第4夜 川(2)
そして熱が下がった数日後。約束どおり、彼は現れた。もちろん夜に。いつも通りしっかりと戸締りはしていたのに、それでも簡単に彼は入ってきた。
「やあ」
「こんばんは」
ツンとした声でそっぽを向いて答えれば、彼が喉の奥で笑う。
「気にしつつ、気にしていないようなそぶりを見せるのが笑えるね」
「別に本当に気にしてないもの」
心の中を言い当てたような彼の言葉に、無理やり抵抗をしてみせる。彼の体重がかかって、ベッドが軋んだ。彼の暖かい手が私の頬に伸びてくる。
「ほら。出かける時間だよ」
その言葉に思わず彼を見れば、至近距離から細められた薄茶色の瞳が私を見ていた。
「この前の…続き」
身体がビクリと震える。もう、怖いのは嫌。思わず泣きそうな気持ちになれば、彼が優しく口づけてきた。
「大丈夫。今日は決着だけだ。残念ながら君の期待には応えられそうにないよ」
「私の期待って…」
「君を楽しませてあげたいんだけどね。今日は本当に結末だけ。まあ、それでもそこそこ楽しめるんじゃないかな」
冷たい瞳で、唇の両端だけが持ち上がる。
言葉は優しいのに。仕草は優しいのに。どうしてこの人は、こんなに冷たい表情をするの。ううん。いつもじゃないわ。たまに優しいときもある。だから私は振りまわされる…。
ぱさりと頭からシーツがかけられた。視界がさえぎられて、聴覚と嗅覚だけが研ぎ澄まされる。
「じっとしていて」
そう涼やかな声が耳に届いて、私は彼の腕の中にいた。いつもの浮遊感。彼の心臓の音。そして外の匂い。
次第に水の匂いがしてくる。水音もする。川のほとり…なのかしら?
とん、と軽い振動が来て、彼が言う。
「ほら。着いた」
もぞもぞと顔の部分のシーツを取り出せば、細い月明かりに照らされた川が目の前だった。眼下に広がる幅の広い川。
「川…テムズ川?」
今一つ確信が持てなくて尋ねれば、彼が頷く。
「何故…ここへ?」
「しっ。いいから見ててごらん」
暫く彼の腕の中でじっとしていると、向こうから何かやってくる。
「なっ」
「静かに」
やってきたのは人影だった。…白い人影。白いマントに身を包んでいる。その人影はテムズ川のほとりにしゃがみこむと、何かを放り投げた。
ちゃぽん。ちゃぽん。ちゃぽん。
何かが水の中に沈んでいく。
「あれが…テムズ川の幽霊の正体」
「一体…」
「ま、見ていればわかる」
次の瞬間、周りからバラバラと別の人影が、最初の白い人影を囲むように出てくる。
「スコットランドヤードのお出ましだ」
「え?」
何かを言い合っているけれど、聞こえない。そのうちに警官の一人が、最初の白い人影に近寄り、マントの顔の部分を払いのけた。
「女の人?」
「そう。これが結末。あのイーストエンドの美談のね」
彼の声が頭の中に染みていく。
女の人。肉屋。棚の首たち…。
身体がガタガタと震え始める。
「まさか…さっきの…」
彼は器用にも私を抱きかかえたまま、肩をすくめた。
「はっきりは見えなかったけど…骨と頭の部分だろうね」
「な、なんということを…」
「だから掴まるんだよ。これでこの話は終わりだ」
思わずもう一度、引っ立てられてく女の人を見れば、その周りにぼんやりと白い影が見える。
「あれ…」
彼も見て、そして眉を顰めた後に、にやりと嗤った。
「幽霊かな。あんな風に出てきても、なんの役にも立ちやしないのにね」
「そんな!」
「静かに。見つかるよ」
「見つかる? 誰に? 幽霊に?」
私の答えに彼は冷たく嗤った。
「幽霊だって? あんなものに見つかっても大したことはない。見つかりたくないのは人間だよ」
「え?」
「僕ら、どこに立っているって思っているの?」
そう言えば、テムズ川を見下ろす位置。一体、私たちはどこにいるのか、彼に指摘されて初めて私は気になって周りを見回した。
「屋根の…上?」
「ご名答。こんな時間に、こんな場面で、屋根の上にいる人間がいたら…怪しいだろう?」
「一体いつの間に…。どうやって登ったの?」
「それを言うなら、どうやってここに来たの? と訊くのが正しいと思うけど?」
「…。どうやって…」
彼の言葉に従って、素直に尋ねようとした私を冷たい瞳が制止させる。
「それに答える気は無いよ」
彼はちらりとテムズ川を見ると、私に視線を落とした。
「帰るから。自分でシーツを被って、目を瞑って。ほら早く」
これ以上尋ねても何も教えてくれないのは、分かっているわ。だから私は素直にシーツを被って目を瞑る。
ぐらりと周りの空気が動き出す。一体どうやって私たちは移動しているの? 馬車にしては馬の嘶きも蹄の音も聞こえない。車輪が回る音もしない。でも歩いているにしては動きが早すぎるわ。
まるで夢のようにあっという間に自分の部屋に戻ってきてしまった。
「着いたよ」
涼しげな彼の声。背中がベッドに触れる。
「もう…印は必要ないね」
「え?」
シーツ越しに聞こえた声に問いかければ、彼はくすりと笑った。
「もう君は僕のことを誰にも話さない。それに…僕の訪れを待っている」
「な…そんなこと」
「あるだろう?」
きっとシーツの向こうの顔は、冷笑。見たくない。声だけは優しいから。
「待っていて。また来る」
まるで恋人の別れ際のような言葉を残して、彼の気配は消えた。
頭からかけられたシーツをどければ、誰も居ない自分の部屋。枕元のナイトテーブルに置かれたままの空の瓶。綺麗な瓶に手を伸ばす。中身は全部飲んでしまったから。残っているのは外側だけ。
ちゃんと彼の薬は作用したわ。お医者さんがくれたものよりも私を楽にしてくれた。毒などではなく、ちゃんとした薬だった。
彼の言葉と行動がバラバラで、表情と声がバラバラで、私の頭と心もバラバラになっていく。
あなたは一体、何がしたいの?
答えを捜すように、彼が残していった瓶を思わず握り締めた。




