第7夜 囚われ人(4)
軽い振動の後に感じたのは、背中の柔らかい感触。ベッドに下ろされたことが分かった。ゆっくりと取り払われたシーツに、目を開けば自分の部屋で、彼が私を覗きこんでいる。
「あれは…一体…どういうことなの…?」
震える声で問えば、彼は肩をすくめた。
「人を痛めつけるのが好きな男だってことだ」
「でもっ。自分の奥さんなのにっ」
思わず声を荒立てれば、彼の人差し指が私の唇の上に置かれる。
「静かに。夜明け前だからね。声が響く」
「でも…」
「やれやれ。言っただろう? 真実は残酷だと。自分の妻だから何をしてもいいと、あの男は思っているわけだ」
「酷い…」
「僕もいじめるのは好きだけどね」
思わずぎょっとして彼の顔をまじまじと見れば、彼は口の端だけで冷たく嗤った。
「あれはいただけないな。弱いものいじめみたいでつまらない」
「あなた…」
「ま、やり方が違えば、弱いものいじめも嫌いじゃないけどね」
そう言うと熱い舌が、突然口の中に入ってくる。
「ん…んっ」
翻弄される口づけ。熱くて、気持ちよくて、ぼーっとしてくる。
「あれを見た後じゃあ、僕の意地悪なんか、可愛いものだろ?」
彼の唇が離れていく。ああ。もう今晩は帰ってしまうのだわ。それがわかって、思わず私は彼の洋服の裾を反射的に握り締めた。
「何?」
「行かないで。一人にしないで」
まだ震えている私の手。怖くて仕方がない。何に対して怖いのか分からないまま、ただ恐怖感だけが私を震わせる。
「お願いだから…」
「自分で何を言っているか分かっている?」
「分かってるいるわ。好きにしていいから…傍にいて」
初めて自分から彼を求めた。だからと言って何が変わるわけでもなく、やはり彼に翻弄されていたけれど…。
それでも彼は暖かくて、優しくて。目を閉じてしまえば、彼の観察するような冷たい視線は見えなくなるから。暗闇の中での彼は優しいだけ。
一瞬だけ意識を失って…そして傍らにぬくもりがないことに気づいて目が覚めた。行ってしまった。そう思って目を覚ませば、きちんと服装を整えて、私のネグリジェのボタンを留めていた彼と目が合う。
「あ…」
こうやっていつも私の服装を整えてくれていたのね。そう言えば、起きたときにべたついた感じもなかったし、夢かと思うぐらいに寝る前と一緒だった。
「起こした?」
涼やかな声が静かに下りてくる。
「ううん。…ありがとう」
そう伝えたとたんに、彼の手が止まった。
「あとは自分でできるね?」
「え? ええ」
彼はにやりと嗤う。
「モロイは夜明け前に帰らないとね」
「え?」
彼の笑みが深くなる。
「モロイは陽の光が苦手なんだ。まあ、生きていられないわけじゃないけれど。だから夜明け前にはねぐらに帰るんだよ」
「あなた…」
彼の唇の両端がさらにあがる。ぐいっと顔を近づけられた。
「どうする? 僕がモロイだったら」
あ…。人の生き血を吸う化け物。モロイ。もしも彼がモロイだったら?
それはいつだったか、私が持った疑問。そんなわけ無いのに。モロイは子供を脅すためだけの空想上のものだわ。
思わず恥ずかしくなって、顔が赤くなる。おろおろして問いに答えられずにいると、彼は顔を離して肩をすくめた。
「さて。本当に行かないと。また来るよ」
「またって…またっていつ?」
「おや」
思わず問いかけてしまった私に彼は意地の悪い笑みを向ける。
「僕を待っているわけだ」
「そ、そんなこと…」
無いといえない自分がもどかしい。これでは本当に彼の訪れを待っているみたい。ううん。待っているのよ。それを彼に知られてしまうのは恥ずかしすぎる。
「ま、待ってなんかいないわ」
「そうだよね」
にやにやと見透かしたように笑う彼。
「そ、そうよ。早く帰って」
「じゃあ、早く帰るよ」
あ…。ウソよ。本当は少しでも長くいてもらいたいのに。彼の唇が私の頬を滑る。
「そんな顔をしなくても、すぐにまた来るよ」
そんな顔って…どんな顔を私はしていたのかしら。
「じゃあ」
彼がぱさりと私にシーツをかける。次の瞬間には消えてしまう彼の気配。今度こそ行ってしまった。
そして漸く私は思い出す。マーガレット。
ああ…私はなんて冷たいのかしら。マーガレットのことよりも、彼のことで、自分のことで頭がいっぱいになるなんて。ごめんなさい。マーガレット。
私は一心に神様に祈った。マーガレットを助けてくださるように。
マーガレット。なぜあなたはあのような結婚をしなければならなかったの? 結婚するなら…彼のような、ショーンのような優しい人と結婚すればよかったのに…。
そう考える自分に、私自身が驚いた。
彼を優しいと思うなんて。冷たい視線。冷たい言葉。私に残酷なものを見せていく。それでも彼の優しい声と優しい腕を頭から追い払えない。
もしも彼がモロイだったら?
不意に思い出す彼の問い。けれど、私の答えはとっくに決まっていた。
モロイでもいいわ。彼が何者でも構わない。
そう思えるぐらい、私はすでに彼に囚われていた。




