第3夜 美談(1)
その日は寝苦しい夜だった。そろそろ来るはずの彼が入ってこられないように、しっかりと戸締りをした。ドアの鍵だけではなくて、窓の鍵も、バルコニーへと繋がるガラス戸にもしっかり鍵をかけた。
これで大丈夫と思うのに眠れなくて、ベッドの中でだるい身体を持て余す。もしかしたら微熱があるのかしら…。そんなことを思いながらぱたりと寝返りを打てばベッドサイドの紅い瞳と目があった。
「ひっ!」
喉が息を吸い込む音がしたけれど、声が出ない。彼がその瞳を細めてにやりと嗤う。
「いいね。その表情。たまにはこうやって驚かすのも面白い」
「あなた…一体…鍵がかかっていたのに…」
震える唇をなんとか動かして文句を紡げば、彼は鼻で嗤う。
「こんな屋敷の鍵なんて、僕にとっては無いも同然だ。それで自分の身を守ったつもり? あまりの浅はかさに笑えてくるね」
彼の唇の両端が上がる。いつの間にか彼の瞳はいつもの色に戻っていた。紅い瞳は私の見間違いなの?
「それで? 今日の選択は?」
「あ…」
思わず唇を噛む。そんなにいつも面白い話なんて用意ができるわけがない。とっさに思い出したのは、マリーが話していたテムズ川の幽霊。
「あの…テムズ川に幽霊が出るって」
「ふーん」
彼は興味がなさそうに私を見下ろしている。
「白い影なんですって。川の傍に出るのよ」
彼は肩をすくめた。
「それで? その白い影は何かするわけ?」
思わず黙り込む。そんなの知らないわ。白い影が出るっていうことしか聞いていないんですもの。
黙り込んだ私に、彼はぐいっと顔を近づけてにやりと嗤う。
「じゃあ、今日は身体か…命か…」
「ま、待って!」
彼の両手が私の肩を掴んだところで、思わず私は引き止めた。
「何?」
「えっと…。イーストエンドの美談は?」
もう思いつく限りを全部話すしかない。もしかしたら彼が気に入るかもしれないもの。 ダメかもしれないと思いつつ出した言葉に彼は興味を惹かれたらしい。肩にかけられた腕が私から離れて、彼の胸の前で組まれた。
「どんな話?」
「さ、最近、イーストエンドの子供を支援して学校に入れている人がいるんですって」
「へぇ」
「わざわざ寄宿生の学校に入れているって。すでに数人が行ったのよ」
「イーストエンドなんて、自分たちだって苦しい生活だろうに。そんな余裕がどこにあるわけ?」
「し、知らないわ。でも凄いと思わない?」
ふん、と彼は鼻を一つ鳴らしてから、トントンと細い指で自分の腕を叩いて何かを考えるそぶりをした。
「ちょっと興味が惹かれたよ。もう少し細かく話して?」
そんなことを言われても私そんなに知らない。それでもマリーから聞いたことを全て話すと、彼はにやりと嗤った。
「OK。今夜はこれで帰る」
「え?」
あまりにあっさりと帰ろうとする彼に、私は思わず毒気を抜かれる。本当に何もしないで帰るの? いつもはあんなにも私を翻弄していくのに…。
「何? 残念?」
「そんなことは無いわ。さようなら!」
そう言いきれば、彼はくすくすと楽しげな笑みと共に私にばさりと毛布をかけた。いきなり視界が完全な闇に包まれる。どけようとしたけれど、毛布の上から彼の手が私の頭を押さえつけているみたいで、振り払うことができない。
「ちょっと」
「この話の続きを…そうだな、三日後ぐらいに話してあげるよ。きっと君も気に入るよ。それまで…お預けだ」
そう涼しげな声が聞こえたと思ったら、毛布にかかっていた圧迫感が消えた。慌てて頭を解放したときには、すでに部屋の中に彼の姿はない。
「一体…どこへ…」
この日、彼はまったく何もせずに消えてしまった。
ふっと自分の中に残る何か。なぜ?
どこか寂しい気持ちがするなんて…。そんなこと、あるはずないわ。