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第9夜  マチン(2)

 ぼんやりと窓の外に見える青空を見る。抜けるような空に白い雲がぼんやりと浮かんでいた。曇り空が多いロンドンでは珍しいこと。


 コンコンとノックの音がして、失礼します…と言いながらマリーが入ってくる。


「お嬢様。まあ。今朝は顔色が良くなっていますね」


 確かに今日は身体が少しだけ軽い。少なくともベッドの上で身体を起すことができた。


「何か召し上がりますか?」


「あ…そうね。お腹が空いている気がするわ」


 そう答えたとたんにマリーに笑われた。


「空いている気がするのではなくて、実際に空いているんですよ。ここ数日、殆ど食事をとられていないんですから」


「…そう言えば、そうね。ええ。何か…食べやすいものを持ってきてもらえる?」


「はい。すぐにお持ちしますね」


 マリーが出ていって静かになった部屋で、また外を眺めた。


 身体は動かなくて、外を眺めるしかなくて。それでも思い出すのは彼のこと。傍にいたい。声を聞きたい。彼に触れたい。あの茶色の瞳を間近に見たい。


 私はどうしたというの? 


 頭の中は彼のことばかり。想像するのは、あの暖かな腕と男らしい胸に抱かれるときのこと。彼のことを考えると苦しいのに、彼のことしか考えられない。


 彼が好き。ううん。もっと一杯好きなの。好きという言葉では表せないぐらい。彼を愛している。ええ。そうよ。私は彼を愛しているわ。彼の一部になれたらいいのに。彼とずっと一緒にいられたらいいのに。


 私の思考を破って、ノックの音が聞こえてくる。マリーだろう。スープの良い匂いと共に、彼女が部屋の中へ入ってくる。


「ありがとう」


 そう言ってマリーを見れば、微かに顔を顰めていた。


「どうしたの?」


「実は…マーガレット様がお見舞いにいらっしゃっていまして…」


 私はちょっと思案する。寝巻きのまま会うわけにはいかないわね。着替えることができるかしら? 自分の身体を動かしてみれば、着替えることは可能なように思えた。


「着替えてお会いするわ。でもこのお部屋でお会いすることをお許しいただいてね」


「あ…はい」


 どうしたというのだろう。マーガレットが来ることが気に入らないのかしら? マリーは今一つ納得していないような表情のまま、私にスープを飲ませて、着替えをさせると部屋から出ていった。


 そして暫くしてから、再び彼女が現れる。その後ろには女性の姿。長いすに寄りかかっていた身体を起こして、マリーの影にいる女性に挨拶しようとして…一瞬、誰が居るのかわからなかった。


 マーガレットのはずなのに、あまりにも変わってしまったその容貌。頬はコケ、目は窪み、生気がない。綺麗だった金髪は光沢を失い、乱れて、一部は顔に張り付いている。纏めた髪は後れ毛も酷い。使用人に手入れをさせなかったのかしら? その姿は幽霊のように見えるわ。


 わたしより年上なのに、年下のように見えていたマーガレット。それなのに今はもの凄く年上に見える。まるで一気に年を取ってしまったみたい。


「マ…マーガレット?」


 名前を呼べば、マーガレットが視線だけをこちらに移す。そして口を開いた。


「アリス…あなたが病気だと聞いて…」


 だがその声は、どこか喋りにくそうにしていて、はっきりしない。あんなに明るくて、朗らかだったマーガレットが嘘みたい…。今にも倒れそう。


「マーガレット…あなたこそ、大丈夫?」


 私は自分の体調が悪いことも忘れて立ち上がると、マーガレットに自分と一緒に長いすに座るように示した。


 ふらふらと力なく座って、無理やりのように私に微笑むマーガレット。


「私は…大丈夫よ」


 私の傍でそう言った瞬間に、マーガレットの口の中が見えた。息を飲みそうになって、慌てて押し殺す。何か…金属的なものが、マーガレットの舌に刺さっていたのだ。


 喋りにくいのはそのせいなの?


「マーガレット…」


 何も言えなくなって、そっと抱きしめるようにしてマーガレットの体に腕を回した。マーガレットの胸の部分に腕の内側が当たっていて…そこに感じる何か硬いもの。


 私はいつかの夜を思いだした。胸の先端に飾りをつけると彼女の夫は言って、マーガレットの胸に向かって針を振りかざしたのだ。


 ああ。私はこのいとこのために何ができるのだろう。


 自分のことばかり考えていて、何もできない私をもどかしく思う。


 目のふちが熱くなって、涙が零れそうになるのを必死でとどめる。けれどそんな私の表情にマーガレットが気づいた。


「アリス…身体が辛いのね。ごめんなさい。突然押しかけてきて」


「違うの。違うのよ。マーガレット。あなたが…あなたが辛そうなのですもの」


 そう言った瞬間にマーガレットは私の腕の中で身を硬くする。


「つ、辛いことなんて…ないわ」


「嘘はおっしゃらないで。暫く見ないうちに、なんと言っていいのか…すっかり変わってしまったわ」


 マーガレットが押し黙る。


「ちゃんと食事はしているの? 痩せてしまって…」


「それを言うなら、あなただって同じよ。アリス」


「私は病気だもの。熱が出たら食べることすらできないのだから、仕方がないわ。でもマーガレット…あなたは違うでしょう?」


 彼女の視線が下がっていき、俯いてしまって顔が見えなくなった。


「私も…病気よ。きっと。心の病気だわ」


「マーガレット?」


「もう私の心は壊れてしまったのだわ。嫌だと思うのに、どんどん受け入れてしまう自分がいるの。ご主人様がいないと私は役立たずなのよ」


 ご主人様? どういうこと? あなたは誰に仕えているの?


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