127人全員に謝らないと解けない呪いですが、口を開くと悪口しか出ません
コルネリア・ヴェルトハイムが呪われたのは、17歳の誕生日を祝う夜会の最中である。
それまで、彼女は上機嫌だった。公爵家の大広間には王都の貴族がほぼ顔をそろえ、婚約者である王太子ユリウスも、義務の範囲で笑っている。祝いの言葉を受けるたび、コルネリアは扇の陰で完璧な微笑みを返した。
「まあ、素敵な首飾りですこと。伯爵夫人によくお似合いですわ」
口ではそう言いながら、頭の中では別のことを考えている。3年前の流行だわ、と。
これがコルネリアのやり方だ。思ったことの半分は笑顔で包み、残りの半分は包まずに投げつける。どちらを選ぶかは相手の身分と、その日の気分しだい。王都で彼女を嫌っていない者を探すのは、真冬の庭で蝶を探すより難しいと言われていた。
子爵令嬢エマ・リンデルが祝いの品を差し出したのは、そんなときのこと。
「コルネリア様、刺繍のハンカチでございます。わたくしが自分で……」
「ありがとう。とても」
素敵ですわ、と続けるつもりだった。
「下手ね。針目が蛇みたいにのたくっているわ。こんなものを公爵令嬢に贈ろうと思った度胸だけは、褒めてさしあげる」
広間が静まり返る。
言ったのはコルネリア自身。けれど、言うつもりのない言葉でもあった。笑顔で包んでおくはずの本音が、包み紙を破って勝手に出ていったのだ。
エマの目に、みるみる涙がたまっていく。
その夜のうちに、王宮魔術師オズヴァルトが呼ばれた。白い髭の老人はコルネリアの額に手をかざし、長いこと唸ってから口を開く。
「呪いでございますな。お嬢様に向けられた怨みが寄り集まり、勝手に呪いの形をとったものです」
「何人分なの」
「127人分」
「少なすぎるわ。もっといると思っていたもの」
父である公爵が、額を押さえた。
呪いの中身は単純だ。頭の中にあることが、そのまま口から出る。嘘はつけない。お世辞も言えない。社交辞令という、貴族が息をするように使う道具を、コルネリアは丸ごと取り上げられたのである。
「解く方法は」
「怨みが、すべて消えれば」
オズヴァルトは懐から一本の巻物を取り出し、卓の上に広げた。びっしりと人の名が並んでいる。伯爵夫人がいた。エマ・リンデルがいた。王太子ユリウスの名も、ずいぶん上のほうにある。
「呪いを写し取った名簿でございます。怨みが消えれば、名も消えます」
コルネリアは巻物を端までたどった。最後の一行だけ、墨が滲んで読めない。
「これは誰」
「わしにも読めませぬ。ときどき、こういうことがございます」
「それで、期限は」
老魔術師は少し言いよどんでから答えた。
「次のお誕生日まで。それを過ぎれば、呪いは根を張ります。一生、解けませぬ」
翌朝、王宮から使いが来た。王太子殿下は、呪いが解けるまで婚約を保留にしたいとのこと。保留という言葉が、実際には何を意味するのか、王都で知らない者はいない。
その日の午後には、父が娘を書斎に呼んだ。
「コルネリア。次の誕生日までに呪いが解けなければ、お前を北の修道院へやる」
「お父様、それは脅しですか」
「本気だ」
「でしょうね。お父様は脅しのときだけ、かつらがずれるもの」
公爵は黙って頭に手をやり、それから娘を部屋から追い出した。
◇
自室に戻ったコルネリアは、長椅子に倒れ込んで天井を睨んだ。
「謝るしかないわね」
声に出したつもりはない。呪いのせいで、出ている。
髪を梳かしに来た侍女のハンナが、手を止めずに尋ねた。
「どなたにでございますか」
「127人全員によ。全員に頭を下げて、怨みを消してもらうの」
「お嬢様が、頭を」
ハンナは10年近くコルネリアに仕えている侍女だ。そばかすの浮いた顔に表情がなく、何を言われても眉ひとつ動かさない。その眉が、ほんのわずかに上がった。
「勘違いしないで。反省なんてしていないわ。嘘がつけないと、社交ができないの。不便なのよ。修道院の粗末な寝台も嫌。それだけ」
「さようでございますか」
「ええ。謝るのは、ただの手続き」
ハンナは何も言わず、髪を梳かし終えると一礼して出ていった。
翌朝、コルネリアが目を覚ますと、旅行用の鞄が部屋の隅に3つ並んでいた。中身は詰め終わっている。外套も、手袋も、雨の日の靴まで。
「頼んでいないわよ」
「さようでございますね」
ハンナはそれだけ言って、朝の茶を差し出した。いつもどおり、薄い。
「薄いわ」
「存じております」
最初の行き先は、もう決まっている。名簿のいちばん新しい名。自分の誕生日に、蛇のような針目のハンカチを贈ってくれた娘。
リンデル子爵家の門の前で、コルネリアは馬車を降りた。
謝罪の言葉は、ゆうべ一晩かけて考えてある。頭の中で何度も繰り返し、一言一句、暗記した。思ったことしか口にできないのなら、思うことを謝罪だけで埋めておけばいい。
「行くわよ、ハンナ」
「はい、お嬢様」
呼び鈴の紐に手をかけながら、コルネリアは小さく呟いた。
「でも、あのハンカチは本当に下手だったのよね」
ハンナが、黙って空を見上げた。
◇
客間に通されたエマ・リンデルは、コルネリアの顔を見るなり肩をこわばらせた。
無理もない。誕生日の夜会で、公爵令嬢に人前でハンカチを笑われた娘だ。その公爵令嬢が、今度は家まで押しかけてきたのである。
コルネリアは立ち上がり、ゆうべ暗記した言葉を頭の中に並べた。
謝罪。謝罪だけを思う。それ以外は思わない。
「エマ様。先日は、大変失礼なことを申しました。心より、お詫び申し上げますわ」
言えた。
エマが目を丸くする。ハンナも、わずかに目を見開いた。
コルネリアは胸を撫で下ろした。思うことを選べば、口から出るものも選べる。なんだ、簡単ではないか。
その安堵が、隙になった。
「ただ、下手だったのは本当よ。あれを褒めたら嘘になるもの。謝っているのは言い方のほうで、中身のほうではないわ」
客間の空気が、音を立てて凍った。
「……針目の幅が揃っていないの。だから蛇に見えるのよ。あと、糸の色が3色とも喧嘩しているわ」
止まらない。一度ゆるんだ口は、思ったことを順番に全部吐き出していく。
エマの顔が、赤から白へ、白からまた赤へ変わった。
ハンナが、小さく咳払いをする。
その夜、宿で巻物を広げたコルネリアは、エマ・リンデルの名がくっきり残っているのを確かめて、枕に顔を埋めた。
「謝ったのに」
「謝罪のあとに、ご説明が3つほど」
「説明は余計だったわね」
「はい」
「でも、全部本当なのよ」
「存じております」
◇
翌日、意外にも、エマのほうからコルネリアの宿に手紙が届いた。
文面は短い。
――謝罪は受け取れません。ですが、どうしてもとおっしゃるなら、ひとつお願いがございます。来週の舞踏会に、あのハンカチを胸に挿してお出になってください。
コルネリアは手紙を3度読み返し、3度とも同じことを口にした。
「嫌よ」
「お嬢様」
「嫌に決まっているでしょう。あの蛇を胸に挿して、王都の舞踏会に出るのよ。皆が見るわ。笑うわ」
「はい。それが、エマ様のお望みかと」
コルネリアは手紙を握りつぶしかけて、やめた。巻物の上には、まだエマの名がある。修道院の寝台は、たぶん硬い。
舞踏会の夜、コルネリア・ヴェルトハイムは、真紅のドレスの胸元に蛇を一匹挿して現れた。
正確には、蛇のような針目の刺繍が入ったハンカチを。
広間の視線が集まる。扇の陰で、ひそひそ声が交わされる。普段のコルネリアなら、涼しい顔で受け流すところだ。
だが今夜の彼女は、呪われている。
「恥ずかしいわ」
声に出ていた。近くにいた男爵夫人が振り返る。
「なんて恥ずかしいの。これ、蛇よ。どう見ても蛇。誰が見ても蛇。こんなものを胸に挿している公爵令嬢なんて、王国始まって以来じゃないかしら」
男爵夫人が、扇で口元を隠して肩を震わせた。
「笑ったわね。笑うわよね。私も、あなたがこれを挿していたら笑うもの」
それから一晩じゅう、コルネリアは嘆き続けた。踊りながら嘆き、飲みながら嘆き、挨拶を受けながら嘆いた。嘆くたびに周りの誰かが噴き出し、噴き出した者がまた別の者に耳打ちする。
壁際で、エマ・リンデルがそれを見ていた。
最初は、硬い顔をしていた。それが少しずつほどけていき、半ばを過ぎたあたりで、とうとう口元を押さえて笑い出す。
真夜中近く、コルネリアがよろよろと壁際に戻ってくると、エマは目尻の涙を拭きながら言った。
「コルネリア様。もう、結構です」
「結構って、何が」
「わたくし、あの夜、本当に悔しくて。3か月かけて縫ったものを、皆様の前で笑われて」
「下手だったもの」
「ええ。でも今夜は、皆様、ハンカチではなく、コルネリア様を笑っておいでですわ」
エマは、ひどく晴れやかな顔で一礼した。
翌朝。宿で巻物を開くと、エマ・リンデルの名が、きれいに消えていた。
コルネリアはしばらく巻物を見つめていた。
「謝っても消えなかったのに」
「はい」
「仕返しをされたら、消えたわ」
「そのようでございますね」
コルネリアは巻物を丸め、窓の外を眺めた。考えたことが、そのまま口に出る。
「謝るより、殴られに行くほうが早いわね」
ハンナは何も言わなかった。ただ、次の行き先の書かれた紙を、そっと卓に置いた。
◇
法則が本当かどうか、確かめる必要がある。
2人目は伯爵夫人ベアトリス。誕生日の夜会で、3年前の流行の首飾りをしていた人だ。あのとき口にしたのは褒め言葉だけだが、名簿に名があるということは、それ以前にどこかで包み損ねた本音があったのだろう。
コルネリアは伯爵家を訪ね、今度は謝罪の言葉を用意しなかった。
「伯爵夫人。わたくしに、仕返しをなさりたいことはございます?」
伯爵夫人は扇を閉じ、しばらくコルネリアを眺めてから、にっこり笑った。
「ございますとも。昨年の茶会で、わたくしの帽子を『鳥の巣』とおっしゃったでしょう」
「言ったわね。鳥の巣だったもの」
「では、その帽子をかぶって、わたくしと一緒に大通りを歩いてくださいな。昼日中に」
その日の午後、王都の大通りを、鳥の巣をかぶった公爵令嬢が歩いた。
「重いわ。首が折れそう。それに、これ、本当に鳥が住めそうよ。住んでいないわよね? いま何か動かなかった?」
伯爵夫人は終始、上機嫌だった。
翌朝、その名も巻物から消えている。
◇
それから数か月、コルネリアは王都とその近郊を回り続けた。
仕返しの中身はさまざまだ。
舞踏会で踏んだ足を、同じ数だけ踏み返させろという子爵。以前けなした詩を、広場で朗読させる伯爵子息。古いドレスを、昼の茶会に着ていかせる令嬢たち。
どれも、コルネリアには屈辱だった。そして屈辱を受けるたび、呪われた口は嘆き、ぼやき、正直な感想を垂れ流す。その姿がまた、仕返しをする側をこの上なく満足させる。
呪いは、仕返しの味を倍にした。
巻物の名は、ひとつ、またひとつと消えていく。
ところが、どうしても消えない名がひとつあった。
マルタ・ベック。
コルネリアは、その名を見て眉を寄せた。覚えている。2年前まで公爵家にいた、洗濯係の娘だ。
「お嬢様が、母君の前で『この子の手は荒れていて、触られたくない』とおっしゃった娘でございます」
ハンナが、淡々と付け加える。
「翌日、暇を出されました」
「覚えているわ。本当に荒れていたのよ」
「洗濯係でございましたので」
コルネリアは、黙った。黙ったが、呪いはそれを許さない。
「……そうね。洗濯係の手が荒れているのは、当たり前だわ」
◇
マルタ・ベックは、王都の下町にある洗濯場で働いていた。
湯気の立つ桶の前に、袖をまくった女たちが並んでいる。その中に、見覚えのある背中があった。
「マルタ」
振り返った女の顔に、驚きはなかった。いつか来ると思っていた、という顔だった。
「公爵家のお嬢様が、こんなところに何のご用です」
「仕返しをさせてあげに来たの」
洗濯場の女たちの手が、一斉に止まる。
「あなた、私の名簿に載っているのよ。仕返しをすれば、名が消える。何でもいいわ。泥をかけるでも、桶の水を頭からかぶせるでも。この場でどうぞ」
マルタは、しばらくコルネリアを見ていた。
それから、また桶に向き直った。
「結構です」
「遠慮しなくていいのよ」
「遠慮じゃありません」
マルタは濡れた布を絞りながら、背中で言った。
「お嬢様に泥をかけても、わたしの2年は戻りません。紹介状もなしに放り出されて、どこのお屋敷にも雇ってもらえなくて、ここに流れてきた2年です。お嬢様が泥まみれになって、それで、わたしの手が治りますか」
コルネリアは答えられなかった。
答えは、頭の中にある。治らないわ、と。それが口から出る前に、マルタが続けた。
「お帰りください。仕返しなんか、したくもない」
その夜、宿の巻物で、マルタ・ベックの名はかえって濃くなっていた。
◇
「安い仕返しでは、駄目なのね」
コルネリアは巻物を前に、腕を組んで考え込んだ。考えたことは全部口から出るので、ハンナには筒抜けだ。
「泥では足りない。2年分の何かが要る。2年分の給金。紹介状。それから、私がいちばん嫌なこと」
「いちばん嫌なこととは」
「人に命令されることよ」
コルネリアは、あっさり言った。
「公爵令嬢に生まれて17年、私は人に命令されたことがないの。お父様にだって、言いつけを聞いたふりをしてきただけ。だから、それが一番高くつくわ」
ハンナが、櫛を持つ手を止めた。
「お嬢様。それは、謝罪でございますか」
「違うわ。値段の話よ」
コルネリアは巻物を丸めた。
「2年分の損には、2年分の屈辱で払う。修道院に送られるよりは、安いもの」
翌日、コルネリアは再び洗濯場を訪れた。手には、公爵家の印が押された書状が一通。
「マルタ・ベック。あなたを公爵家に戻すわ。給金は以前の倍。紹介状も書く。それから」
書状を、湯気の立つ桶の縁に置く。
「ひと月のあいだ、あなたは私付きの侍女頭よ。その間、私はあなたの言うことを、全部聞く」
洗濯場が、しんと静まった。
マルタは書状を手に取り、2度読んだ。それから、まじまじとコルネリアを見た。
「……本気ですか」
「本気よ。私、嘘がつけないもの」
「なぜです。謝りに来たんですか」
「謝ってはいないわ。悪いとも、あまり思っていない。あなたの手は本当に荒れていたし、触られたくなかったのも本当」
洗濯女たちが、息をのむ。
「でも、それであなたの2年が消えたのも本当でしょう。だから払うの。損得の話よ」
マルタは、長いこと黙っていた。
やがて、濡れた手を前掛けで拭き、書状を懐にしまう。
「お受けします」
そして、初めて口の端を上げた。
「では、侍女頭として、最初のご命令を」
「何かしら」
「お茶を淹れてください。わたしに」
◇
コルネリア・ヴェルトハイムの淹れた茶は、ひどかった。
渋く、熱く、葉が浮いている。生まれてこのかた、自分で湯を沸かしたことすらなかったのだから当然だ。
マルタはそれを一口飲み、顔をしかめた。
「まずいですね」
「知っているわよ」
「もう一杯」
それからひと月、公爵家の使用人たちは、奇妙な光景を見続けることになる。
公爵令嬢が、洗濯物を干している。公爵令嬢が、廊下を拭いている。公爵令嬢が、元洗濯係の侍女頭に叱られている。
「お嬢様、その絞り方では布が傷みます」
「あなたの言い方のほうが、私の心を傷めているわ」
「では、もう一枚」
コルネリアは文句を言い続けた。呪いのせいで、思った文句はひとつ残らず口から出る。冷たい、重い、手が痛い、腰が痛い、なぜ洗濯物というのは干しても干しても減らないの。
マルタは、そのひとつひとつを黙って聞くだけ。
ひと月が経つころ、コルネリアの手は、すっかり荒れていた。
最後の日、マルタはその手を取ってしばらく眺め、それから小さく笑った。
「荒れましたね」
「おかげさまで」
「触られたくない手です」
「……そうね。あなたに言われると、腹も立たないわ」
その夜、巻物からマルタ・ベックの名が消えた。
マルタは侍女頭の役を降りたあとも、洗濯場には戻らなかった。倍の給金で公爵家に残り、今では洗濯係をまとめている。
◇
ひと月を一人に使ったのは、痛手だった。
気づけば、次の誕生日まで残り10日。巻物には、まだ名がずらりと並んでいる。
「一人ずつでは、間に合わないわね」
コルネリアは巻物を広げた卓の前で、頬杖をついた。
ハンナが、黙って茶を置く。今日も薄い。
「薄いわ」
「存じております」
コルネリアは茶をすすり、それから、ふと顔を上げた。
「まとめてやればいいのよ」
「何をでございますか」
「仕返し。一人ずつ訪ねるから時間がかかるの。向こうから来てもらえばいいわ」
3日後、王都じゅうの貴族の屋敷に、公爵家の紋の入った招待状が届いた。
文面は、こうである。
――来たる7日の夕刻、ヴェルトハイム公爵家にて、ささやかな会を催します。わたくしに仕返しをなさりたい方、どうぞお越しくださいませ。手ぶらで結構です。 コルネリア・ヴェルトハイム
父の公爵は招待状の写しを読み、静かに頭に手をやった。かつらは、今日もずれている。
◇
当日の夕刻、公爵家の大広間は、かつてないほど混み合った。
名簿に載っている者は、ほぼ全員。載っていない者まで、見物に来た。
コルネリアは広間の中央に、椅子をひとつだけ置かせて座っていた。両脇に、ハンナとマルタ。
最初に進み出たのは、禿げ頭の侯爵だった。
「わしの頭を、昔、ゆで卵と言ったな」
「言ったわね。ゆで卵だもの」
侯爵は懐から何かを取り出し、コルネリアの頭にかぶせた。艶のある栗色の、立派なかつらだった。
「今夜はそれをかぶっておれ」
「暑いわ。蒸れるわ。それに、これ、お父様のと同じ店のものよね」
広間の後ろで、公爵が咳き込んだ。
次は、昔コルネリアに詩をけなされた青年。彼は自作の詩を100行ほど読み上げ、コルネリアはそれを最後まで聞かされた。
「長いわ。半分は要らないわ。でも、30行目のところは悪くなかった」
青年は真っ赤になって引き下がり、巻物から名が消えた。
それからは、もう止まらない。
ドレスの色をけなされた令嬢は、コルネリアのドレスに自分の好きな色のリボンを山ほど縫いつけた。踊りの下手さを笑われた子息は、コルネリアと3曲続けて踊り、その間ずっと足を踏み続けた。夫の髭を笑われた夫人の手には、つけ髭。
コルネリアは、そのすべてを受けた。
受けながら、全部に本音で返した。痛い。重い。似合わない。でも、そのリボンの色だけは悪くない。あなた、わざと踏んでいるでしょう。わざとね。上手いわ。
最初はおそるおそるだった客たちが、次第に笑い出す。仕返しを終えた者が、次の者の仕返しを囃し立てる。誰かが酒を回しはじめ、楽団が勝手に陽気な曲を弾きはじめた。
修羅場になるはずの会は、夜が更けるころには、ただの宴会になっていた。
ハンナが卓の上の巻物を見るたび、名は次々に消えていく。
最後に、人垣が割れた。
王太子ユリウスが、広間に入ってきたのだ。
宴が、一瞬で静まる。
ユリウスはまっすぐ椅子の前まで来ると、リボンだらけでかつらをかぶったコルネリアを見下ろした。
「コルネリア。私も、仕返しに来た」
「どうぞ、殿下」
「お前は8年間、私の婚約者だった。その間、私の声を鼻にかかっていると言い、私の選んだ服を田舎の役者のようだと言い、私の考えた政策を、子どもの作文と言った」
「全部言ったわね。全部、本当だもの」
ユリウスは、深く息を吸った。
「よって、ここに婚約を破棄する。保留ではない。破棄だ」
広間じゅうが、コルネリアの答えを待った。
コルネリアは、少しだけ考えた。考えたことは、そのまま口に出る。
「ありがとうございます、殿下。前から、見る目のない方だと思っておりました。今夜、自分で見る目のなさを認めてくださって、とても助かりますわ」
ユリウスの顔が、ひきつった。
それから、なぜか笑い出した。
「……8年で初めて、お前に礼を言われた」
「初めて、礼を言いたくなることをなさったもの」
王太子は肩を揺らしたまま背を向け、広間を出ていった。
ハンナが、巻物を見る。
ユリウスの名は、消えていた。
宴は夜明けまで続く。最後の客が帰ったとき、コルネリアは椅子の上で、かつらをかぶったまま眠りかけていた。
ハンナがそっと巻物を広げる。
ずらりと並んでいた名は、もうひとつも残っていない。
残っているのは、最後の一行だけ。
ずっと滲んで読めなかったその一行が、夜明けの光の中で、少しずつ形を取りはじめていた。
◇
誕生日の前夜、オズヴァルトが公爵家を訪ねてきた。
コルネリアの部屋の卓に、巻物が広げてある。126人分の名が消えた白い紙の、いちばん下に、一行だけ文字が残っていた。
もう、滲んではいない。
――コルネリア・ヴェルトハイム。
コルネリアは、それを長いこと見つめていた。
「わたくしの名ね」
「さようでございます」
「わたくしが、わたくしを恨んでいるの」
「お嬢様ご自身の怨みでございます」
オズヴァルトは、杖に両手を重ねて言った。
「知っていて、やめなかったご自分への」
コルネリアは、何も言わなかった。
言わなかったのではない。頭の中にあるものが、多すぎた。
17年分の、包み損ねた本音。笑われたエマの顔。鳥の巣の帽子。洗濯場の湯気。荒れた手。それから、言った瞬間に分かっていた言葉たち。これを言えば、この人は傷つく。分かっていて、言った。言ったあとで、自分の口の悪さに一番うんざりしていたのは、いつも自分だった。
「最初から、読めなかったのは」
「ご自分の名は、ご自分では読みたくないものですからな」
ハンナが、戸口で控えている。
「では、これも仕返しをすれば消えるのかしら」
「いいえ。ご自分への怨みは、仕返しでは消えませぬ。仕返しをされる側も、ご自分ですので。満足する者がおりません」
「では、どうすればいいの」
オズヴァルトは、静かに答えた。
「お許しになることです。ご自分を」
◇
老魔術師が帰ったあと、部屋にはコルネリアとハンナだけが残った。
窓の外は暗い。夜半には、王都の鐘楼が日付の変わりを告げる。誕生日の鐘だ。
「許すと、おっしゃってみてはいかがでしょう」
ハンナが言った。珍しく、自分から。
「一言でございます。ご自分を許す、と」
コルネリアは巻物の前に座り直し、背筋を伸ばした。
頭の中で、言葉を選ぶ。許す。わたくしは、わたくしを許す。それだけを思う。稽古ならしてきた。謝罪の言葉だって、一度は言えたのだ。
口を開いた。
「許さないわ」
部屋が、静まり返る。
コルネリアは、もう一度試した。
「許さない。……許せるわけがないでしょう。知っていて、やめなかったのよ。やめようと思えば、いつでもやめられたのに」
声が、少しだけ揺れた。
「ハンナ。私、言えないの。許してもいないのに、許すとは言えない。嘘になるもの」
それが、呪いだった。
127人分の怨みが作った呪いは、嘘を封じた。そして、その呪いを解く最後の鍵は、嘘でしか開かない。
自分を許していない者が、自分を許すと言うこと。
コルネリアは、笑った。少しも楽しくない笑いだった。
「よくできているわ。誰が作ったのか知らないけど、私の性格を、私よりよく知っているわね」
「127人と、お嬢様で作ったものでございます」
「そうだったわね」
コルネリアは巻物を丸め、膝の上に置いた。
遠くで、鐘が鳴りはじめる。
ひとつ。ふたつ。
ハンナが、何か言いかけて口をつぐんだ。
コルネリアは、鐘の音を数えなかった。ただ、窓の外の暗がりを見ている。
最後の鐘が鳴り終わったとき、膝の上の巻物が、かすかに温かくなった気がした。
広げてみると、一行だけ残っていた名が、くっきりと濃くなっている。
もう滲むことも、消えることもないのだろう。
「根を張ったわね」
「はい」
「一生、このままね」
「はい」
コルネリアは、深く息を吐いた。
「お父様に、修道院の件を断りに行かないと」
「お断りになるのですか」
「当たり前でしょう。私、北の寒さは大嫌いなの。それに、126人の怨みを消した娘を修道院に送ったら、お父様のほうが王都で笑われるわ。かつらと一緒に」
ハンナの口元が、ほんのわずかに動いた気がした。
◇
翌日、公爵は娘の言い分を最後まで聞き、修道院の話を取り下げた。
娘の言い分が正しかったからではない。娘が、自分の書斎で父のかつらについて正直な感想を3つ述べ、それ以上聞きたくなかったからである。
その夜、ハンナが寝支度を整えに来た。
いつもの手つきで髪を梳かす。いつものように無表情で。
鏡の中の自分を見ながら、コルネリアは、ずっと思っていたことを口にした。思っていた以上、呪いが勝手に口にさせた、と言ったほうが正しい。
「ハンナ。あなたの名は、あの名簿に一度も載らなかったわね」
「さようでございます」
「10年よ。10年、毎朝、薄い茶に文句を言われて、髪の梳かし方に文句を言われて。あなたこそ、一番に載っていてよかったはずよ」
櫛の動きが、ほんの少しだけ遅くなる。
「なぜあなたは、一度も私を恨まなかったの」
ハンナは、しばらく答えなかった。
やがて、いつもの平らな声で言った。
「お嬢様が、ご自分を恨む分で、足りておりましたので」
コルネリアは、鏡越しに侍女を見た。
そばかすの浮いた顔は、相変わらず何も語っていない。けれど、10年近くそばにいて、その顔の読み方を、彼女はもう知っていた。
何か言い返そうとする。
けれど、頭の中にあるものは、ひとつだけだった。
そして、それは嘘ではなかったので、そのまま口から出た。
「……ありがとう」
ハンナの手が止まった。
10年で、初めて聞く言葉だったからだろう。
「お茶を、お持ちいたしましょうか」
「ええ」
ハンナは一礼して出ていき、しばらくして茶を運んできた。
コルネリアは一口飲んで、眉を上げた。
「濃いわ」
「はい」
「……悪くないわね」
呪いは、一生解けない。
だからそれも、本当のことだった。
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