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第3夜  美談(2)

三日後。約束どおり彼は来た。やっぱりいつの間にか部屋の中にいて、やっぱりいつの間にか私のベッドサイドに立っている。どうやって入ってくるかなんて、訊いてもきっと教えてくれないに違いない。私が驚かずにじっと彼を見つめると、彼はつまらなそうに鼻を鳴らした。


「何? 驚かないの?」


「驚かないわ。約束どおりだもの」


 そう答えたとたんに彼の唇の両端が、持ち上がる。


「なるほど。君は律儀に待っていたわけだ。僕のことを」


「なっ…」


 そんなつもりは無かったのに、この人はなんていうことを言うの?


 私がぱくぱくと何も言えずに口を開きかければ、彼はそれを無視してベッドサイドに腰掛けて、頬に手を伸ばしてきた。


「寂しかった? 僕がいなくて」


 言葉だけは甘く。でも視線は冷たい。私を嬲るような笑みで囁いてくる。


「この前は帰って悪かったね。今日は…期待していて」


 耳に彼の涼やかな声とともに熱い吐息が落ちてくる。思わず彼の手を振り払った。


「ふざけないで。あなたに期待なんかするはずないわ」


 精一杯で睨み付ければ、彼がまた面白そうに唇をゆがめる。


「そう? そう言われると君の期待に応えたくなる」


「期待なんかしていないって言っているでしょ!」


 彼は冷たい目で嗤った。


「じゃあ、この前の…イーストエンドの美談の結末は…知りたくない?」


 まったく無関係のことに虚を突かれる。一瞬、意味が取れなかった。


「君が話してくれたやつだ」


「あれが…どうかしたの?」


「まあね。多分、面白いよ」


 そう言って彼は私の頭からぱさりとシーツをかけた。


「きゃっ」


「じっとして。目を瞑っていて。君を面白いところに連れていってあげるよ」


「どこへ…」


「しっ。静かに。大人しくしていないと殺すよ?」


 いつもの脅し文句。いつもの殺気。怖いはずなのに、言う通りにしていれば殺されないという安心感のようなものはあった。


 安心感? いいえ。そんなもの、この人に感じるはずがないわ。


 もやもやした気持ちのまま抱き上げられる。目を瞑った暗闇の中、私の背中と膝裏を支える彼のしなやかで逞しい腕と、耳に聞こえる心臓の音がリアルだった。


 浮遊感とゆれを感じる。


 一体、どこへ行くのだろうか…と思っているうちに、何かの匂いがしてくる。ガサガサした煙の匂い、あまり嗅いだことのない生臭いような匂い。多分…人が沢山いるような匂い。


 とん…と軽い振動が来て、そして止まった。


「着いた。目を開けていいよ」


 そう言われてシーツをよけて顔を出せば、どこか汚れた感じの街の中。目の前に広がる石畳を見れば、隅のほうへ誰かが捨てたゴミが落ちている。包み紙らしきものや、野菜のかけら。よく見えないけれど、多分そんなものだと思う。なんとなく足元がじめっとしているように見えた。


 建物もどことなく薄汚れている。一部が欠けたままの壁、何かの汚れのあと、そんなものが放置されたままで、修理も掃除もされていない。


「ここは…」


「イーストエンド。ホワイトチャペルの辺りだね。ロンドンでも物騒な場所だ」


「なっ…」


 外出するときでも絶対に通らない場所だわ。見たことがない風景に暗闇の中、再び目を凝らす。壊れた街灯、崩れた塀。街全体が古びて壊れているような印象。あちらこちらに暗がりが見える。思わず無意識に彼の洋服の胸元を握り締めていた。


「そんなに怖がらなくても大丈夫だよ。僕がいるんだ。君には指一本触れさせない。ちゃんと守るよ」


 そんな涼しげな声に顔をあげれば、唇の両端だけを上げた彼が私を見下ろしている。


「キミヲ コロスノハ ボク ダケ ダ」


 口の動きだけで、私に伝えてくると、にっと嗤って彼は私を抱き上げたまま歩き出した。


 私を殺すのは彼。


 そんな酷いことを言われているのに、この廃墟のように見える街の中で、彼の腕の中にいることに安心感を覚えてしまうのは何故だろう。


 彼は約束どおり、今はまだ私を殺さない。きっと彼は約束どおり、この場所で私を守ってくれる。そんなことが信じられるはずがないのに、何故か彼の腕の中は心地よかった。


「着いた」


 暫く歩いたところで彼が立ち止まる。暗闇の中に浮かび上がるのは、灯りの消えた看板が掲げられている店。


「ここは…」


「イーストエンドの美談の肉屋」


「肉屋…」


「そう。肉屋だよ。君が言っただろ? 肉屋の女が子供をどこかへ送っている」


「え? ええ。寄宿舎の学校に…」


「学校ね。はっ」


 彼は面白そうに嗤った。なぜそんな変な笑い方をするの? 分からないまま彼の顔を見るけれど、説明は無い。ただ唇の両端だけが上がったまま、目は冷たくて。いつもの彼の表情だった。


 私を両腕に抱いたまま、彼は器用に肉屋の扉を開けた。かすかにカチャンと音はしたけれど、難なく開けたように見えた。鍵はかかっていなかったのだろうか? 


「ちょっと」


 勝手に人の家に入っていく彼を止めようとして、声を出したところで睨まれる。


「いいから。静かに。見つかるだろ?」


「でも…」


「金目のものを取るわけじゃない。ちょっと中を見せてもらうだけさ。君に良いものを見せたいんだ」


「いいもの?」


「そう。いいもの。この素晴らしい美談を直接ね」


 何を見せてくれるかわからないけれど、泥棒ではないと言うし、彼の「良いもの」という言葉に興味を覚えた。身なりのいい彼のことだからお金に困っているということは無いだろう。そう考えれば泥棒ではないという言葉は信じられた。


 美談を直接見せてくれるというのであれば、もしかしたら子供たちからの感謝状とか、手紙とか…そういうものかもしれない。


 それと同時に意外な気もした。彼がそういうものに興味を持つことを。


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