僕のお月様
夜も朝も、今の僕には存在しない。
太陽なんて目が潰れそうで見つめることはできない、月ならもう一度見つめられそうだけど、あのどうしようもなく妖しく、惑わすような空気が今の僕には耐えられない。
「お月様と結婚する」
幼き日の僕は母親にそんなことを言った。僕は、月を女性だと思っていたらしい。思っていた、より、思っているの方が正しいか。とにかく、僕はそれほど月に魅了されながらも、あの空気に耐えられないという、矛盾を抱えているのだ。
もう一度だけ、お月様を見上げられたらなぁ……
そんな想いだけが、僕をこの部屋に留める。
あの美しく闇に浮かぶ彼女に、もう一度だけ会えたら……
そして、満月の夜に、僕は決意した。
ゴミ袋が散乱したベランダに何年ぶりかに立つ。冷たい空気が一気に僕の身体を巡り、臓器を驚かせる。
周りの家の灯はとうに消えて、町中は静寂と闇に包まれていた。
息を細く長く吐く。
心臓の鼓動が耳の中にこだまする。
恐る恐る、僕は、目を、月に合わせた。
はぁ……
ため息が出るほど彼女は美しく輝き、あの頃と同じように僕を迎え入れた。
ああ、僕のお月様……
月明かりは僕を優しく抱きしめた。
もっとよく見せておくれ。
僕は闇に手を伸ばす。
その美しく輝かしい君の顔を僕に……
僕は彼女を抱きしめようと、ベランダをふらりふらりと歩いた。
その瞬間、静寂と闇に浸る町に鈍く重い音が鳴り響いた。
僕は騒がしい人々の声に気がつき、目を開けた。
大丈夫か⁈
あんた、二階から落ちたんだろ⁈
真っ青な顔をしたおじいさんがあたふたしていた。どうやら僕は二階から落ちたらしい。
しかし、今の僕にそんなことはどうでもよかった。
月……
コンクリートに転がる僕を満月は見下ろしていた。
その輝く月に手を伸ばそうと、腕を挙げた。
ああ……!!
僕の両腕がなくなっていた。
そこに、そこに君はいるのに、どうして
その時、救急隊員が到着した。
大丈夫ですか!
大丈夫じゃない…
僕は無い腕を伸ばした。
「僕は、僕は君と結婚するんだ!僕は君を、絶対に、離さない!お月様、僕は……僕は!」
男の叫びに野次馬たちの顔は凍り、青ざめた。それでも、男は満月に叫び続けた。
「僕は君を愛しているんだ!」
両腕から血を流しても、足が複雑に折れていても、彼は彼女に叫び続けたのだ。
「僕は!僕は……」
男は救急隊員に担がれ、救急車で運ばれた。
その声は救急車のサイレンの音と共に消えた。
再びの静寂が町を包む。
何事もなかったかのような静寂。
そして、現在その男を知る者は誰一人、いない。
読んでくださった方々ありがとうございます。作者のぬーんです。
拙い文ですが、これからも書いていきますのでよろしくお願いします。