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第3夜  美談(3)

 ゆっくりと店の奥に入っていく彼に運ばれながら、こっそりと彼の表情を覗き見る。エキゾチックな整った顔立ち。冷たい目。薄っすらと嗤いの乗った唇。


 でも身なりはきちんとしているわ。喋る言葉も上流社会の言葉だもの。慈善事業は立派なことだし、彼も興味があるのかも。こう見えて優しい人かもしれないわ。


 私はそう結論づけて、彼の腕の中で安心して身体から力を抜いた。


 入り口から入った、さらにその先にあった重いドア。それすらも彼は器用に開けた。キーッと音を立てて重い扉が開くと、そこは涼しい…寒いと言っていいぐらいの場所だった。


「ここは…」


「肉の保管庫だね」


 彼はそう言ってから私にマッチを擦るように言う。言われるままに手を伸ばせば、机の上にあった箱に手が届いた。箱ごと持ち上げて、中身を一本出したけれど…。


「どうやるの?」


 そう訊いた瞬間に彼は盛大にため息をついた。


「君はマッチすら擦ったことがないわけ?」


「だ、だって…火は危ないから使ってはいけないって…」


「君は子どもかい?」


「でも…」


 もう一回、彼は盛大にため息をつく。


「君の右側に壁がある」


 触ってみると確かにゴツゴツしている。扉は閉まっていて、真っ暗なのに彼には見えているの?


「右手にマッチを持って、それの先端をそこへこすり付ける。ほら早く」


 そっとマッチを持って擦りつければ、火がつくどころか、ぽきりと折れてしまった。 また彼のため息。しかもわざと大きな音を立てて、私に聞かせるためにため息を吐き出した。私だって折りたくて折ったわけじゃないわ。でも彼は追い討ちをかけてくる。


「そこで折るんじゃなくて、擦るんだ」


「わ、分かっているわ」


 数本のマッチを無駄にした末に火はついたけれど、手元が熱くてびっくりして手を離してしまった。また彼のため息。


「何やっているの。捨てていいなんて言ってない」


「私だって捨てる気なんてなかったわ」


 もう一回。今度はちゃんとついて、熱いのをガマンしている間に身体の位置が動いて目の前に壁に備え付けられた蜀台が来た。


「つけて」


 立ててあるろうそくに火を灯す。マッチはかなり短くなっていて、私の指を焼きそうになっていた。


「ね。これ、どうしたらいいの!」


 半ば悲鳴をあげながら、ちりちりと熱く私の肌を焼いているマッチを見せれば、彼はまたため息をつく。


「蜀台の脇に置きなよ」


「熱いっ!」


 蜀台の脇に置く前に指先に痛みが走る。思わず火のついたマッチを落とせば、それは下に落ちる前に消えていた。


「何やっているの」


「だって…」


「やれやれ。世話がやける。血だらけの中に落としていいなら、僕が代わりに火をつけたんだけどね」


「え?」


「いいから。火傷した? その指を僕の口に突っ込んで」


「え? ええ?」


「早く。ぐだぐだやっていたら、このまま君を落とすよ」


 彼が口を開ける。痛みと羞恥心で震える指を差し出せば、パクリと食べられるように口の中に火傷した指が消えた。指先に感じる彼の熱い舌。一瞬にして体中に這う彼の舌を思い出して、身震いすれば指が開放される。


 何故か指先の痛みは消えていた。そういうものなのかしら? 


 火傷をしたことなんて初めてだから、よくわからない。不思議に思って指を見ていたら、彼の意地悪な声が耳を掠める。


「何? 感じちゃった?」


「ち、違うわ。そんなことあるわけ無いじゃない」


「ふーん」


 彼はにやにやと私を見るから、視線のやり場がなくて足元に落としたところで凍りついた。


「ひっ」


 喉から空気が洩れたけれど、気にしている余裕は無い。思わず彼の首にしがみつけば、彼が面白そうに嗤う。


「今頃気づいたわけだ。入ったときからこの状態。床は血だらけ。まあ、肉屋だからね」


 そう言われて気づいた。鉄の匂いと、生臭いような匂い。これは血の匂いだったんだ…と。


「洗い流しても、流しきれないよね」


 彼の首にしがみついたまま、ぎゅっと目を瞑る。怖い。怖い。怖い。血の色が目に染みてくる。


「ほらほら。このぐらいで怖がっていちゃ、次にいけないよ」


 楽しそうな彼の声が耳に響く。


 次? これ以上、何があるというの? 何も見たくなくて彼にしがみついていると、彼がゆっくりと歩き出す。


「ほら。これをご覧よ。楽しいよ」


 楽しそうな彼の声。


「まったく人間っていうのは、とんでもないことを考えるね」


「何…?」


 怖くて。怖くて。目を瞑って問えば、耳元で聞こえる彼の涼やかな声。


「イーストエンドの美談だよ。おかみさんの努力の結果。素晴らしい成果が出ている」


「え?」


「ほら。目を開けてごらん。アリス。君も見たらいい」


 初めて名前を呼ばれて、恐る恐る開けた目の先には…ずらりと並ぶ丸いもの。


「いいコレクションだ」


「な…」


 何を見ているのか、自分が見ているものを頭が拒否する。蝋燭の明かりは小さくて。薄明かりの中では影しか見えない。それでも…。その輪郭は…。


 明らかに人間の頭だった。年端も行かない少年の頭だけがずらりと並ぶ。うつろな目がこちらを見ている。ろうそくの光ですら分かるどんよりとした目と灰色の皮膚の色。


 悲鳴をあげようとして、喉が引きつった。息が吸えない。


「あっ。あっ。あっ…」


 彼が私を見下ろす。


「ねえ。アリス。この世界に本当の美談なんて…無いんだよ」


 彼の瞳が紅く光る。


「彼らの身体はどこへ行ったんだろうね?」


 ゆっくりと彼の言葉が頭を侵食する。


「身体の肉は…どこへ行ったんだろうね?」


 言い直された言葉に、私の心が理解することを拒否して…目の前が暗くなった。




 気づけば朝だった。さわやかな鳥の鳴き声の中、体中の軋みで目が覚める。熱が出ている。多分…凄く高い熱。


 目を瞑れば、昨晩見た風景が見えてくる。こちらを見る…大勢の首。少年たちの首。


「いやぁーっ。あぁーっ。あぁーっ」


 壊れたように私は叫んだ。侍女のマリーが走ってくる足音が聞こえたけれど、構っていられずに私は叫び続ける。脳裏に蘇る並べられた首とそのうつろな瞳。


『身体の肉は…どこへ行ったんだろうね?』


 彼の声が頭の中に響く。


 身体の肉は…。身体の肉は…。


 頭の中で彼の声が続ける。聞いた覚えの無い彼の声が非情にも、私に答えを告げる。


『肉屋だからね。肉は…売られて、食べられたんだよ。人間は、本当に面白いことを考えるね』


 私は頭の中に響く彼の声を消し去ろうとするように、悲鳴を上げ続けた。



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