四 決断
戦の前兆の軍馬の甲高いいななきが聞こえた。
信長は皆を見回して言った。
「いかに厚情の光秀と雖も、ここは誰も逃さぬ。囲むまで戦笛の聞こえぬは儂が比叡を討ったときと同じじゃ。この寺ともども滅ぼすつもりであろう。汝等、幼き者が多く不憫なれど、男の子なれば覚悟せよ。女どもは苦しゅうない。男どもがなだれ込まぬ内に去るがよい」
女がすすり泣く声が聞こえた。濃姫だけはにこりと笑って首を横に振った。
過去、常に信長の決断が正しかったことは皆良く承知していた。だがこれが最期と判断せしは・・・。
乱丸が悲痛な声で言った。
「御屋形様!ならば天下布武のお志は!」
信長は乱丸の瓜実顔を愛おしむ目で見た。その横には濃姫も信長を見上げている。
「又左(前田利家)がおる!猿め(羽柴秀吉)がおる!じゃが光秀には天下は取れぬ・・・朝廷の威光にすがりこの様な大義のないことをするようでは・・・」
以前、光秀は祖先である名族、土岐氏の自慢を信長の前でしたことがあった。信長にそのようなことは一文にもならぬと一笑に伏された。
この場で信長を討ったところで、一家臣の反逆と見なされ大義があるとは誰も言わぬ。信長を怖れる朝廷から詔勅を得た訳ではなかろう。虎の威を借りるつもりであろうか?
明らかに短慮である。日向守らしくなく何かを見過ごしている。いや、光秀は智の人である。それ以上の理由があるのか?
既に戦いの気勢に入っている軍兵数千(本能寺を囲んだ兵は三千五百と言われる)に対し、幼き小姓達と数十の馬廻り衆と警護兵だけでは、戦いの結果は火を見るより明らかである。
だが、戦いの決意をした乱丸には、死すべき運命の悲痛さなど頭から消えていた。如何に少数を以って多数の敵を翻弄するかの楽しみが湧いてきた。
これぞ戦国に武士として生まれた人間の特徴である。
陣中評議で、若年ながら信長に促され、意見を言わされることがあった。信長は試しているつもりだろうが、当人に取っては試練である。
居並ぶ諸将に面目を失わせぬ為に、笑みを浮かべた信長から一番に仰せつかるのであったが、乱丸のその的確な意見は常に皆を唸らせた。
自分の情報不足で判断できぬ所は軍議に残したが、乱丸の出した方向性に間違いは少なかった。名将、父森可成と兄長可から受け継いだ血は隠しようがなかった。