第0夜 出会い
19世紀ロンドン。春には遅く、夏には早い五月の夕暮れに、ステッキをもって歩く紳士。綺麗に着飾った女性たち。ごみごみとした街並みの中を走る馬車。見える風景は綺麗なものではないかもしれないけれど、それでも自分の部屋よりはよっぽどマシだった。
年頃の娘が自分の部屋しか知らないなんて…ちょっと悲しい。小さいときから身体が弱くて、知っているのは屋敷の中と、体調がいいときだけ乗せてもらえる馬車からの風景のみ。
そんな中で、私は彼と出会った。
体調がいいからと、ほんのちょっとだけ外出した帰り道。いきなり急停車した馬車の横を白い綺麗な猫が駆けていった。どこかの飼い猫だろうか。御者が「猫め」と悪態をついたから、きっとあの猫が急停車の原因なんだと思う。
そして…その猫を追って視線をやった路地裏に、彼はいた。
女性を壁に押し付けて、その女性の足ははしたないくらい高く上げられていて、若い男性の腰に巻きつけられていた。すらりとした彼は、その女性の首筋に唇を這わせている。
そんな男女の姿を見るのは初めてで、思わずマジマジと見てしまってから気づいた。彼の口からは長い牙が出ていて、それが女性の首筋に埋まっているということを…。
「ひっ」
思わず声が漏れて、それが聞こえたかのように彼がこちらを見た。その彼の瞳が紅い。…血のように紅い…瞳。その瞳が私を射抜く。それなりの距離があるのに分かった。目が合っている。こちらを見ている。逸らしたほうがいいと分かっているのに、逸らせない。
ガタンと音がして、馬車が走り出した。ようやく硬直が解けたように体が動く。急いで首を回して視線を逸らした。
今の…何?
若い男性の冷たい紅い瞳。夕日が反射して、あんな風に見えたんだろうか…。思い出すけれど分からない。見事な紅い瞳は宝石のようだった。けれど、そんな瞳を持つ人を聞いたことが無い。
ゆるゆると首を振る。きっと見間違いだわ。もしかして女性の首筋に埋まった牙も見間違いかもしれない。
それが私と彼の出会いだった。
夕方にあんなものを見たからか、それとも久しぶりに外出したからか…夜にかけて熱を出して、私は寝込んでいた。ベッドには豪奢な天井があり、そこから天幕がかかっている。その薄いレースは、四隅にある柱に巻きつけられていた。
ベッドから見えるのは綺麗に装飾された暖炉と、天井にあるお父様がプロイセンから買ってきた鎖で上下するタイプの蜀台。いつもの自分の部屋。
額のぬれた布が生暖かくなってしまったけれど、使用人を呼ぶ気にもなれず、わずかに開けた窓から入る風だけが、熱い身体に涼をくれる。顔に絡みつく自分の金髪がうっとうしいけれど、それを払うのも億劫になっていた。
ぼんやりとした意識の中で、不意に誰かがベッドサイドに立っていることに気づく。
「だ…れ?」
答えはない。でも身じろいだのか、衣擦れの音がした。一生懸命開かない目を開ければ、ベッドサイドに立っていたのは、男の人で…。見知らぬ人に悲鳴をあげようとしたけれど、喉が硬直して動かない。
唇だけを開き声を上げそうになった私の口を、その人の手が覆う。
「死にたくなかったら、静かに」
涼やかな声で言われて、こくんこくんとうなずいた。わずかにさす月明かりで、その人の顔を見える。すらりとした体つき。濃い色の髪。エキゾチックな風貌。きちんとした身なり。とても強盗には見えない。
「あなた…」
誰? と、もう一度問おうとして、気づいた。見たことがある顔立ち。あの…紅い瞳の…。でも今は、瞳は薄い色で…赤には見えない。
「あの路地の…」
そう言った瞬間に、彼は大きくため息をついた。
「やはり見ていたんだね?」
上流社会の人間が話す綺麗な英語で問われる。
「ご、ごめんなさい」
思わず謝って俯けば、顎に手をかけられて、ぐぃっと顔を上向けられた。
「僕のことを誰かに話した?」
慌てて横に首を振れば、ほっとしたような表情をする。
「良かった。君は割とタイプなんだよね。だから…これからも黙っていてもらえるように…君と秘密を作ろうと思う」
「秘密?」
「そう。君が僕のことを誰にも言えないように。君との間に秘密を作る」
彼は唇だけで嗤った。目は嗤ってなくて、それが凄く怖い。逃げようとした私の身体をがっちりと掴んで、そして顔を突きつけてくる。
「僕と秘密を作るのと、ここで死ぬのと、どっちがいい?」
「し、死ぬのは嫌…」
震える声で答えれば、彼の唇の両端がさらに釣りあがる。微かに白い歯が覗いた。いたぶるように彼の手が私の首筋を撫でていく。
「じゃあ、決まりだ。大人しくしていてくれたら、君の知らなかった世界を見せてあげるよ。とっても気持ち良くて…きっと…気に入る」
そう言って彼は私に強引にキスをして、ベッドの中へと入り込んできた。