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第4夜  川(1)

 高い熱が三日三晩続いた。うつらうつらしては、目を覚まして、またうつらうつらと眠る生活。熱のせいで体中が軋んでチリチリとした痛みを発している。関節が痛い。自分の身体なのに捨ててしまいたいぐらい辛い。こんなに酷い熱を出したのは久しぶりだった。



 ようやく熱が下がりつつある昼下がり、少しだけ軽くなった身体を起こす。外は明るくて、夏の日差しだ。


 いつもそう。今年もそう。


 夏の日差しを暗い部屋から眺めるのが、私にとっていつものこと。



 熱が下がったといっても、微熱が残っている身体はだるくて重い。充分に動かない腕を動かして、自分の胸元を見れば、しっかりと咲く紅い印。まるで痣のようになりつつあるその印に私はため息をつくしかない。


 熱を出している間…いいえ、今も。あの肉屋の光景が頭の中で繰り返される。眠っている間は夢の中で、起きている間は思い出されて、ぐるぐると頭の中で回る。


 眠っている間に見ている夢の中では彼はいなくて、私は一人で血だらけの床に立ち、おびえて振り返ったところで棚に並ぶ首を見て、驚いて目が覚める。その繰り返し。


 暗がりの中で見たはずなのに、夢の中の首はやけに鮮明だった。思い出すほどに鮮明になっていく。忘れたいのに…忘れられない。あまりに苦しい思いに、流れてくる涙。両手で顔を覆って私は泣き始める。苦しくて、苦しくて。辛い。


「どうしたの?」


 耳元で聞こえた涼やかな声に思わず驚いて顔を上げれば、彼が立っていた。明るい部屋の中で初めてはっきり見る彼の顔。


「あなた…」


「昨晩来てたんだけどね。君が寝込んで気づかなかったから、今日は特別」


 彼が肩をすくめる。


 少し癖が入った黒髪。薄い茶色の瞳。エキゾチックでありながら整った顔。そしてすらりとした身体を包む、上等な絹の服。その風貌だけ見れば、上流社会の人間だと言っていいと思う。


 明るい室内に立つ彼は貴公子然としていて、立っているだけでも気品が感じられた。まるで御伽噺の中の王子様みたい。ここが私の部屋でなければ、そして今までのことがなければ、彼がお忍びで来た王子様だと言われても、信じそうな気がする。


「どうしたの? じろじろ見て」


 いけない。男性をじっと見るなんて、はしたないことをしてしまったわ。そう思って視線を逸らせば、彼がくすりと笑う声が耳に届く。


「なるほど。明るいところで見たから、僕に見とれていたわけだ」


 その言葉に頬が熱くなるのを感じる。


「そ、そんなこと、あるわけ無いじゃない!」


 彼がベッドの端に腰掛けて、私の頬に手を伸ばしてくる。


「じゃあ、この頬の赤いのは何?」


 嫌な人。そういうことは黙っているものなのに…。


「見とれてくれるなんて光栄だね」


 ちっと嬉しそうじゃない声音で言われて、文句を言おうとしたら、ぐいっと顎を持ち上げられた。彼の瞳が一瞬紅くなったように見えた…と思った次の瞬間、耳元に吐息がかかる。


「肉屋の件は…少し忘れたほうがいいよ」


 何を言っているの? あなたが連れて行ったのに。文句を言おうとしたとたんに、声を飲み込むようにして合わされる唇。


「んっ!」


 忍び込んでくる舌。こんなに明るい中で口づけするなんて!


 羞恥心を覚えたのは一瞬だった。あっという間に彼の熱い舌に翻弄されていく。気づけば無意識のうちに彼の洋服を握りしめて、ぎこちなく舌を動かしている自分がいた。


 さっきまで私を苦しめていた首のイメージはもう無くて、今、私の頭の中にあるのは熱い舌の動きと、抱きしめられている彼の腕の力強さだけ。


 私は一体…何をしているの?


 思わず我に返って彼の胸を叩けば、唇が離れて二人の唇の間に細い糸ができる。それを彼は器用に舐めとって、唇だけでニヤリと嗤った。


「口づけが上手になったね」


 なんてはしたないことをっ。反射的にそう思ったけれど、口からは出てこなかった。文句を言いたくて。でもなんて言ったらいいか分からなくて。あまりのことに言葉が出てこない。


 それ以前に口づけって褒めるものなの? 頬に熱を感じたまま、思わず瞬きをした。その私の表情を彼が見て、今度こそ目を細めて楽しそうに笑う。


「君のそういう表情、好きだよ。見ていて楽しいよ」


「私で楽しまないで」


 それだけをなんとか口にして、あまりの恥ずかしさにそっぽを向けば、彼の唇から忍び笑いが洩れる。


「失礼。そうだね。こんな明るい場所でレディに言う言葉じゃなかったな。ま、君がレディだとしたら…だけど」


 なんでこの人はいつも一言余計なの? 思わずもう一言、何かを言ってやりたいのに、言い返す言葉が出てこない。言葉を捜しているうちに、コトンと彼が小さな小瓶を枕元に置いた。


「何? これ…」


「解熱剤。熱が高そうだったから」


「え?」


 香水瓶かと思うぐらい綺麗な形の瓶に入った液体を眺めていると、彼の声が耳に届く。


「飲むか飲まないかは、君次第だ。僕が調合したからね。毒かもしれない」


 顔を上げれば、脅かすようにじっと私を見ている薄い茶色の瞳と目が合う。からかうような…ちょっと楽しそうな表情。本気で脅しているときの表情とはまったく違う。自分で気づいてないのかしら?


「ありがとう」


 素直にお礼を言えば、彼の瞳が丸くなる。こんな表情もできるのね。


「毒かもよ?」


「あなたが私を殺すときは、毒殺なんてしないわ」


「何故そう言いきれる?」


 問われて…私の視線は瓶に落ちた。何故だろう。でも…きっと彼は毒殺なんてしない。 きっと…彼が私を殺すときには…跡形もなく私は消えるわ。なんとなくそんな気がする。だって彼が人を殺すときには「全部消し去る」って言ったのよ。きっと彼は言葉通りにするわ。


 でもそんなことを素直に言うのは、つまらない。だから私は代わりにこう言った。


「あなたならこう言うでしょ? 『毒殺なんてつまらない』 違う?」


 彼の表情が変化する。にぃっと唇の端だけ上がった。ああ、夜に見せる彼の表情だ。明るい日差しの下で見るそれは、なんと恐ろしい笑みなのかしら。


 彼の片手が私の首に伸びてくる。軽く喉を絞められて咳き込めば、すぐに彼の手は緩んだ。


「君は僕の獲物だっていうことを自覚しているわけだ」


 私は精一杯、彼を睨みつける。


「獲物なんかにはならないわ。私は私のものよ。死んでもあなたのものになるなんて、お断りよ」


「あはは。そうだね。そうじゃなくちゃ、それこそ、つまらない」


 彼は軽くひとしきり笑った後で、また私を見た。


「やっぱり君は面白いよ」


 ぱさりと頭からかけられるシーツ。でも今日は明るいから彼のシルエットがシーツ越しに見えた。


「また…夜に来るよ」


 そう声を残して…。 彼のシルエットは二階のバルコニーから飛び降りた。


 え? 待って。ここは二階なのよ。かなりの高さがあるわ。


 慌てて私はバルコニーに駆け寄ったけれど、眼下に広がるのはいつもの風景。どこにも彼の姿はない。今、飛び降りたばかりなのに…。どこへ行ったの? 怪我はしなかったの?


 結局、彼はそのまま消えてしまった。


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