二 乱法師殿
乱丸の生まれたときの記録に『玉のやうな男子』であったとある。乱法師と呼ばれた。
長じて文武の才に長け、森家の誉れと囃された。信長に目見えしたとき、理知的な応対と端座する秀麗な姿に信長は惚れ込んだ。
主君の命でお側に上がり、伽を命じられたとき必死に抵抗した。他の小姓等が、手討ちになるのではないかと嫉妬混じりに噂した。森家の家督を継いでいた兄の長可は、何も言わず家宝の脇差しを乱丸に授けた。
武士の脇差しは、敵の首級を挙げる時と主君を守るとき、そして恥を残さぬよう自害するときのためにある。
「私はそのような御奉公は致しませぬ!」
あるとき再三の主の命に抗い、背を伸ばして座り睨むその目は、興福寺の阿修羅像の如き凄烈さであった。十三の小童ながら、意に染まぬ恥をかくのなら、その場で喉を突くつもりであった。
信長は怒りに身を震わせ、何も言わずその場を立った。
隣の座敷にいた前田利家が信長の行く手に胡座を移し、じっと主を睨んだ。信長は甲高い声で叫んだ。
「犬(利家の幼名、犬千代から)!何も言うな!」
乱丸は家で沙汰を待っていた。
主君をああまで怒らせれば切腹あるいは追放であろう。家の面目を守るために死ぬ覚悟をした。まだ戦働きもしていないというのに。
軍配を取れば正に鬼神の信長の側で働きたかった!
森家の邸に使者が来た。
意外にも使者は信長の折文を乱丸に手渡した。
上意の沙汰状と思っていたが。
乱法師殿江奉る。
至らぬ主と思し召し候えば見放し給うな。
死ぬ事なかれ。
帰蝶(濃姫)に勝るとも劣らぬ宝なりける。
朝に顔を見せ給え。それだけが望みにて候。
信長 花押
信長が家臣に敬語を使った!恋文に近いものだった。元服もしていない家臣の子に敬意を払う文に感じいった乱丸は、もう信長を拒まなかった。
この時代、主と従者が衆道の関係を結ぶというのはよくあったと言われる。だが、信長と乱丸の物語は好事家の興味を引くに十分である。この後の歴史書に、愛の対象になった少年達に『美童』、『艶なる者』(常山紀談)などの描写を見かける。それを民衆の好みに集大成したのはやはり井原西鶴の『武道伝来記』であろうか。