第2夜 名前(3)
しばらくしてから、彼がため息をついたのが聞こえた。
「シ…ン…」
彼が言った名前はうまく聞き取れない。聞き覚えの無い音で…。でも一番近いファーストネームを頭の中に思い浮かべた。
「ショーン?」
そう言った瞬間に、彼の瞳は一瞬落胆したような色を浮かべて、それから意地悪く嗤う。
「まあ、いいよ。それで」
「違うの?」
「別に。君が思ったならそれでいい」
「でも…正確な名前が知りたいわ」
「なんでそんなに名前にこだわるわけ?」
「だって…」
彼は再びため息をついた。
「教えない。僕の名前には意味がある。君が完全に僕のものになるっていうなら教えないこともないけど」
「なっ」
「僕は名前を正確に呼ばれるのは好きじゃないんだ」
「勝手な人ね」
そうつぶやけば、彼は顔をぐいっと近づけてきた。さっきまでの弱弱しい態度はどこへやら。強気の彼に戻っている。
「聞いてきたのはそっち。僕はできる限り教えた。だから僕の名前を…大事にしてよ」
最後の言葉だけが、少し自信なく聞こえた。
「大切にするわ」
そう答えたとたんに彼は目を丸くした。なぜか驚いたらしい。それからふっと目が細められて、彼の涼しげな声が耳元に響いた。
「君は…馬鹿だな」
「ちょっ」
文句を言おうとしたとたんに、口付けで封じられた。離してもらおうと胸元を叩くのに、がっちりと押さえつけられて、呼吸もままならない。苦しくて思わず緩んだ唇から舌が入り込んでくる。
舌が私の口の中を生き物のように動き回って、何かを探すように隅から隅まで這っていく。息ができなくて…ぼーっとしたところで、彼の唇が離れた。
「悪いけど…今日の選択肢はナシだ」
ちょっと待って。ずるいわ…そう言いたいのに、私の言葉を彼の唇がふさぐ。そして彼は私のベッドに滑り込んできた。
嵐のような時間が始まった。彼の唇に、彼の手に翻弄されて、何もできない。わずかに抵抗しようとした両手は、彼の片手で抑え込まれた。蹴ろうとした足ですらも、どうやったのか彼に押さえ込まれて自由に動かせない。
どうしようもなくて涙が出てくる。
「なんで泣いているの? 痛い?」
違う…。
「こういうことは…いけないのよ」
「なんで」
「神様の前で誓ってからすることだわ」
彼が嗤う。
「じゃあ、誓ってあげるよ。僕は君が死ぬまで離れない」
簡単に誓われた言葉に思わず涙が止まった。
「そんな…簡単に」
「あ、それとも教会で誓えばいいわけ? だったらそれも簡単だ」
「なぜ…どうしてそんなに簡単に誓えるの? 神様に誓うのよ?」
「別に。神様なんて信じてないし」
「そんなっ!」
「神様、神様。君はずっとそれだ。その神様は、君を守ってくれた? 君は見捨てられたんだよ。その証拠に処女じゃない」
な…なにを…。
「神様を信奉する女性は結婚するまで処女を守ろうとする。特に良家の娘ならなおさら男性を受け入れないようにする。でも…君が僕とここで行っているのは…逆の行為だ」
ようやく…理解して、一気に血の気が引いた。彼が面白がるように私を見る。
「いいね。その顔。人間が絶望する顔って素敵だよ」
「ひ…ひど」
「酷い? そう? まあ、そうかもね。だから誓ってあげるよ。君が死ぬまで傍にいる。それでいいんだろ? 君の理屈でいくと、神様に誓ったら、こういう行為をしてもいいわけだ。僕は誓った。あとは君が誓うだけ」
「そんな…あなたはいいの? 私のことを良く知らないのに、そんな誓い…」
「簡単だよ。君に飽きたら…君を殺せばいい」
目の前が真っ暗になった。その後のことはよく覚えていない。ただ彼に翻弄されていただけ。気づけば朝になっていて、そして彼は居なかった。
私は自分の罪深さに恐れ慄いた。なんということ…。私たちはなんという、恐れ多いことを…。