第9夜 マチン(1)
彼の家から帰ってきて、私の体調は一気に悪化した。身体中が重くてだるくて、ベッドから起きることができない。微熱がずっと続いている。
出歩いたせいか、あの納屋での体験がショックだったのか、それとも彼に一晩中抱かれていたせいなのか。思い当たることが多すぎて、どれもが正解に思えた。
「お嬢様。何か召し上がることができそうですか?」
心配そうにマリーが尋ねてくるけれど、食欲はまったくない。
「ごめんなさい。食べられそうにないわ」
「飲み物は…スープはいかがですか? 何か口に入れないと…」
「後で…飲むわ」
「先ほどもそうおっしゃって…」
「マリー。本当よ。後で飲むわ。だからお願い。寝かせておいて」
そういうとマリーは少しだけ眉を顰めてから、お辞儀をして出ていった。夕暮れの赤みがかった陽の光が窓から入り込む。その光ですら私を苛んでいる。
ああ。本当に。こんな身体。どうしてこんなにも私の身体は弱いのかしら。どうして普通の女性のように生まれなかったのかしら。
そんなことを考えているうちに、また身体がだるくなっていって、気づいたときには眠りに落ちていた。
微かな物音。まぶたが重くて目が開かない。それに身体も動かない。
でも今の物音は…彼だわ。
額にかかった髪の毛を優しくよける手を感じる。力がなくて閉じることもできず、開くこともできないまぶたの隙間から見える彼の姿。
コトン…枕元に置かれる何か。
彼に一目会いたくて、一生懸命まぶたに力を入れているのに。私の身体は言うことを聞いてくれない。せめて声だけでも出ればいいのに…それもできない。喉から出るのは吐息だけ。
「ま…待って」
枕元を離れた彼を呼び止めたくて、息だけで呼びかける。あまりにも微かな声。自分でも聞こえるか、聞こえないかの声。
それでも…彼は私のベッドに戻ってきて、そして腰掛けた。
「起きた?」
涼しげで優しい声が耳をくすぐる。
「起きられないの…」
開かない目。出ない声。それでも息だけで伝えて、ぴくぴくと指を動かせば温かい手の感触が伝わってくる。
手を握ってくれているの?
「薬、持ってきたけど…飲む?」
「のむ…わ…」
暫くの静けさの後で、彼の唇が私の唇を覆う。舌が入ってきて、微かに私の口をこじ開けると、何かが喉に伝わってくる。
草の香り。苦い味。でも彼が飲ませてくれていると思うだけで、瞬時に甘露と化していく。
「ゆっくり休んで」
彼の手が私の頭を撫でる。
ああ。行ってしまう。
彼を捕まえたいのに、私の手は動かない。
「まって…」
捕まえなくちゃ。彼を。
「何?」
傍にいてもらいたいの。
行かないで。
「また来るよ」
「いか…ない…で…」
私のわがままに彼が苦笑したのがわかった。
「まるで僕のことが好きみたいだね」
泣きたくなる。
好きみたい…じゃないの。好きなの。
「すき…なの」
「え?」
「すき…そばに…いて…」
「アリス?」
彼の戸惑う声を最後に、私の意識は途切れてしまった。
朝日が差し込んでくる。
夕べのことは夢?
彼が来たように思えたけれど…。
でも意識がはっきりしないわ。彼は来たのか、来なかったのか。
彼と何か話をしたのかしら?




