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覆水盆に返らず

作者: 高築冬茜

前回同様一万文字以上二万文字以下です。

暇つぶしになれば幸いです。


 「俺と結婚してくれ」


 「……わかりました」


 一人の娘が青年の求婚に、おとなしく頷いた。ただし、と娘は続ける。


 「一つ、約束していただきたいことがあります」










***************************************










 とある国の小さな村に一人の娘が住んでいた。娘は際立って美しいというわけではないが、その村の中ではかなり整った美しい容姿をしていた。異国出身父親から受け継いだ漆黒の髪は黒曜石のごとく深く滑らかに輝き、これまた村一番の美女と名高かった母から受け継いだ薄緑の瞳と白い肌がその髪を引き立てる。その整った顔と相まって人形のような印象を受けるが、彼女は常に柔らかい微笑を浮かべており、それが無機質な印象を薄めて人間らしさを感じさせてくれる。彼女がまた、公平で優しい性格であるのも、周囲の人間を引き付ける理由であった。


 そんな彼女には幼馴染みがいた。幼馴染みの彼もまた、金髪碧眼の美しい青年であり、村の女の子たちの間ではひそかに王子と渾名されているほどであった。


 今、その美青年は娘の前に跪いていた。


 「イーヴァ、どうか俺と結婚してくれ」


 そっと娘の華奢な手を取ってその甲にキスを送る。傍から見ているとまるで絵画の一枚のような光景である。しかし。


 「お断りします」


 娘―――イーヴァはきっぱりと言い放つと、白けた様子で手を引き抜いてため息を吐いた。その様子は普段穏やかで冷静な彼女にしては珍しい心底呆れたようなものだった。


 「何度も言っているでしょう、アル。私は貴男と結婚するつもりはないと」


 「何故だ! こんなにも君のことを好きだと言っているのに!」


 青年―――アルがいきり立って地団太を踏む。その子供のような様にイーヴァはさらに呆れたような目を向けた。


 「諦めの悪い男はモテませんよ」


 「モテなくて結構だ! 俺は君以外と結婚する気はない!!」


 「これで何回目だと思っているんですか。いい加減諦めてください」


 「嫌だ!!」


 そう、アルの求婚は今に始まったことではない。幼少期に始まり、立派な青年となった今にいたるまで数えきれないほど求婚を繰り返してきたのである。家が遠いというアルと会う頻度が少なかったせいか、かつては週に一回がいいところだったのが、成長した今毎日会いに来てはそのたびに求婚されるようになった。最初は照れていたイーヴァだったが、今となっては思考のほとんどが「面倒だ」で埋まってしまうほどである。


 「何回も言いますけど、なんで私なんですか。貴男の見た目ならいくらでもいい女性が見つかるでしょう」


 イーヴァはまたため息をついてやれやれと言わんばかりに頭を振った。


 確かにイーヴァは美しいが、それもこの村と隣町ぐらいのものである。大きな町にいる色気むんむんのグラマーな美女と比べれば、胸が少し薄いのが密かに悩みのイーヴァは自分の魅力など霞んでしまうだろうと考えていた。


 「君は俺の理想なんだ。君以外考えられない。何度でも言うよ、俺は君が好きだ!」


 だから、と再びイーヴァの手を取ってアルは勢いよく頭を下げる。


 「お願いだ、俺と結婚してくれ!」


 「嫌です」


 そっけなく言って手を引き抜き、イーヴァは固まっているアルの横をすり抜けて颯爽と去っていく。


 そうして今日も勝負はアルの負けで終わったのであった。







 それから数日後のことである。


 あれだけ連日自分に会いに来ていたアルがあの日を境にぱったりと姿を見せなくなって安堵しながらも、あまりに唐突な幕切れに少し心配していたイーヴァだったが、ふと家の外が騒がしいのに気付いた。


 なんだろう、と玄関から顔を出すとそこにいたのはアルだった。


 ただし、豪華な服と白馬、そして数人のお供を連れた姿で。


 「おはようイーヴァ! 今日も綺麗だな!!」


 いつもの挨拶にも碌に返事ができない。馬から下りて近寄ってくるアルをただただ呆然と眺める。今まで着てきていた村人らしい服装からあまりにもかけ離れた、上等で一目で一介の村人である自分には手が出せないほど高価だということが分かる服。そう、まるで貴族のような……。


 と、そこまで空転する頭で考えたところで、アルがイーヴァの手を取った。


 「ちょっと、アル! やめてください、跪かなくていいですから!」


 いつものように膝をつこうとしたアルを慌てて制止する。


 「どうしてだい?」


 「どうしてもこうしてもないでしょう! 汚すわけにいきません、そんな上等な服」


 必死な説得に渋々といった体で頷いたアルに、イーヴァはほっと胸をなでおろした。


 「まったく、朝から心臓に悪いですね。大体どうしたんですか、その……」


 イーヴァは言いよどんだ。何故って、先ほどからお供の武装した男たちから突き刺さるような視線を感じるのだ。とてもではないが、いつものように雑な態度では接せない。


 「ん、これか? 気にしなくていい。その話は中に入ってしよう」


 そう言うとアルは慣れた様子で男たちに指示を出してどこかにやると、イーヴァの背を押して家に入ってきた。イーヴァを椅子に座らせると、我が物顔で台所に入りお茶を淹れた。


 促されるままお茶に口をつけると、その温かさにほっとした。


 「落ち着いたか」


 「ええ、少しは」


 「良かった。あのまま話してくれないんじゃないかと思った」


 「別に話さないとも言ってないじゃないですか、求婚を断っただけで」


 「うん、安心した」


 「はあ……で、なんなんですか。その服といい、馬といい、あの人たちといい。まるで貴族みたいで趣味が悪いですよ」


 「趣味が悪いって酷いな」


 アルは苦笑してぽりぽりと頬を掻いた。言いにくいことがある時の彼の癖だ。


 「なんですか。はっきりしてください」


 「うん、そうだね……」


 「そうだねじゃありません。まさかとは思いますが、俺実は貴族なんだーとか言うつもりじゃありませんよね?」


 言いやすくなるようにイーヴァが冗談めかしてそう言うと、アルはとても驚いたような顔をした。そして、その顔を真剣なものに変えてイーヴァの緑の瞳を真っ直ぐ見つめた。その表情の変化に驚いたのはイーヴァである。嫌な予感を感じつつ、恐る恐る尋ね返す。


 「えっと、その。冗談、ですよね?」


 「そのまさかだよ。俺もイーヴァに先越されるとは思わなかった」


 あまりのことに頭がついていかない。イーヴァは固まりそうになる体をほぐすべく、持ったままだったお茶を口に含んだ。それを見透かして、アルが苦笑する。


 「なあイーヴァ。俺の名前覚えてるよな」


 「えっ、ええ。アルドベルグですよね」


 「そう。言ってなかったけど、俺の名前、正式にはアルドベルグ・ディーロエン・ガルトメントって言うんだ」


 「ガルトメントって。それ、領主様のお名前じゃありませんか」


 ガルトメント家はこの一帯を治める領主である。地位としては子爵であるから、そこまで国に対して権力を持つわけではないものの、一村人にとってみればまさに雲の上の人である。


 「うん。今の領主は親父で、俺は次期領主なんだ」


 「マジですか」


 「うん、マジ」


 記憶に引っかかったものを拾い上げてみれば、ずいぶん前に領主の跡継ぎがどうのと風の噂で聞いた覚えがあった。その時は同じ名前だなんて妙な偶然もあるもんだなと思っていたのだが。


 「……はあ。貴男が嘘ついてるとは思えませんから一応信じますけど、じゃあなんでその次期領主様がこんなド田舎にいるんですか」


 「ほら、俺昔体が弱かっただろ。だから勉強の合間に療養としてこっちに来てたんだ。んで、暇を持て余して逃亡したらイーヴァとばったり」


 そういえばアルは昔は季節の変わり目ごとに体調を崩して会えないことがあった。なるほど、むしろ体調が悪いときに訪れていたのだから、あの病欠による予定の変更頻度も頷ける。


 それよりも、よくもあんなに頻繁に屋敷を抜け出せたものだと領主邸の警備に不安を感じた。


 それが聞こえていたらしいアルが苦笑したまま教えてくれる。


 「親父も昔はやんちゃしてたらしくてな。見逃されてたんだよ。もちろん護衛は付けてたらしいけど」


 「やんちゃって……領主様の想像がちょっと崩れました」


 領主は民には冷戦沈着で誇り高い人と言われている。それがやんちゃと言われてしまえばなんとなく信じがたい気持ちにもなる。


 「あはは、親父だって人間だったってことだよ」


 「……そうですね、貴男の父なんですものね」


 「んん? なんか引っかかる言い方だな」


 「ちょっとした軽口ですよ。それで? どうして今日はその貴族さまの格好でここに来たんです? いつもの服の方が目立たなかったじゃないですか」


 一番の疑問をぶつけると、アルはその表情にさらに苦い物を含ませた。


 「実は父に見合い話を持ち込まれてな。俺は嫌だと断ったんだが、親父がどうしても断りたくない相手らしくて」


 「まさかとは思いますけど、それが嫌だから私に結婚しろって言ってるんじゃないでしょうね」


 「イーヴァ、気を悪くしないでくれ。俺の君を好きな気持ちは変わらない。だからこそ、ここで好きでもない相手なんかと結婚したくはない」


 「したくないといっても、子爵家にとって利益があるならしないわけにいかないでしょう。貴男は次期当主なんだから」


 貴族ではよくあること、それが政略結婚というものである。平民であるが、そういうものが出てくる小説もよく読むイーヴァは、貴族はそう言った考え方が当然であると理解していた。


 「うちに直接利益があるわけじゃない。あくまで親父の個人的な恩人からの申し出だからできることなら断りたくないってことらしい」


 「ふうん。そうなんですか」


 「ああ。本当は結婚の約束をしたらと思っていたんだけど、これが最後の機会だったから。わかってくれたかい」


 「ええ、まあ。今の話だけならね」


 「俺のこと、貴族だからって別には見ないよな?」


 「なに言ってるんです。アルはアルでしょう。公の場じゃないし、そもそもいきなり言われても変えようがないです」


 「そうか」


 アルはイーヴァの気の無い返事にも嬉しそうな顔をして、今度こそ止める間もなく薄汚れた板張りの床に片膝をついた。


 「ちょっと! 汚いでしょう、立ちなさい!」


 「断る」


 有無を言わせずイーヴァの手を取り、その甲にいつもより長くキスをする。口を離したと思えば、そのままぐいと引っ張ってイーヴァの体を引き寄せた。自分も床に膝をついたイーヴァは、いつもより遥かに近い彼我の距離に頬が紅潮するのを感じた。至近距離からまっすぐ見つめてくる碧眼に吸い込まれそうな気すらした。アルはそっと囁くように言葉を発する。


 「俺は、君と一緒にいたい。君じゃなきゃ嫌だ。必ず君を幸せにしてみせる。君に、永遠の愛を誓うから」


 だから、と一度も発したことのない甘い声音で呟いて、イーヴァの額に、右頬に、左頬に、キスを落とす。


 どうやら彼は本気らしい。いや、今までも本気だとは思っていたけれど、今日ばかりは確実にイーヴァを落としにかかっている。今まで一度もしてこなかった、顔中に降るキスがその証拠だ。


 慣れない行為に真っ赤になったイーヴァは、気絶しそうになる頭を必死に押さえつけて努めて冷静にアルに問う。色々と真っ白になっていてキスとか手とかを振り払うこともできていないので、冷静とはいいがたいのだが。


 「わ、私は平民ですよ。格が違います」


 「そんなのはどうとでもなる。親父も、結婚くらい好きにすればいいと言ってたしな」


 「私より素敵で、貴男のこと好きな人がいっぱいいますよ。彼女達じゃ駄目なんですか」


 「駄目に決まってる。俺が一緒にいたいのはイーヴァだけだ」


 「私みたいな平民が、貴族の暮らしに馴染めるとは思えませんっ」


 「そこも全部俺がなんとかするから心配ない。言ったろ、幸せにするって」


 「じゃあ、じゃあ……」


 「聞きたいことはそれで全部?」


 うろうろと首を振って綻びを探すイーヴァからアルは余裕そうな笑みと共に身を離した。


 「じゃあ改めて言わせてもらう」


 すっと笑みを消した真剣な顔に息を呑む。今まで見てきた顔の中で、最も真剣な、鋭さすら感じるその表情にイーヴァはどきりとした。


 「俺と結婚してくれ」


 「……わかりました」


 ついに頷いてしまった。再び満面の笑みを浮かべ抱きしめてくるアルに赤面しつつも、心の片隅で確かに嬉しい自分がいる。


 別にアルのことは嫌いではない。どちらかといえば間違いなく好きだ。それが幼馴染みの友人としてなのか、異性としてなのかということは別にして。アルの求婚を断っていたのはどちらの好きなのか色恋に疎いイーヴァ自身判断できていなかったということもあるし、何回も断って撤回する機会を逸したということもある。まあ、理由はもう一つあるがそれはアル自身とは何の関係もない。


 先ほどのキスと、全ての問いに即答した迷いのなさにイーヴァの心は決まった。彼のことを、イーヴァはちゃんと異性として好きだ。キスされて喜んでいる気持ち、それ以上を求める気持ちがアルに対して存在していた。結婚してそういう風に求められても、アルにならいいという気持ちがあるなら問題は解決済みと言っていい。だが。


 「ただし、条件があります」


 イーヴァは少し冷えた頭で、幸せの絶頂といったアルに言った。


 肩を抱いたまま不思議そうにするアル。


 「条件?」


 「ええ。三年後の今日まで、私に愛というものを信じさせてください」


 「愛を?」


 「言ってませんでしたけど、私、愛ってものを信じてないんです。私の両親のことは話したので知ってるでしょう?」


 表情を曇らせてアルが頷く。


 イーヴァの両親は今はほとんど彼女と会うことはない。父の顔はアルに出会う以前に見たのが最後で、もう記憶にすら残っていない。母は父と離婚後、数えきれないほど再婚しそれと同じくらい離婚していた。入れ代わり立ち代わりあらわれる『父』。そのたびに囁かれる愛の言葉。数は少ないが、時には暴力も振るわれる日々。そんな中頻繁に持ち出される『愛』の言葉に彼女が不信感を抱くのも無理はない。


 「貴男のことは、その、嫌いじゃないです。でも、愛しているかと言われたら、信じていないものですから答えられません」


 「だから信じさせてほしい、と」


 「はい。貴男の気持ちを疑ってるわけじゃありません。でも知っていますか。恋の期限は三年なんだそうです。もしも、三年たっても貴男が私に愛を示し続けてくれていたら、貴男の気持ちが一過性の恋じゃないってことを、『愛』を信じられる気がするんです」


 アルはそれを黙って聞き届けると、真面目な面持ちで答える。


 「わかった。俺は必ず君に、『愛』を証明してみせる。その条件を飲む。俺と結婚してくれるな? イーヴァ」


 「はい、アルドベルグ」


 その後、すぐにでも出ようとするアルを説得してもぎ取った三日という短い準備期間を終えたイーヴァは、純白のウェディングドレスを身に纏い、教会で式を挙げ、アルと正式に婚姻を交わした。


 こうして、イーヴァはアルドベルグの元へ嫁ぐこととなったのである。













***************************************











 「それで、本当によろしいんですか」


 「ああ、もちろんだとも。業腹ではあるがな。そのかわり、汝がその賭けに敗れたならば……」


 「はい。もちろん約束は守ります」


 「うむ。そうだな。一つ、汝に言っておこう。よいか、我は汝の幸せをこそ願っている。だが、過ぎたる幸福もまた試練だ。その誘惑を断ち切るのはとても難しい。汝ならはき違えぬだろうが、それだけはゆめゆめ忘れてはくれるな」


 「……はい。肝に銘じます」


 「そうしてくれ。……ああ、もう夜も更けてきたな」


 「ええ。私が言うのもおかしいですけれど……寂しくなりますね」


 「ふふふ、おかしくなどない。寂しいのも我とて同じ。だが、そう言ってくれるのは嬉しいものだの」


 「ええ。三年後、結果がどうなろうと、必ず会いに来ます。それまで、お待ちくださいますか?」


 「いつまででも待っているとも。なに、三年などすぐだ」


 「ならいいのですけれど。……それでは、今宵はこれで。―――おやすみなさいませ、エンデルフィディス様」












***************************************













 ある日のことだった。


 「失礼します」


 イーヴァ・フレントはイーヴァ・ディーロエン・ガルトメント子爵夫人へ、そして現在はイーヴァ・エルロエン・ガルトメント伯爵夫人となっていた。いまや一介の村人から貴族の淑女へと成長を遂げた彼女は当初あれだけの猛反対を受けたにもかかわらず、その仕事ぶりによって先代にも一目置かれる存在となっていた。


 そんなイーヴァが濃紺のドレスを身に纏って訪ねたのは伯爵家の書斎、つまり夫の部屋だった。


 「どうした」


 「はい。今日は一つお願いがあってまいりました」


 仕事中は基本的にその邪魔をしないよう訪ねてこない妻が、さらに滅多に言うことのない『お願い』をしに来た。そのことにアルドベルグ・エルロエン・ガルトメントは顔を上げた。


 「お願い?」


 「はい。これを」


 そうしてイーヴァが差し出したのは一枚の誓約書。


 「アルドベルグ様。わたくし、」


 それは。


 「暇乞いに来たんですの」


 貴族の離縁を行うために必要とされる離婚願だった。









 「どういうことだ?」


 離婚願から顔を上げたアルドベルグは困惑した面持ちで妻を見た。そこにはすでにイーヴァの名が署名されており、あとはアルドベルグが署名をして担当の機関に提出すれば離縁が完了する。


 「ご覧の通りですわ。わたくしと離縁してください」


 「イーヴァ、君にはすでに多くの役割がある。それを忘れたのかね」


 「仕事のことなら心配は要りません。既に引継ぎも済ませ、あとは実際に異動させるだけです」


 イーヴァには伯爵夫人としてだけでなく、領地経営に関する書類などの処理も任せており、その仕事量は膨大である。後任への引継ぎには最低でも三か月はかかるはずで、どんなに急いでも昨日今日でできることではない。それはつまり、こうして話す遥か前から準備を進めてきたことの証左に他ならない。


 「……理由を聞こう」


 「心当たりならいくらでもおありのはずです」


 確かに、普通の家庭ならば離縁を持ち出されても仕方のないことはいくらか心当たりがある。だが、彼女は今まで何も言わなかった。知らなかったのではなかったのか。


 「何を知っている」


 「色々、です。例えば、アンリュネーブ男爵未亡人のことですとか」


 アンリュネーブ男爵未亡人はここ半年ほど親しく付き合っているアルドベルグの情人の名である。お互い秘密にしているし、イーヴァには仕事と言って出掛け先は教えていないので知っているとは思わなかった。


 「……どこからそれを」


 「執事のロジクが教えてくださいました。前は早くわたくしにここから出て行ってほしかったのでしょうが、今は純粋にわたくしの求めに応じて情報を渡してくださいます」


 「あいつか、なるほど。で、君はどうしたいんだ」


 「どうしたい、とは」


 「欲しいのは何だと聞いているんだ。新しいドレスか、宝石か? それとも現金が欲しいのか?」


 「いいえ。そんなもの欲しくありませんわ」


 「じゃあなぜ離縁しようなどと言い出す。ここでは何の不自由もさせていないはずだし、君も何も言わなかったではないか」


 「ええ、確かに生活する上での不自由はありませんし、仕事も充実していましたわ。この際です、情人と別れてほしいと言っているわけでもありませんから勘違いなさりませんよう」


 イーヴァの物言いはあまりにも淡々としていて、光景だけで言えばいつもの業務報告と何ら変わりなく思えるほどだった。表情から彼女が何を考えているか読み取ろうとしたアルドベルグだったが、なにもわからなかった。


 「じゃあなぜ?」


 「……貴男は今日が何の日か、覚えておりますか」


 「今日? いや、特別何かあったとは聞いていないが」


 「そう、ですか」


 イーヴァはその薄緑の瞳を臥せると、ほんのわずか寂しそうな表情を見せた。だがそれも一瞬、目線を上げたころには元の無表情に戻っていた。


 「アルドベルグ様―――いいえ、アル。今日は私と貴男が結婚してちょうど三年目です」


 「三年? そういえば、そうだったな」


 「貴男は、あのとき私と交わした約束を破った。だから私はこうしてお別れを言いに来たんです」


 「約束?」


 「思い出せないなら、それまでのこと。どちらにしろ、もう手遅れですけど」


 「手遅れ? それはどういう意味だ」


 イーヴァはその問いに答えることなく綺麗に頭を下げた。


 「今までお世話になりました。さようなら、アル」


 そのまま目線を合わせることなく背を向け、書斎を出ていこうとする。


 「おい! どこへ行く!」


 アルドベルグが腕を掴んで引き止めた。それをイーヴァは面倒臭そうに振り払う。まるで、あの村にいた頃のように。だがそのことにアルドベルグは気付かず、ただ彼女の無礼に憤慨する。


 「このまま故郷へ。他に行く当てなんかないでしょ」


 「私はまだ離婚に同意するとは言っていない。まだ君に任せたい仕事もあるってのに」


 「無理です。言ったでしょう、もう手遅れだって」


 そう言って彼女はいつの間にやら持っていた鞄を示す。そう言われてみれば彼女の服装は旅装と言われても通りそうな簡素なものだった。今すぐここを出てもなんの問題もないくらいに。


 「アル、貴男の子を産めなかったのが残念ではあったけど、今となってはその方がよかったのかもしれないですね。結局、こうして出ていくことになるんですから」


 「イーヴァ、何を言っている。私は君と別れるつもりはない」


 「……もう言うことはありません。貴男のことは好きだったけれど、結局愛しているとは言えなかったし、貴男だって心の内ではそうなんでしょう。良かったですね、これで未亡人と公に交際できるでしょう」


 「なんだ、そんなものが欲しかったのか。言ってるだろう、私は君を愛していると」


 その言葉に、イーヴァは少し寂しそうな顔をしてアルドベルグを見た。何も言わずに小さく会釈をすると、再び扉を開けて出ていく。


 滅多に見せない彼女の表情に訳が分からないと固まったアルドベルグを置いて、扉を閉めるそのわずかな隙間から声が聞こえた。


 「だから、信じさせてほしいといったのに」








 放っておかれたアルドベルグは落ち着かなげに部屋をうろうろした後、乱暴に椅子に座った。書類を片付けようと思ったが、こんな気分では筆が進むわけもない。


 メイドに茶を頼み、ソファに座り直して手を組んだ。


 イーヴァは離縁してほしいといったが、アルドベルグにその気はない。彼女は完璧な淑女の上にそれ以外の役目での働きぶりも素晴らしいし、親戚筋からの評判も悪くない。それに、彼女が来てからというもの領内の景気が良くなったり、特産品の紅茶や菓子が王室に気に入られて様々な上流階級の人々と繋がることができたりと彼にとって都合の良いことが増えた気がするのだ。先の戦では活躍を認められて陞爵したし、彼の右肩上がりの運気を万が一でも下げる恐れのあることは避けたい。彼女は手放すわけにいかないのだ。


 「まったく、なんなんだあいつは。なんでも与えてやったのに」


 アルドベルグは鼻を鳴らした。彼女には貴族として様々な富を与えてきたつもりだった。ドレスも宝石も、高級食材を使った料理も、世の女なら誰しもが欲しがるであろう物は全て与えた。そういえば故郷には一度も返していなかったが、彼女はそのことには何も触れなかったのだからどうでもいいのだろう。誰もが羨むそんな恵まれた生活に何の不満があるというのか。


 だがその勢いもすぐに萎えた。彼の胸の中で、もやもやと気にかかることがある。それはイーヴァが見せた表情、そして彼女が言った、『約束』という言葉だった。彼がしたという約束の中身が、どうにも思い出せない。イーヴァの言葉から察するに、三年目に何かあったら別れてもいい、というようなことだろう。問題はその何かだが、彼女の言い分に沿って言えば『愛』ということになるのだろうが。


 アルドベルグは深みに沈みそうになる思考を打ち切り、いつの間にか置かれていた紅茶を呷る。中途半端な温度が、気分の悪さと相まって気持ち悪い。


 「……アンリュネーブのところにでも行くか」


 最近お気に入りのあの女でも抱けば、嫌なことは忘れられるだろう。イーヴァが何を言おうとも、アルドベルグがあの書類に署名しなければ離婚は出来ない。だから大丈夫。まだ、自分たちは夫婦のままだ。


 ―――何をこだわっているんだ、私は。


 ふっとそんな思いが湧いた。彼の妻は確かになかなか美しいし有能だ。だが、女としての美しさだけならアンリュネーブ男爵未亡人の方が上だし、仕事も使用人を雇えば済む。その程度の出費は現在の彼にとってはした金に過ぎない。それに彼女はいくら完璧な淑女と言えど、辺境の出で元は平民だ。それに引き換えアンリュネーブならば、未亡人だろうが実家は男爵家。家柄で言っても釣り合いが取れる。だから。


 ―――だからなんだというのか。


 一気に未亡人のところに行く気が失せた。所詮、アンリュネーブとのことなど遊びに過ぎない。伯爵になってからできた知人に乗せられた、一時的な関係。あの女もそれくらいのことと分かっていて誘惑しているのだ。男女の駆け引きを楽しむゲーム、ただそれだけ。いくらアンリュネーブが女として、家として魅力的でも、イーヴァと離縁してまで手に入れようという気にはならなかった。


 そういえば、さきの口論の時彼女の口調が変わっていた。いつだって丁寧語の癖して、その割に少し乱暴さを感じさせる喋り方。伯爵夫人として完璧な振る舞いを見せていた彼女があんな振る舞いをしたのは、いったいいつ以来のことだろう。いや、逆か。あの彼女らしい姿を見たのはいつが最後だったのか。少なくとも一年半は前。あの頃はまだ共に過ごす時間もあったのに、近頃は夫婦としての会話らしい会話と言ったら業務連絡だけだなんて。


 思い出せば出すほど、ざらりとした苦さが口の中に広がっていく。


 結婚する前は普通だったそのやり取り。彼自身も市井に近い口調で話して、鬱陶しそうでもきちんと聞いてくれる彼女と過ごすのが楽しかった。傍にいて、何も話さなくても沈黙が苦しくない、唯一の相手。欲しかったのは完璧な淑女でも、有能な部下でも、ましてや艶やかな体の女でもなく、確かに傍にいてくれるひと。彼女のことを確かに大切に思っていたはずなのに。いつの間にか、そこに居るのが当然だと思うように、否、もっと酷い。この伯爵の傍に置いてやっているのだという気になっていた。こんな有様ではどこぞの陳腐な恋愛小説を笑えない。


 あの日彼女は何と言って自分の求婚に頷いてくれたのだったか。去り際の彼女の声が蘇る。


 「……ああ、なんてことだ」


 愚かしい。今までの己を殴り倒したくなった。


 彼女は何かが欲しいと言ったわけではない。信じさせてほしいと言ったのだ。


 彼がいくら愛していると言っても。その証だと物を贈ろうとも。


 彼女が信じなくては意味がない。彼女が信じられなくてはそれはただの言葉で、ただそこにある物でしかない。


 空っぽな愛の言葉を聞き続けた彼女。何も考えないただの子供なら無邪気に信じられただろうに、下手に聡明だったために、『愛』の存在そのものに疑念を持ってしまった。だから、三年という月日の中で彼女に信じてもらわなくてはいけなかったのに、繁栄という幸運の中でその努力を怠った。自惚れていたのだ、与えているのだから与えられるはずだと。


 今更思い出してももう遅い。彼女は去ってしまった。


 「いや、まだだ。まだ、大丈夫。私達は夫婦だ」


 焦る己に言い聞かせるように呟く。だが、思い出してしまう。


 イーヴァは幾度も、手遅れだと繰り返してはいなかったか。


 嫌な予感がする。すぐさま執事を呼び、馬車を呼びつけた。


 何がどうしてそんな感覚がするのかはわからない。それでも自分がまだ彼女の夫であるということを確認しないことには落ち着けそうになかった。


 「旦那様、馬車の準備ができました」


 「すぐ行く」


 努めて冷静に見えるようにした。他者を意識していないと、今にもイーヴァを追って駆け出してしまいそうになる。


 馬車の中ではできうる限り足を速めさせたが、苛々が収まらずつい御者を怒鳴ってしまいそうになった。


 役場に付いた瞬間に馬車から飛び降り、窓口に駆け込んで訴える。


 「アルドベルグ・エルロエン・ガルトメントだ! 私の戸籍を見せてもらいたい!」


 「え、伯爵様!? ご本人ですか」


 「そうだと言っている。早くしてくれ」


 「は、はい。ただいま!」


 対応が遅い。眉間に皺が寄ってしまっているのは分かっているが、どうにも落ち着かないのだから仕方がない。


 落ち着こうと、無理に深呼吸を繰り返していると、受付係が慌てて戻ってきた。


 「どうぞ、これです」


 奪い取るようにして受け取り、目を通していく。そして。


 「おい、どういうことだ」


 「え? いかがいたしました」


 「ここに、妻の名がないんだが」


 イーヴァの名が並んで記されるはずの場所。アルドベルグの名の横には空白しかなかった。


 「先日、奥様から離婚願が提出されましたので削除いたしましたが」


 「離婚願!? そんなはずは」


 「書類の写しなら、こちらになります」


 手渡された紙を見ると、確かにイーヴァと自分の名が記されている。だが、この書類に署名した覚えは……―――。


 「ああ、くそっ。そういう意味か」


 唇を噛む。思い返してみれば、忙しかったためイーヴァの言うとおりに署名した日があった。その時の書類に紛れ込ませていたのだろう。今この時だけは、イーヴァを全面的に信頼していた自分を恨む。


 「おい、これは私の意思で署名したものではないのだが、取り消してくれないか」


 「ええ! 無理です、一度受理して反映されたものは取り消せません」


 「そこを何とかならないか!」


 「無理です! お引き取りください」


 取り消せない。もう自分達は―――夫婦では、ない。


 半ば呆然としながら、家路につく。アルドベルグは帰りの馬車の中で、取り返しがつかないという言葉の意味を深く実感する羽目になった。






                                   

 その後、ガルトメント伯爵家は衰退の一途をたどる。領内は五十年に一度の大旱魃に襲われ、凄まじい不景気から脱却するのに三十年の月日を要す。さらに、関わりのある侯爵の失態に巻き込まれる形で最終的には男爵にまで爵位を落とした。目にも明らかなガルトメント家の衰退に、家に仕える使用人たちは皆噂した。イーヴァ様はガルトメント家の幸運であり、それを旦那様が逃したから落ちぶれていっているのだと。


 そのような受難に見舞われながらも、当主アルドベルグは元妻イーヴァの捜索を続けさせた。彼女の言葉通り、その足跡は確かに故郷の村まで続いていたが、彼女の家はもはやなく、しかし村から出た痕跡も見当たらなかった。唯一の目撃証言は、彼女が近隣の森に入っていったというもの。当然そこも捜索させたが、女性どころか動物の影すら見つけられなかった。だが、ある日のことだ。森の中心に位置する泉に彼女の物である靴が一揃え沈んでいるのが発見された。捜索隊は彼女が誤って泉に落ちたと進言したが、アルドベルグは捜索を続行させた。


 その後も依然として彼女の行方は見つからなかったが、次第に不思議な証言が多く聞かれるようになる。曰く、森の中で美しい女性の精霊を見たと。その姿は淡く透き通り、噂に聞く精霊と酷似していたという。そしてもう一つ、ぼやけていたものの、その美貌はガルトメント家の元妻にそっくりだったそうである。








***************************************







 そっと滑らかな首筋を撫でる。艶やかに光る黒銀の毛並みを指先で梳くと、寄りかかった逞しい体が嬉しげに震えた。


 「まさか、本当に待ってくださっているなんて思いませんでした」


 ぽつりと不用意に呟くと、思いがけずその声を拾ってしまったらしい凛と立った三角の耳がぴくりと震え、心外だと言わんばかりにふんわりとした尾が背中を柔らかく叩いた。


 「言ったろう、いつまでも待つと。それとも、この我が汝との約束を破るとでも?」


 金の瞳を細め、少々怒った風に唸り声を上げる。だが声音自体はまだ甘いのでふりだとわかった。だからこちらもちょっとおどけた風を装って返してみる。


 「いいえ、まさかそんな。ただ、三年は人間には意外と長い月日ですから、ちょっと心配になったのを思い出しただけです。貴方様が寂しくて拗ねてらっしゃるんじゃないかって」


 「ぬ、拗ねるというのは少々語弊があるな。だが、我のことを想っていてくれたのは嬉しい」


 その言葉に嘘は感じられず、どうやら誤魔化せたらしい。ふっと目を伏せて、思いを馳せる。


 あの人のことを、自分は愛していたと思う。傍にいて支えてあげたかったし、たくさん抱きしめてほしかった。母や『父』たちの言っていた愛とは意味が違うような気がしたが、偶然見つけて憧れた恋愛小説の中の彼女たちのように、暖かくほろ苦い、なんとも名付け難い思いを彼には持っていた。それに、彼も彼なりには、愛してくれたような気がする。暴力を振るわれたことも、粗雑に扱われたこともない。陰険な嫌がらせをされた時には、彼女にとっては些細なことだったのに、怒って、ちゃんと庇ってくれさえもしたから。


 それでも彼から離れたのは、耐えきれなかったからだ。彼が夜会で女性たちと関係を持つことでも、自分のことを『伯爵夫人』という肩書でしか見なくなっていくことでもなく。


 なにより、彼女の内に澱んでいく汚い感情を見られることが怖かったから。


 それが嫉妬と呼ばれるものだということは分かっていた。これが彼を愛していることからくる独占欲なのだとも。でも、この黒くてどろどろとした汚泥のせいで彼に嫌われるのが、疎ましがられるのが、嫌だったのだ。


 だから彼女は逃げた。傍に居てほしいと戦うこともせず、自分自身を変えることもせずに、昔の約束を持ち出して、愛が信じられないと嘯いて。本当はどんなに彼が酷い扱いをしても、捨てられたくはなかっただけなのに。もう要らないと、彼に言われるのが怖かっただけなのに、「信じさせてほしいと言ったのに」なんて恨み事まで言い置いて。




 ……もし、意地なんか張らずに強い意志でもって行動していたら、何かを変えることができたのだろうか。




 「どうした?」


 突然黙り込んでしまったので訝しがられてしまったようだ。


 「……いえ。私にしてみれば、賭けに負けたんですからちょっと残念だと思って」


 変に誤魔化さず、少し気落ちした風な声で言うと、それを察してその鼻面が優しくイーヴァの頬を擦った。


 「そうさな、愛する者から無碍にされることほど、辛いことはない。だがな」


 ぐるる、と唸るとその鋭い牙で傷つけぬよう優しく二の腕を食まれた。やわやわと食みながら、少し低い声で続ける。


 「我の前で他の男の話をするのはいただけぬな。汝は我の伴侶なのだから」


 そうだ。約定は果たされなければならない。相手が強い力を持つ魔獣なら、なおさらに。


 今になって後悔している。いくら一人が寂しかったとはいえ、村の言いつけを破るべきではなかったと。


 アルにまだ出会う前。母の折檻から逃げ出した彼女は、村人たちから敬遠されている森に入った。ここならきっと母も『父』も追ってこない、しばらく一人になれるだろうと。そうして闇雲に走り続けて森を奥へ奥へと入った時に、出会ってしまったのだ。この美しくも恐ろしい存在に。


 「そうですね、私は貴方様の妻ですものね。ごめんなさい、森で懐かしい顔を見たものだから」


 笑顔を作って答えると、嬉しそうにしながらも少し疎ましげに前足で地面を叩いた。


 「むう、あの人間ども、そろそろ邪魔だな。追い出すか」


 若干物騒な気配がしたので慌てて止める。


 「どうかやめてください。万が一貴方様が危険だとなれば、この森が焼かれてしまうかもしれません」


 「森が、か。まあ良い、いざとなれば汝を連れて場を移せばいい」


 「でも、私この森が気に入ってるんです。あの村も近いですし」


 「そうか、汝が言うならば仕方がないな。そのかわり」


 長い舌がイーヴァの唇を舐める。彼にとってはキスと同じ意味を持つ行為だ。ぞわり、と背中が羞恥とも嫌悪とも言い難い感情で粟立つ。


 「いつまでも我の傍に、我の愛するイーヴァ」


 甘い声音に紳士で真剣な色が混ざる。彼は確かに彼女を愛しているのだろう。それは、わかっている。だが、彼女にとっては全面的に嬉しいとは言い難い。


 初めはただの戯れだったのだろう。森の奥の朽ちた神殿で眠っていた彼に話しかけられたときはもしや喰われるのかとも思ったが、その気はないと言われて嬉しくなった。そもそもその頃は別に死んでもいいと思っていたので、特に恐怖はなかったし、そんなことより彼の美しい姿に見惚れていた。それからは数日に一度彼の元を訪ね、勝手にその傍で過ごしては帰ることが習慣になった。そのうちに、かけた言葉に返事が返ってくるようになり、体を触る許しが出た。ふかふかの毛並みに触れた時、飛び上がりそうなほど感動したことを覚えている。


 そこで止めておけばよかったのかもしれない。だが、多分もう手遅れだったのだろう。


 アルと出会い、訪ねる日が減ると、不機嫌さを示すことが増え、以前の数倍増しで彼のほうから接触を求められた。その頃には何かがおかしいと思い始めていたが、訪れることを止めることもできなくなっていた。


 成長した彼女は彼がこの一帯でその存在が囁かれている恐ろしい魔獣だということを知ってしまった。彼に執着され始めていることは理解していたが、会いたくないとでも言えばもしかしたらこのあたりの村が破壊され尽してしまうかもしれない。この強大な魔獣がそれだけの力を持っているであろうことは想像に難くなかった。


 だから彼女はアルの求婚を断り続けた。彼女が故郷を守り、かの魔獣に力を振るわせないためには一人でいるしかないと考えて。それなのに、彼の必死の懇願に絆されてしまったのは、意志薄弱というものだろう。

 だから彼女は彼に持ちかけたのだ。三年間待ってくれと。自分は彼を愛しているからと。本当は確信が持てなかったのに。


 「はい、エンデルフィディス様」


 手の甲の永遠に命を繋ぐ契約印を撫で、そっとその横顔に口づける。


 今でこそ満足げにしているが、持ちかけた当初は怒り狂っていた。誰が渡すものかと。


 こんな契約、自分でも最低だと思ったが、こうでもしなければアルと過ごす方法はない。必死に懇願して、三年後愛が示されなかったら帰ってくるからと宥めた。三年もの間子が生せなかったのはその時にかけられた期限付きの呪いのせいだ。そんなことをせずともまず間違いなく、相思相愛の状態でもアルと別れざるを得なかっただろう。その時はきっとアルは殺され、彼女は無理矢理に囲われていた。それを考えれば、逃げ帰ってきたことはアルにとっても自分にとってもよかったのかもしれない。


 ぎゅっとあたたかな腹に抱き込まれたイーヴァは、夜空のように黒く大きな獣に抱き付いた。


 まだ、アルに対する想いは消えない。時折胸が焦がされるような感じがするが、それをおくびにも出さず彼女は笑う。


 いつか、この苦しみは消えてくれるだろうか。


 寿命をエンデルフィディスという名の魔獣と共有した彼女には、これから先遥かな年月が待っている。長い長い時間の中で、その苦しみが消えるのが先か、それとも彼女の人格が摩耗するのが先か。はたまた心の底からこの獣に恋をすることになるのだろうか。


 彼のことを嫌っているわけではない。無理に襲ってくることもないし、概ね優しい態度で接してくる。『父』達とは比べるまでもなく彼の思いは真摯で真っ直ぐだ。そんな彼のことを大切には思うけれど、人と獣という種族の壁は彼女にとってあまりにも厚かった。彼はそんなもの関係ないと、思いこそ全てだと言ってくれる。だがイーヴァにはその壁を超えられるとはとても思えず、彼女の「好き」がそんな程度なのだということは自分でもよくわかっていた。


 後悔しても何も変わらない。すべては自分の選択の結果。今はただ、自分よりよほど純粋な、罪悪感さえ感じる暖かさに顔を埋めるしかなかった。

蛇足的解説


 その1:世界観について

 特に詳しい設定は決めていません。大雑把にいえば中世のイメージです。ファンタジーの王道ですね。魔獣は普通の動物よりも大きな体と強い力を持っているものの通称で、種類も知能も様々。人に害を加えない限りは討伐されませんが、エンデルフィディスは昔ちょっと(笑)やらかしてしまったので討伐対象として名が知れ渡った模様。人に追いかけられるのがめんどくさくなって森に籠ってました。


 その2:登場人物について

 イーヴァが丁寧語なのは愛人たちの印象を良くしようとした母親の強制によるもの。癖になって直らなくなってるので、今はむしろこちらのほうが気楽。イーヴァの父親は離婚してすぐ故郷に帰り、母親は村から出て愛人たちのところをあっちにふらふらこっちにふらふらしてます。

 アルは後半伯爵になったことでかなり調子に乗っていたため偉そうな口調でした。後は…特になし?(笑)

 エンデルフィディスについては上記の通り。別にロリコンじゃないです。寂しかっただけです




 拙作をここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございました!!

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