第1夜 壁(4)
「いつまで泣いているの?」
トンと軽い振動と共に動きが止まって、そしてまた揺れて、私はどこかに置かれた。
柔らかい感触の上。ベッド?
ぐぃっと胸元を開かれる。嫌っ! と声をあげようとしたのに、それは彼の手で押さえ込まれた。そして胸に感じるチリッとした熱い痛み。
また印をつけられた…。
「目を開けていいよ」
恐る恐る目を開ければ、そこは自分のベッドで…。そして目の前に紅い瞳。
「勝手に死ぬことは許さないよ。僕を楽しませて」
頭の中に染みこむ声。それは心の中に打ち込まれるように響く。
「また印が消える前に来る。今晩みたいな楽しい話を用意しておいて」
その声と共に、頭の上から毛布がかけられて…慌てて取り去って視界が戻ったときには、もう彼はいなかった。
昨日のことは夢?
そう思ったけれど…胸につけられた印は紅く…。それはあの瞳を思い出すぐらいに紅く、しっかりとついていて…。
一緒に思い出されるのは彼の声。
―――勝手に死ぬことは許さないよ―――
どうして? どうして彼は私にこんなことをするの? 私が路地を見てしまったから?
私は声をもらさないように、枕に向かって泣き続けた。
泣き明かして目が真っ赤になった日の夕方。お父様が心配して様子を見にきてくれた。皆が私に泣いた理由を聞くけれど言えるわけもない。私は皆を裏切ってしまっているんですもの。
神様の前で誓った人とするはずの行為を、見ず知らずの人としてしまった。そしてその彼が…私を訪ねてくるなんて…言えるわけがない。
でも一つだけ…お父様に言えることがあるならば…。
「お父様」
「ん?」
ベッドサイドで私の顔を見ていたお父様に、私は告げる。
「あの別荘…。もしかして壁の後ろに何かあるんじゃないかしら」
「壁の裏か?」
「もしかしたら…古い配管で水漏れしているとか…。だとしたらすぐに売ってしまうほうがいいかも…」
「ああ。確かに壁の裏に配管が通っているかもしれないなぁ。すぐに調べさせるとしよう」
「え? でも修理するぐらいなら、売ってしまったほうが…」
「何を言うんだ。修理するほうがいいよ。いい別荘なんだ」
でも…もしも彼が言うことが正しかったら? 本当に死体が埋まっていたら? ううん。そんなことあるわけない。きっとあれは私を脅かすためのウソ。
ううん。それ以上に、あんなふうに抱きかかえられたまま、すぐにあの場所にいけるなんてない。もしかしたらすべて騙されていたのかもしれない…。もしかしたら夢だったのかもしれない。きっとそうだわ。
そう考えて、気持ちが少し軽くなった。自分の胸元にある紅い印には気づかないふりをする。そう。きっと夢だったのだ。
「そうね。お父様。壁の裏を調べて…修理したらいいかもしれないわ」
お父様がにっこりと笑った。
そして三日後。彼はまた私のベッドサイドにいた。夢だと思ったのに、彼は実在していて、やはり私を訪ねてくる。
「あなた…」
「やあ。今日も面白い話を用意した?」
「あの話の続きはどう?」
私は少し震える声で言う。でも彼はつまらなそうに鼻で嗤った。
「どうせ死体が出てきたんだろう? 誰の死体だった?」
私は嫌々ながら口を開いた。
「…前の持ち主の奥さん…。行方不明だったんですって」
その瞬間に彼は満足そうに嗤う。
「ほら。やっぱり人間は愚かだ。自分の家に塗りこめるなんて、犯人は自分だと言っているようなもんじゃないか」
思わず彼を睨みつける。
「じゃあ、あなたならどうするって言うの?」
彼は肩をすくめた。
「全部消し去るね。証拠隠滅だ」
「そんなこと…」
できるわけない…と言おうとして言葉が止まった。彼が唇の端を持ち上げて、にやりと嗤う。冷たい目をしたまま。それはどこか背筋が寒くなる表情で…頭で否定しながら、心が肯定した。
多分、彼はその言葉通り実行するのだろう。きっとすべてを消し去ってしまう…。
「どうしたの?」
「あなた…何者?」
彼は肩をすくめた。
「それを君に言うのは…まだ早いね」
そしてまたぞくりとするような笑みを浮かべた。