇形種であり、増殖することはほとんどないようである。しかし、海綿状血管腫のできる脳内の部位によりてんかんなどを引き起こすことがあるという。数鎮の場合は脳のど真ん中にできているためてんかんなどの症状を引き起こすことはないようである。しかし、これも生来の気質なのだが、全てのことを懐疑的に見る癖がある。

(おそらく、たいした病気じゃないから研究もそれほど進んでいないのだろうな。ということは、おらは未知の腫瘍の所有者となるのか)


 閉鎖病棟に戻った数鎮は”さっちん”看護師に報告した。

「大したことないってよ」

「あら、残念」

「確かに運命が狂ったことは事実だ」

 数鎮がこのように気さくに人と話せるようになったのは、社会人となってから10年くらいしてからだった。それまでは、人と接することが苦手でできるなら一人ぼっちの方が心地よかったのである。その性質は今でもよく現れる。無性に人と接することが苦痛となり、(皆消えていなくなれ)と思う代わりに自分がどこかに逃亡することにしている。しかし、数鎮がこんな性質を持っていることを誰も気がつかない。数鎮はその性質を隠す仮面を所持することに成功しているようだった。ただしその仮面がいい結果をもたらしているのか否か誰にもわからない。


 数鎮はヘビースモーカーである。病棟の喫煙室が解放されるのは朝6時である。そして数鎮は朝3時には目が覚める。単純計算で3時間の空白の時間ができる。この3時間が数鎮にとってたまらなく苛立つ時間帯だった。この時間帯に喫煙室以外でタバコを吸う方法を思いつく限り試した。トイレで吸ったり、僅かに開く窓で吸ったりしたが、ことごとくがばれてしまった。最期にとった手段は眠剤を増やしてもらうことだった。眠っていれば空白の3時間は起こらないことになる。こうして、夜9時~朝3時の睡眠が、夜10時~朝6時へと変更されていったのである。何故夜10時に寝るかというと喫煙室がその時間に閉鎖されるからである。その結果睡眠時間が2時間増えることになり、昼寝の時間がくるってしまうことになった。


 日中はタバコが吸えるので不満はないが、今度は暇を持て余してしまった。思いついたのが、看護師の詰め所に行って看護師たちとの会話で時間を潰すことだった。というのは、患者の中に会話の相手をしてくれる者が見つからなかったからである。しかし、看護師たちには迷惑な話で最初は適当に相手をしてくれたが、だんだんと邪険にされるようになった。そうすると数鎮の落ち着く先は己の中だけとなる。つまり、自閉症となったのである。


 数鎮にとって自閉症は、傍から見るほど辛いものではない。むしろ、快適でさえあった。妄想にふけようと何かの思考に没頭しようと周囲に迷惑をかけるわけではないから全て自由である。数鎮は幼いときから考えることが好きだった。というより、考えていない時間は寝ている時だけかもしれなく、常に何かを考えていた。この病棟にいる間に何を考えることにしようかとテーマを絞ってみると、(んだ。もっかいあの問題の解法を検証してみるべか)と思い立っていた。


 2年ほど前に数鎮は、数学の未解決問題である巡回セールスマン問題の解法を得ることに成功していた。しかし、その解法の検証を頼んだ何人かの人からの返事は「解法を理解できない」とか「途中までは理解できるが何故解けたことに帰結するのかわからない」といった、解法の否定ではないが、検証に結びつく返答は得られなかった。そのため、数鎮は自分で検証を繰り返したのであるが、それはあまり意味を持たない。第3者によって検証されて始めて成果と呼べるのである。自分一人の考えには必ずといっていいほど盲点が潜んでいる。それでも、数鎮はそれを繰り返そうとしているのである。その解法は捨て去りたい心境の産物であった。仮に解法が検証されたとしても名声もお金も地位も欲しくはなかった。それでも、棄てられないのは、”この解法こそ、己が生きた証である”と思っているからであった。この解法を得るために25年の歳月を要しているのである。


 (おんなじことをくりかえしたのだば、らじがあかねぇ。別な角度から解法を得ねばね)

そう思う数鎮は、病棟の大広間のテーブルに白紙を目一杯広げていた。

(パソコンがあればなぁ)

 パソコンは病棟に持ち込み禁止なので代わりに白紙にペンを走らせるしかなかったのである。しかし、ペンより思考が遥かに速く進んでいく。

(らじがあかねぇ。多分今やってるこだぁ、無駄なことだ)

ということで、テーブル上の白紙は一日だけ広げられただけだった。数鎮の持つ才能による産物が妄想上のものか現実に姿を現すものか、未だ誰も知らない。


 看護師の詰め所では、こんな会話がされていた。

「田郷さん、最近落ち込んでいるわね」

「落ち込んでいるというか、自分の中だけに閉じこもっているというか」

「えっちゃんが冷たくしたからよ」

「だって、さっちんが田郷さんだけ特別扱いしないでっていうから」

「えっちゃんが田郷さんを一人じめするからよ」

「え~。あれ、さっちんのやきもち?」

「そうじゃないけど…」

「でも、田郷さんはかっこいいってわけじゃないけど妙な魅力があるのよね」

「そうそう、何をやっても憎めないっていうか」

「ほらほら、何そこでお喋りばかりしているの」

ということで、看護師の詰め所で数鎮が邪険にされたと感じたのは大きな思い違いであったのだ。

「主任。田郷さんのことなんですけど…」

「なあに。境悦子看護師」

「最近、自閉症が進行しているような気がするのですが…」

「それはわたしも気になっていたわ。今日田郷さんの主治医が来るから相談してみるわね」


「そんなに酷いのかね。確か彼はアル症患者だったよね」

「はい。典型的な自閉症というよりは近寄り難い狂気さえ発しているような気がするんです」

「わたしが診察してもいいけど、ここには腕のいいカウンセラーがいるから彼女に任せてみよう」

 要するに、主治医は田郷と接するのが億劫なだけであった。確かに田郷が自分を見る目に狂気が宿っているように感じてことは事実であったのである。

 カウンセラーは任意団体から取得した資格で国家資格ではない。従って、カウンセラーの腕前は玉石混交となる。ここのカウンセラーの腕前がいいと評価したのが誰かわからないが、田郷はこのカウンセラーからカウンセリングを受けることになった。


「こんにちは。初めましてですね。そして、よろしくね。そうそう、わたしの名前は四方遥といいます」

「ああ、こんにちはです。田郷です」

「田郷さんの心配ごとは何ですか」

「何が心配なのかわからないのが心配ごとですね」

「そう、そうですよね。田郷さんは正直だわ。本当に心配ごとがわかる人はそう多くありませんからね」

「じゃあ。悩みは何ですかかなんて聞かないですよね」

「もちろん」

 最初、身構えていた田郷も心に少し余裕ができてきていた。

「ねぇ。田郷さんの心を少し探っていい?」

「それが商売なんでしょ」

「そういう意味じゃないんだけど…」

「まさか、読心術なんて言わないですよね」

「そこまではいかないわ」

「じゃあ、どこまで?」

「そうね。共感術というのかしら…。あら、初めてだわ。このこと言うの田郷さんが初めてなんです。最初一目見たときから感じていたけど、もしかするとあなたもわたしと同類かもしれないわ」

「同類?」

「そう、異なる心の持ち主って亡くなった祖母が言っていたわ」

「異なる心か…。でも。人の心は皆違って当たり前じゃ…」

「わたしにもよく理解していないんですが、感じ方が他の人より敏感ということかしら…。祖母が急逝したので詳しいことを伝授されませんでした」

「お祖母さんは何をやっていたの?」

「巫女です。由緒ある神社の直系の巫女でした。祖母なら読心術もできたのかも?まさか、それはないわね」

「今その神社は?」

「わたしが中学生のころ、不審火があって焼失しました。祖母も父母もそのときに…」

「由緒ある神社だったら再建されたんじゃないの」

「再建されたけど、別の神社に併合されたって聞きました。それ以上は…」


「あら。田郷さんのカウンセリングだったわ」

「どうぞ。いくらでも探って。自分でも自分がよくわからないから丁度いいかもしれない」

 田郷は、話し相手が標準語だと訛りが消えるようである。意識してやっているのではないだろうが、おそらく訛り言葉が出るときが本音が漏れるときと思われる。

「少し催眠かけますね」

「いいよ」

「あなたは3っちゅです。今何処ですか?」

「う~」

「落じた。誰か上から落じてきたぞ」

「車だ。車に乗せるだ」

「あ~。苦しかった」

「どうしたの?」

「2階で遊んでいたら下に落ちたの」

 田郷は3歳前後のころ、よく高いところから落下したようである。橋からおちたときもあれば、火の見櫓から落ちたこともあるようである。遥には何故こんなにも高いところから落下するのか理由まではわからなかった。


「あなたは5つになりました」

「え~ん」

「どうしたの?」

「母さんが泣いてるの」

「どうして?」

 これには返事がなかった。わかることは、母親が何らかの理由で泣いていて、それを見た数鎮も泣いているということだけである。

「あら、あなた二人いるの?」

 遥には、数鎮が二人いるように感じられた。

「おら、一人だよ」

 返事は一人の数鎮からしか返ってこなかった。


「あなたは7つになりました」

「父さん、なぬやってんだ」

「やがます」

 遥に数鎮の感覚から、がんがんという物を投げつけているような音が聞こえてきた。そのうちその音が静まり、

「ようやぐ、寝たが」

「父さんを2階さ連れでくべ」

 これは母親の声のようである。

「ここさ、寝がせどけばいい」

「そやしたら、死んでしまうべが」

「毎日こんたらこどやるのだば死んだ方がええ」

「そやしたら、明日からどやしてまんま食うのよ」

「そが、しがたねな」

 今度はゴツンゴツンという音が聞こえてきた。どうやら、父親が2階への階段で頭をぶつけている音のようである。


「きゃー」

 遥の叫びが部屋中に木霊した。

「数さんが3人か4人いるわ。しかも1人か2人はもの凄い闇の心を持っているわ」

 パンパンという遥の手を打つ音が響いた。それによって催眠が解けた数鎮も意識を取り戻した。

「何かわかった?」

「わかったけど、続きは後日にしましょ」

「何かわかったんだ。おらには話せねのが?」

「いいえ、逆よ。たくさん、聞きたいことがあるわ。あなたの父親はお酒呑みだった」

「毎日、浴びるほど呑んでいたよ」

「やはり、あれは父親の酒乱の状況だったんだわ。あなたの父親はアルコール依存症と診断されたことはないの」

「いくら呑んでも次の日には仕事にちゃんといくからおらはアル中じゃねぇって言ってたからね」

「仕事に行くこととアル中、今だとアルコール依存症ね。とは関係ないわ」

「じゃあ、父さんもアル症だったの」

「その可能性は高いわね」

「でも、病院に連れていくわけにはいかなかっただろうな。稼ぎ手がいなくなるから」

「あなたの母親もそんなこと言っていたわ」

「え?」


「ところで、数さんは夢遊病か無意識に何かやってしまったという経験はない?」

 遥の呼称はいつの間にか田郷さんから数さんに代わっていた。

「小さいころ、お婆ちゃんに夢遊病を見つかったことがあるよ。あのときはびっくりしたな。でも、無意識に何かやってしまったという経験はないな」

「じゃあ順番に話していくけど、数さんはおそらく真性のアダルトチルドレンよ」

「アダルトチルドレン?」

「幼いころに虐待を受けたり心に深い傷を負ったりすると、その子も大人になって精神障がいを持つ可能性が高いの。その子たちのことを アダルトチルドレンというの」

「そうなんだ。じゃあ、おれの病気は親譲りってことか。なんか気が楽になったな」

「そんな無責任な」

「じょ、冗談だよ。苦しんでいるのはおれだよ」


「で、次が重要なの。数さんが3人か4人いるように感じるのよ」

「え?」

「そんな感じがするのよ。同じ数さんなんだけど、違う数さんって感じかな~」

「遥ちゃんにはわかってしまうんだ。実は、3年前に死んだ母さんから固く口止めされていたんだ。自分の中に複数の心が存在することは絶対に秘密にしなければならないとね」

「数さんのお母さんもそうだったの」

「それはわからないけど、母さんはおれのことに直ぐ気がついたようだった」

「やはりお母さんもそうだった可能性が高いわね。で、どんな感じなの」

「どんな感じと聞かれても答えようがねぇな~」


 そこで、遥は似たような精神疾患である解離性同一性障害、つまりかつて多重人格と呼ばれた障害について説明を始めた。その内容を要約すると次のようなことである。

 解離性同一性障害は、同一の人が複数の人格を有し、人格交代を起こす障害である。人格交代を起こし表層に現れる人格は一時に一人とされている。その表層に現れた人格は他の人格の存在を知らないケースが多く、一時に複数の人格が表層に現れたとする症例は報告されていない。この障害の原因を特定することの難しさは、原因の種類数とその複合性にある。様々な原因が複合化していき人格数が増加するケースもあるという。数鎮の原因を考えてみると、幼児期の虐待や家庭環境、そして家族との死別が挙げられるが、数鎮が発症した時期と合致しないものもあり、さらには人格交代が行われているのかも明らかではない。


「例えばだけど、他の人格と会話できるの?」

「できるときもあるよ」

「できないときはどんなとき?」

「あいつがいないときかな」

「他の人格がいないときもあるの?」

「その質問はあいつにしてやって欲しいな。だって、いるかいないかおらにはわからねべや」

「そうね。無視してるのかもしれないしね。ところで、あいつに名前は付けてるの?」

冷奴ひややっこ

「え?どうして?」

「冷たい奴だから」

「どんなふうに?」

「おらが苦しんでいるときも冷ややかな目で見てるんだ」

「見ているのがわかるの?」

「わがるよ。そういう気を発して見でるがらな」

「他にはなんかある?」

「おらが本気で怒っているときも冷奴だな。だがら、ついついいがりを引っ込めてしまう」

「それはいいことかも…」

「いいごどなんかな。本気で怒りたいときもあるども」

「別の人格もいるの?」

「何人かいるけど、あいつには会ったことがないな」

「それ誰?」

「門番ってやつがいて、この先に進んではいけませんって言うんだ」

「つまり、門番の先の人格には会ったことがないということね」


 遥は数鎮との会話からいくつかのことを考えていた。

(おそらく数さんは、解離性同一性障害の亜種だと思うわ。特徴は人格交代のない同時に複数の人格が表層に現れることだわ。そもそもこの障害の原因を特定することは難しいのだけど、数さんの場合は特別に難しいわね。お母さんも同じ障害を持っていたとすると遺伝の可能性もあるし、催眠のときの様子から父親の虐待というより父親と同格の敵対関係という印象もあるわ。第一これって障害なのかしら。人格交代がないということは生活に支障はないはずだわ。問題があるとすれば、自閉症に繋がりやすいことかしら。自分の中に別な人格の話し相手がいるんだから周りの人がいなくても寂しくないかもしれないわ)


「もう少し探らせてね」

「いいけど。今までで何かわかったの?」

「う~ん。わかったようなわからないようなというところね。でも、数さんは特殊だということは断言できるわ」

「特殊か~。いいのか悪いのかはっきりしねな」

「ごめんなさい」

 暫く、遥の探索が続いていた。そして、遥が言うには、

「数さん。寂しいと感じたことある?」

「寂しい?」

「例えば、一人ぼっちになったときや心細いときなんかの心境よ」

「よぐわからねな」

「やはり。じゃあ、悲しいと感じたことは?」

「母さんが死んだときの心境?」

「そう。例えば、それよ」

「あれがそうなら、多分悲しいと感じたと思う。初めての経験でとても不思議な心境だったな~」

「お母さんが亡くなったとき、家族の全てを失ったのよね?」

「そうだよ」

「じゃあ、寂しいとも感じたかもしれないわ」

 これは、遥の大失敗であった。

「そうか。あの心境は悲しいと寂しいが入り混じっていたから不思議な心境だったんだ」


 カウンセリングが終わり、遥は毎日勤務が追えた後数鎮を面会し、カウンセリングを無償で継続することを告げた。

「えのが?」

「いいのよ。数さんには悪いけど、わたしは仲間ができた気分なの。数さんもわたしも特殊でしょ。だからもっと探ってみたいの」

 遥はカウンセリングの報告書に「アレキシサイミヤの疑いあり。特に寂しいと悲しいの感情を失っている可能性が高い」という主旨の文章を提出した。

 そして、早速その日の勤務明けの後数鎮を訪れた。

”ピンポ~ん”数鎮は閉鎖病棟にいるから、まず看護師の呼び出しボタンを押さなければならない。呼び出しに出てきたのは”さっちん”であった。

「あれ、四方さんどうしたんですか?」

「田郷さんに面会したいの」

「四方さんなら、ここフリーパスですよ」

「いいえ、個人的な面会だから、規則を守るわ」

 さっちんは、ピンときた。ピンときた瞬間に殺意が芽生え四方を睨みつけようとしたが、それは0.001秒ほどで萎えてしまった。四方遥はこの病院で最も可愛いとされる女性である。諦めたさっちんは田郷を呼びに行った。

「田郷さん、面会ですよ」

「誰かな?ああ遥ちゃんかも」


 これを見ていたえっちゃんが言った。

「さっちん、今晩飲みにいこうか」

「朝まで飲も」


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