第6夜 結婚式(3)
何も喋れなくなっている私の片手をとると、彼の父親と同じく優雅に手の甲に口づけをして再び微笑む。それはあまりにも完璧な笑み。私が今まで見たことがないもの。
彼なの? 本当に私の部屋に来る彼なの?
姿かたちは彼なのに、その表情が違っていて確信が持てずにいる。何かを言おうと思うのに言葉が出てこない。そんなとき、視線の先の彼がふっと横を向いた。
「曲が変わりましたね。ワルツだ。良かったら踊っていただけませんか?」
とたんにお父様が上機嫌で私の背中に手をおいて、彼の方へ押し出す。
「行っておいでアリス」
「で、でも…私…踊れないわ…」
ダンスのレッスンなんて受けたこと無いもの。それに一曲踊るだけの体力があるかどうかも不安だわ。そして…彼。どうしたらいいの?
「大丈夫。僕がリードしますから。どうぞ」
恭しく片手をとられて、親たちの暖かい視線に見守られて、私は彼と共にダンスをしている人たちの間に混じって踊ることになってしまった。
密着している身体に息が詰まりそう。細身なのに女性とは違う広い胸。私の身体を支える逞しい両腕。
「ここでターン」
さりげなく動きを教えてくれる涼しげな声。全ては彼と同じものなのに、私を見る瞳だけが違う。優しい…まるで別人のような表情。
違うわ。彼じゃない。私が知っている彼じゃない。
そう思ったとたんに足が止まってしまった。
「どうしたの?」
「ごめんなさい」
一言だけ伝えて彼から離れると、私はバルコニーに向かって歩き出す。優しい人がいいはずなのに。そうよ。理想の男性じゃない。でもなぜ? どうして私は嫌なの?
まるで…仮面を被っているようで…。
そう思った瞬間に違和感に気づいた。
そうよ。彼はまるで何かを演じているみたい。優しい貴公子を演じている。だから嫌なの。本当の彼じゃない。違うわ。
誰もいないバルコニーについて、外の空気を吸う。そうやって息をすれば、人いきれで窒息しそうな気持ちになっていたことにも気がついた。自分を落ち着かせて、もう一度室内にいる彼を見ようと、振り返ったところで息が止まった。
音もなく、気配もなく、真後ろに立っていたのは彼。いつもの冷たい瞳と唇の両端だけを上げた笑みで。いつもの、真夜中に出会う彼だった。
「あ…あなた…」
思わず声が震える。とたんに彼の瞳が細められた。
「せっかく優しくしてあげたのに。何が不満なわけ?」
「だ…だって…本当のあなたじゃないもの」
そう答えたとたんに彼が顔をしかめる。
「どういうこと?」
「本心で優しいんじゃないわ。無理して何かを演じている。だったら本当の自分をさらけ出した冷たいあなたのほうがマシよ」
彼が私の言葉に目を丸くして、それからニヤリと嗤った。
「君はいじめられるほうが好きなわけだ」
なんてことを!
「そんなこと、あるわけ無いじゃないっ」
「てっきりそう言う趣味かと思ったけれどね。君のいとこ殿みたいに」
「え? いとこって…マーガレット?」
彼はちらりと室内に視線を移す。そこには一生懸命に微笑んでいるマーガレットとその夫となった男性が一緒に皆に挨拶して回っていた。
「あの男は有名だからね」
「何が…」
彼は視線を私に戻してから、くぃっと肩をすくめる。
「まあ、人には言えないような性癖の持ち主だってことだ。君のいとこ殿はどうか知らないけれどね」
「性癖?」
「そう。ここにいる男たちは、大体知ってるんじゃないかな。彼の趣味をね。それだけ有名だってことだ。どれだけの金を積んで、君のいとこ殿と結婚したか知らないけどね。ま、君のいとこ殿が壊れないことをせいぜい君が言う神様に祈ったらいいさ」
「壊れるって…」
それに対する答えは無かった。彼は再び軽く肩をすくめて見せる。
どういうこと? 一体何があるというの?
私が考え込んだところに第三者の声が割り込んできた。
「失礼。もし良かったら踊っていただけませんか?」
見知らぬ若い男性…え? 私? 私に言っているの?
どう答えていいかわからずに、困って隣にいた彼に視線を送れば、ぐいっと胸元に引き寄せられた。
「すまないけれど、彼女は僕との先約があってね。別な女性を誘ってもらえるかな」
涼しげな声がそう伝えれば、見知らぬ男性は「それは失礼」と、一言残して立ち去っていく。
「ありがとう」
お礼を言うべきなのか、どうなのか迷ったけれど。困ったのは確かだから、お礼を言えば、彼はくつくつと笑っていた。
「僕から逃げ出すチャンスだったのに。君ややっぱり僕にいじめられたいわけだ」
「違うわ。でも見知らぬ人は怖いもの」
「僕はいいわけ?」
思わず言葉に詰まる。
「見知らぬ人…ではないわ。それにさっきご挨拶したわ」
「ああ。そうだったね」
何故か彼は少しだけ不機嫌になってしまった。
「そうよ。ミスター・リーデル・ドルフィルス。きちんとご挨拶できて嬉しいわ」
「そうやって名前を呼ばれるのって嫌いなんだよね」
「え? そうなの?」
「言ったでしょ。僕は名前を正確に呼ばれるのは好きじゃない」
「だから私にウソを言ったの?」
「ウソ?」
「だって…名前が違うわ」
彼がため息をつく。
「君に伝えたのも僕の本当の名前」
「え? そうなの?」
「僕は複数の名前を持っていて、君に教えたのはそのうちの一つ」
「じゃあ、私はあなたをどの名前で呼べばいいの?」
彼は肩をすくめた。
「今まで通り呼べば? 別に僕はなんでもいい」
「もう。またそんなことを。名前は大事なのよ」
彼は私の言葉を綺麗に無視して、私の片手を掴んだ。
「もう一曲、踊る?」
聞こえてくるのは、ワルツ。
身体が重い感じがするから、もうきっと踊れない…そう思うのに、彼は私の答えなど聞かずに腰に手を回すとフロアへと移動していく。
「ま、待って」
「ほら。リードしてあげるから。僕に任せればいいよ」
そして彼は私の耳元でこっそりと言葉を足した。
「ベッドの中と一緒だよ」
「な、何を」
急速に熱くなった私の頬に軽く唇を掠めさせると、彼はステップを踏み始める。