第2夜 名前(1)
「ねぇ。面白い話はないかしら」
長椅子から少しだけ身体を起こして、私の脱いだネグリジェをランドリーメイドに渡している侍女のマリーを見た。マリーはそのまま、私のいる長椅子の傍まで来て、お茶の用意をし始める。かちゃかちゃと食器が微かな音を立てる。ティーポットにお湯が注がれて、砂時計をひっくり返す。いつもの風景。
ここでようやく手を止めて、マリーは一瞬考え込んだ。
「面白い話ですか?」
そして思いついたような笑顔を見せてから、砂時計の砂の落ち具合を確認して、盛り付けてあったマドレーヌを1つ、私用に皿に移してから長椅子の前のテーブルに置いた。
「そうですね。イーストエンドの美談はどうですか? 最近、イーストエンドの子供を支援して学校に入れている人がいるそうですよ。わざわざお金を与えて、寄宿生の学校に入れているのだそうです。すでに数人が行っているとか」
私はため息をつきそうになった。子供を支援する美談! きっと美談なんて彼は面白いと思わないだろう。童話や普通の物語ではダメなのだ。
数日ごとに訪れる彼が残した私の胸の印はうっすらとし始めており、訪れの時期を知らせていた。急いで面白い話を見つけなければならないけれど、部屋の中にいる私にそんなものが見つけられるわけがない。諦め気分でマリーがティーポットからカップに紅茶を注ぐのを見ていた。
辺りを紅茶の良い香りが漂う中、マリーは私の様子に気づかずに喋り続けている。
「しかもそれを行っているのが、同じくイーストエンドの女性だそうです」
「女性?」
「そうですよ。肉屋のおかみさんで…なかなかできないことです」
さらにその女性を褒めるように口を開こうとしたマリーを遮って、私は他の話を促した。
「他…ですか?」
「ええ。何か怖い話とか…不思議な話とか…」
少し考え込んで、マリーがまた話し出す。
「お嬢様が熱を出さない程度の話…というのが難しいですね」
思わず笑ってしまう。照れ隠しにカップに手を伸ばして、一口紅茶を飲んだ。丁寧に入れた紅茶の豊かな香りが口の中に広がっていく。
「大丈夫よ。小さな子じゃないんだから」
それでもマリーは信用していないのか、話を選ぶように「あれは…ちょっと…」と呟いてから、思い出したように顔をあげた。
「お嬢様。テムズ川の幽霊はどうですか?」
「幽霊?」
ロンドンに幽霊の話は多い。小さいときなど、ロンドン塔の幽霊の話を聞いて熱を出してしまったぐらいだ。私が思い出したそのことを、マリーも思い出したようだ。
「お嬢様、聞いてもお熱をお出しにならないでくださいね」
思わず頬が赤くなるのを感じた。
「もう。そんなに小さくないのよ」
マリーがゆるゆると首を振る。
「お嬢様はちょっとのことで、すぐにお熱をお出しになりますからね。心配なんです」
「いいから話してちょうだい」
そう言えば、マリーはちょっとだけ私を探るように見てから、話を始めた。
「テムズ川に幽霊が出るらしいんですよ。ぼーっと川べりにしゃがみこむ白い幽霊だそうです。姿形から女の幽霊だとか」
「それだけ?」
「ええ。それだけです」
もったいぶって話してくれた割りに大したことが無く、私ががっかりした。これでは彼は満足してくれそうにない。
「他には無いの?」
「他に…ですか?」
マリーが考え込むように小首をかしげながら、視線を泳がせた。
「そうですね…。ちょっと思いつきませんが…。お嬢様が面白い話や変わった話がお好きなら、誰かに聞いておきましょう」
そう約束してくれた。