第5夜 モロイ(1)
「お嬢様? お嬢様? ご気分が悪いですか?」
侍女のマリーに話しかけられていることに、ようやく気づいた。
「なんでもないの。大丈夫よ」
いつものベッドの上。身体を起こして香りの良い紅茶を飲んでも、頭に浮かんでくるのは彼のことばかり。ここ数週間、彼の訪れがない。最初に現れてから、数日と開けずに来ていた彼が…来ない。
馬鹿みたい。喜ばしいことなのに。彼に弄ばれなくてすむのよ。そう自分に言い聞かせるけれど、気持ちが自分を裏切る。
「ねえ。マリー。何か面白い話はないかしら?」
「またですか?」
マリーが考え込む。このところいつもせがむけれど、なかなか良い話をしてくれない。
「ああ。そうだ。イーストエンドの美談に裏があったという話は…」
「知っているわ」
「はい?」
正直に返事をしてしまってから、私は気づいた。
そう。マリーは知らないのよ。私のことを。私と彼のことを。
「何でもないわ…。裏話ではなくて、もっと不思議な話はないかしら? 怖い話とか」
マリーは一瞬、怪訝な顔をしたけれど、話を探すように視線をさ迷わせ始めた。
「えっと…そうですね。最近、三歳の男の子が消えた事件が世間をにぎわせていますよ」
「そうなの?」
「ええ。誘拐されて殺されたんですが、犯人が見つからないのです」
これは彼として面白い話なのかしら?
私はちらりと考えた。
わからないわ。
「細かく教えて」
そう言った瞬間にマリーが申し訳なさそうな顔をする。
「なんでも納屋の中から死体が出てきたけれど、それ以上は分からないみたいで…」
「そう」
「うわさでは、その子の傍にいたのが七歳の女の子だけなのですが、犯人を見ていないらしいのです」
それは…謎の話になるのかしら? 彼は面白いと思ってくれるのかしら?
紅茶を飲み干して、ぱたりとベッドに倒れ込めば、マリーがくすりと笑う。
「お嬢様、変わられましたね」
「何が?」
身体が強張った。私の何が変わってしまったの?
「前は世間のことなど気にもされてらっしゃらなかったのに」
ああ…そういうことかと安堵する。
「それに最近は大人っぽい表情をされることがありますね」
「そ、そうかしら?」
「お嬢様も大人になりつつあるんですね。変わらないように思えて成長されているわけです」
大人になりつつある…。それは…。
内心での焦りを無理やり笑顔でごまかして、マリーに拗ねて見せた。
「それはそうよ。私だっていつまでも子供じゃないわ」
「そうですよね」
マリーの屈託の無い笑顔にほっとしつつも、頭の中に浮かぶのは彼のこと。彼と出会って、彼を知って、私は変わりつつあるわ。
胸の奥が焼けるような感覚をどこか遠いところで感じている。私は…どうしてしまったのかしら。
思わずマリーに隠すようにしつつ、息を吐き出した。
カタン…。寝室に響いた音。神経が高ぶっていた私は、そのわずかな音で目が覚めてしまった。もしかしたら…彼かもしれない。
そんな淡い期待に目を開ければ、どさりと重いものが私に圧し掛かってくる。
「何?」
微かな血の匂い。固い筋肉質の身体。男性だということは分かった。今まで彼がいきなりのしかかってきたことなんてない。
何が起こっているのかと思って恐る恐る見れば、私の顔の真横にあったのは彼の顔。でも今は苦しそうに顔がゆがんでいる。気づけば浅い呼吸が微かに開いた彼の口で繰り返されていた。
「ど、どうしたの?」
微かな声で問えば、彼が目を開ける。男の人にしては長いまつげの間で、茶色の瞳だけが動いて私に視線を向けた。そして見せる自嘲気味の笑み。
「…ちょっとね。失敗した」
「え?」
ぐぃっと私の胸元が開かれる。
「やっ」
悲鳴をあげるよりも早く、彼は私の首筋へと唇を這わしてきた。
「あ…」
条件反射的に黙った私に両手で抱きつくようにして、がんじがらめにしたところで、首筋に何かが刺さった。
「痛いっ」
声を出したら家の誰かに見つかってしまう…そう思ったけれど、洩れてしまった。ずきずきとした痛み。鋭い何かが私の頸に刺さっている。こくりこくりと飲み込む音がする。
暗闇の中で彼に抱きかかえられて、感じるのは彼の唇のはずなのに…何が起きているの?
どんどんと手足が冷たくなっていく。貧血が起きているときのような…。ううん。貧血になってるわ。目の前が暗くなってきたもの。
「待って…ショーン…」
彼の名前を呼んだところで、意識が途切れた。