第1夜 壁(3)
「で?」
「これでおしまい。その染みの原因は分からないまま」
「その別荘、どこにあるの?」
彼は少し興味を惹かれたらしい。
ここから馬車でしばらく行ったところの地名を伝えれば、彼はにやりと嗤った。
「行ってみよう」
「えっ?」
「ほら。君も来るんだよ。支度して」
「で、でも…着替えられないわ」
使用人を呼ばなければ着替えができないし、この時間に呼んだら「どこへ行くのか」と尋ねられるだろう。
彼はため息を吐き出した。
「じゃあ仕方ない」
諦めたかと思えば、そのまま私を毛布にくるみこんだ。
「な、何を…」
「しっ。静かに。このままじっとして、目を瞑っていて」
身体がふわりと浮いて、背中と膝裏を彼の腕に抱え込まれた。
「ど、どこへ連れて行くの…」
恐る恐る問えば、彼はにっと嗤った。
「別荘。置いてくるようなことはしない。朝が来るまでにここに戻してあげるから、黙って目を瞑っておいで。その壁を見にいこうじゃないか」
何を言っているのだろう。別送まで行ってくる? 私を連れて? このままの格好で? 馬車があるの?
私の疑問を他所に、彼が真面目な顔で私をじっと見るから、私は慌てて目を閉じた。言われるままに自分の瞼で闇を作れば、音だけが耳から忍び込む。
ぱさりと音がして、そして顔に風を感じ始める。バルコニーに立っているの?
風が吹いている音が聞こえる。そして歩き回っているような揺れが続いていた。
「ねぇ」
目を瞑った暗闇が怖くて、声をかければ、
「目を開けたら、殺すよ」
本当に目を開けたら殺されるのかしら。分からないけれど、静かな声に慌ててぎゅっと閉じた瞼に力を入れた。
別荘へ行くってどういうこと? 顔に感じるこの風は何? 草の匂いはどういうこと?
聞きたいことは一杯あるのに、私は何一つ聞けずに、彼の腕に身をゆだねるしかない。
しばらく続いた揺れは、最後にトンと軽い振動がして、止まった。自分の部屋の香りはしない。鼻に感じるのは外の香り。木や草の香りだった。
「着いた。目を開けてもいいよ」
言われて目をあければ…そこは別荘地だった。多分。だって私は来たことが無いんですもの。木々の間にこじんまりとした家が見える。家までの道は整備されていて、家の周りも柵があって境界線を形作っていた。
「このあたりにあった家で別荘っぽいのは、ここだけ。多分ここじゃないかな」
そんなことを彼が言い、私を腕に抱えたまま別荘のドアに向かって歩き始める。私の足とは比べ物にならない。彼は数歩歩いただけでドアの前に立っていた。上から私を覗き込んでくる。
「鍵は…どこにあるか知ってる?」
私は首を振った。
「やれやれ。仕方ない。君はここにいて」
そっと私を柔らかそうな草の上におろすと、彼はドアの前に立ってなにやらゴソゴソとやりはじめる。しばらくしてドアが開いた。
「あなた…」
彼が肩をすくめた。
「泥棒になれるね」
そして私をまた両腕に抱える。
「さて。探検の時間だ」
ドアをくぐった瞬間に、彼は驚いたように軽く目を見開いた後、嗤った。月明かりで見えたその嗤いは、私をぞくりとさせる。
「な、何?」
「いや。面白いよ。この話の結末」
そう言って、迷いなく私を連れたまま奥の部屋へと足を向けた。玄関を抜けて、廊下を抜ける。いくつかの部屋のドアを通り過ぎた後で、一番奥の部屋の扉を開けた。
入って数歩。窓を背にして入り口から右側の奥へと向かう。
「ほら。ここが話に出てきた壁だ」
そこには月明かりに照らされてうっすらと染みが浮き出た壁があった。
「こ、この染み…呪いなの?」
「カビかな」
思わずホッとする。そして身体の力が抜けた瞬間に彼は言葉を続けた。
「壁の向こうに埋まった死体が発している湿気が原因だね」
え?
彼の言葉が上手く理解できない。
なんて…言ったの?
「何が…埋まっているって言ったの?」
聞いてはいけないと思うのに、思わず聞き返してしまった。彼は楽しくて仕方が無いというように、微笑みながら言う。
「死体だよ。誰かが誰かを殺して埋めたんだ。いや、もしかしたら生き埋めかもね」
な…。
「いいなぁ。こういうのは面白い話だよね」
「面白くなんかないっ!」
思わず私は叫んでしまった。
「誰かが死んでいることの何が面白いの? どうして? どうしてそんなに楽しそうなの?」
いいながら感情がコントロールできなくて、思わず涙が出てくる。
「何で泣くの? 君とは全然関係ない、見ず知らずの人間だろう? ここに埋まっているのは」
「そんなの…本当に死体があるかなんて分からない…」
「分かるよ。僕には分かる。凄い死臭だ。楽しいね」
な…なんで…。楽しいなんて…。
「そ、それが本当なら…人が死んでいるのよ?」
「やれやれ。人なんて毎日死んでいるよ。しかも馬鹿みたいな理由でね」
何が面白いのか、彼はニヤニヤと嗤う。それを見て、さらに私の目に涙が溢れてきた。
「そんな…亡くなる人になんてことを…」
彼が肩をすくめる。
「そんなの僕が知ったことじゃないね」
酷い。酷い…。
そう思うのに、喉が詰まってしまって私は何も言い返せない。
黙ってしまった私をどう受け取ったのか、彼はくるりときびすを返して別荘から出た。入ってきたときと同様に私を草の上に置いて、そしてまたドアのところで何かをする。
「一応、鍵をかけておこう。なんて親切なんだろう」
自分でそう言って満足そうに笑うと、私を抱えこむ。
「さあ、目を瞑って。おうちに帰る時間だよ」
来たときと同様に目を瞑った。それでも涙があふれてくる。なぜ…この人は酷いことを言えるの?
彼が間違っていると思うのに説得できなくて、それが悔しくて…悲しくて…涙が出てくる。