第2夜 名前(2)
夜になって、やっぱり彼は来た。暗闇の中で人の気配を感じて目を覚ませば、いつの間にかベッドサイドに立っている人影。黒髪にきちんとした身なりで立っているのは彼だ。
「あなた…どこから入ってくるの?」
私が体を横たえた姿勢のままそう問えば、彼は肩をすくめた。返事をする気はないらしい。私のベッドに腰を下ろして、顔を覗き込んでくる。薄い茶色の瞳が私を射抜くように見つめてきた。
「それで? 今日の選択は?」
「選択?」
「そう。面白い話を用意した? 身体を任せる? それとも…死んでみる?」
彼の唇の両端だけが、キュッと上がる。
「酷いっ!」
思わず声を上げてしまえば、彼の手が私の口をふさごうと伸びてきた。そのときだった。コンコンと遠慮がちなノックが聞こえてから、ドアが開かれる。
「アリス…大丈夫?」
慌てて音がした方へと視線をやれば、ほんの少しだけ開けたドアからお母様が顔をのぞかせた。もう眠ろうとしていたのだろう。ナイトウェアにガウンを羽織っただけの姿だった。
「廊下を通りかかったら声が聞こえたから…」
はっとして周りを見回せば彼の姿がない。本当にさっきまでここに居たのに。私は慌てて取り繕った。
「ちょっと…寝ぼけたみたい…心配かけてごめんなさい。お母様」
そう伝えれば、燭台を持ったお母様が傍へ来て私の頭を撫でた。そして小さい子にするみたいに、額にキスをしてくれる。少しくすぐったいそれが、今はなんだか安心できた。
「ゆっくり眠りなさい」
毛布を肩までかけてくれてから、ぽんぽんとその上から軽く叩く。小さなころも体調が悪くなって、泣いているとこうして寝せてくれることがあって、なんだかそれを思い出してしまう。
「お休みなさい。アリス」
「お休みなさい。お母様」
挨拶を交わした後にドアが閉まる。改めて回りを見回せば、彼はいない。夢だったのかしら? 彼は一体…。
そう思って天井に目をやった瞬間だった。
「ひっ!」
思わず声を上げそうになって、息をのむ。
寝たままの姿勢の視界に映ったのは、天井に張り付いた紅い瞳の彼だった。目だけがらんらんと光るその姿に、ガタガタと身体が震えだしたところで、彼がするりと降りて来る。パサリと布が擦れる音だけが聞こえた。
「意外に大変なんだよ。こういう天井に張り付くのは」
言葉とは裏腹に事も無げに言って、にっと嗤った。さっきの紅い瞳は見間違いだったのか…。今は薄い茶色…アンバーの瞳がからかうような表情でこちらを見ている。
「アリス…ね」
「な、何よ」
歯の根が合わないままに答えれば、また意味ありげにニヤリと笑う。
「まったく君にふさわしい名前だよ。平凡でつまらない名前だ」
「ひ、酷い…」
「一体この国に、何人のアリスがいると思う? ロンドンでもかなりの数だ。石を投げればかなりの確率でアリスに当たるんじゃないかな」
どうして…酷いことばかり…。思わず視界がゆらゆらとゆがむ。泣き顔なんて見せたくないのに、涙がこぼれそうだった。
「そ、そんなの。ひいお祖母様のお名前をいただいたのよ。大事な名前なの」
「へえ」
ちっとも感心していない声で、彼に返事をされて思わず言い募る。
「じゃあ、あなたの名前は何? そう言うからには立派な名前なんでしょうね」
彼は肩をすくめた。
「教える気は無いよ」
ずるい…。馬鹿にするような彼の顔を見ているうちに、頭にくる。
「きっと聞かせられないような名前なんでしょっ。だから言えないんだわ」
「そんなことは無い」
「じゃあ、何?」
「君に告げる気はないよ」
「やっぱり言えないような名前なんじゃない」
そう言えば彼はむっとしたようだった。月の明かりだけの薄暗がりの中で、顔をしかめたのが分かった。彼が私のベッドに腰をかける。
「なんでそんなのを知りたがるわけ? 名前なんてなんだっていいじゃないか」
「良くないわ。名前は大切よ」
彼が顔を近づけてきた。
「じゃあ、僕が名前を教えたら、君は僕の名前も大切にしてくれるわけだ」
「そうよ」
そう言いきったとたんに、彼の瞳が揺れた。視線が私の顔から逸れる。こちらに晒される横顔からは、彼の表情を読み取れない。怒ったの? それとも呆れたの? 分からないままに私も黙って、彼の横顔を見つめる。