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ヴェロニカが前世を思い出したのは6歳のときだった。自宅の庭で転び、頭をぶつけた瞬間。
「ヴェロニカ!?」
「大丈夫か!? しっかりしろ!」
両親の叫び声が聞こえるが、だんだんと遠ざかっていく。深い水底に沈んだような気分だった。
「うっ……!」
突然、ズキンと頭痛がした。
次の瞬間、ある映像が頭に流れ込んできた。
気合の入った掛け声。
ツンと鼻をつく汗の匂い。
そして、道着を着て構える女性の姿。
見たこともないはずなのに、なぜか分かった。
あれは……私だ。前世の私。
幼い頃から空手に打ち込み、大学時代には、全国制覇を果たした。
その勢いのまま、ずっと好きだった幼馴染に告白したが、返ってきた言葉は、「女の子らしい子が好きだ」と言うものだった。
そのときのショックは、今でも胸の奥に残っている。なぜか、それ以降の記憶は途切れていた。
そして、今世、彼女はヴェロニカ•ローレンとして生まれ変わった。
か弱い女性を演じるのは、前世で得た痛みの教訓であり、彼女が選んだ強さの形だった。
ヴェロニカが生まれた国では、一部の人間に魔法の才能が宿る。
王族や貴族の血を引く者には、6歳になる頃には、ほとんど例外なくその力が備わっていた。
しかし、ヴェロニカにはその力が宿らなかった。
「ローレン家の恥」
「魔力なしの落ちこぼれ」
魔法が使えないと分かってから、両親の言葉は氷のように冷たくなり、使用人たちの視線にはあからさまな嘲りが混じるようになった。
家の中に彼女の居場所はどこにもなかった。
そんな彼女を救ってくれたのが、婚約者のカイルだ。
初めてカイルに会ったのは、7歳のとき。
「こんにちは、ヴェロニカ嬢」
その声は、春の陽だまりのように柔らかかった。魔法が使えない彼女に、カイルは何の偏見も持たず、優しく微笑んだ。
その笑顔は、彼女の世界に初めて差し込んだ光だった。
「君が僕の婚約者でよかったよ。これからもずっと一緒にいようね」
誕生日には、そう言って髪飾りを贈ってくれた。濃い青色のリボンがついた髪飾りだ。
魔法が使えないと分かってから、誰かに優しくされたのも、誰かにプレゼントをもらったのも、ヴェロニカにとって初めてだった。
その夜、彼女は髪飾りを胸に抱きながら、心の奥深くで誓った。
カイルの横に立っても恥ずかしくない人間になると。
それからのヴェロニカは、一般的な教養やマナー、見た目、魔法までも、カイルに愛されるために、陰で歯を食いしばりながら必死に努力を重ねた。
しかし、魔法だけは上手くいかなかった。
「どうして……!」
ローレン家の屋敷の裏手に広がる森で、ヴェロニカは毎日、魔法の訓練に打ち込んでいた。
しかし、努力しても報われない現実に、胸の奥がじわりと痛んだ。
前世では努力した分、結果が出たが、今世では努力しても何も変わらない、何も報われない。
「なんで……私は貴族なのに……」
生まれながらに魔法を使えるはずなのに、どうして私だけが……。
ヴェロニカは唇を噛み締めた。
頬から涙が一粒こぼれ落ちる。気づけば涙が溢れ、嗚咽が漏れ出していた。
「久しぶりに空手でもしようかしら……」
そんなある日、ヴェロニカは気分転換に空手をしようと思った。
「セイッ!」
腹の底から声を発し、いつもの修行場所で鋭い突きを放った。
すると、不思議なことに気持ちが晴れやかになった。心の奥底に溜まっていた重たいものがスッと消えた感じがする。
「あはは……生まれ変わっても、私は空手が好きなのね」
ヴェロニカは自嘲するように笑った。
型を一つ、二つと繰り出すうちに脳裏にふと浮かんだ。
この動きに詠唱を重ねたら魔法が使えないかしら?
「いや、そんなわけないじゃない……」
そう思いながらも、胸の奥がざわついた。
もしかしたら今までの努力が報われるかもしれない。
「まあ、試すのは自由よね……」
空手をしながら詠唱するなど馬鹿げている。
しかし、ヴェロニカは試さずにはいられなかった。
「ふう……」
ヴェロニカは目を閉じ、深呼吸をした。
ゆっくりと空手の型を取る。
そして、カッと目を見開き、叫んだ。
「ストーンクラッシュ!」
次の瞬間、手の平から土の塊が弾けるように飛び出した。ドンッという鈍い音とともに木の幹に激突して砕け散った。
ヴェロニカは目を見開いた。
嘘……今、魔法が使えた?
「……本当に? 私が?」
手の平がジンジンと熱い。心臓はドクドクと音を立てている。
信じられず、もう一度構えを取る。
手の平に意識を集中し、深く息を吸い込んだ。
「ストーンクラッシュ!」
再び詠唱すると、先程と同じように魔法が発動し、別の木の幹を撃ち抜くことができた。
「やった……」
ヴェロニカはその場に膝をついた。涙腺が壊れたように涙が止まらない。
「すごいね、ヴェロニカ!」
カイルの喜ぶ顔が浮かび、気持ちが一気に晴れ渡ったヴェロニカだったが、あることに気づき、頭を抱えた。
「……全然、かわいくないじゃない!」
空手の型を取りながら詠唱するなんて、淑女としてありえない。
「こんな勇ましい姿、見られたらまた振られるかもしれないわ……」
前世の辛い経験が脳裏に蘇り、ヴェロニカは青ざめた。
こんな姿を見せるぐらいならいっそ消えてしまいたい……。
「よし、魔法のことは黙っておきましょう!」
そう誓ったヴェロニカだったが、王子であるルシアンに秘密がバレてしまった。
きっかけは山奥で修行していたときのこと。ヴェロニカは魔法が日々上達していき、ついには無詠唱で上級魔法まで使えるようになっていた。
そして彼女は、誰もいない山奥に通い、自分の身長の倍もある大岩を、魔法で真っ二つに砕くことに快感を覚えるようになっていた。
その日課は、学園に入学してからも続けていたのだが、
「今日も見事な魔法だね」
いつものように石を切り裂いた瞬間、背後から声がした。
驚いて振り返ると、そこには第二王子•ルシアンが爽やかな笑みを浮かべて立っていた。
なぜこんな場所に王子が……!?
いや、それよりも魔法を使っているところを見られた……。
ヴェロニカはブワッと全身から汗が噴き出すのを感じた。
「気分でも悪いのかい? 顔が真っ青だよ」
ルシアンは心配そうにヴェロニカを見つめている。一方のヴェロニカは恐怖から体の震えが止まらなかった。
「あ、あの……このことは秘密にしてもらえませんか?」
ヴェロニカは声を震わせながら懇願した。
もし、このことがカイルにバレたらーー。
そう思うと、ヴェロニカは怖くてたまらなかった。
「安心して。今日見たことは誰にも話さないよ」
ルシアンはニコリと笑いかけた。
「本当ですか!?」
ヴェロニカは目の前のルシアンが天使に見えた。後光が差しているように見え、思わず拝んだ瞬間、
「ただし、条件がある」
「条件?」
思いがけないルシアンの言葉にヴェロニカは目を見開いた。
ルシアンは美しい笑みでこう告げた。
「僕の犬になってよ」
その瞬間、ヴェロニカは悟った。
目の前の王子様は、天使の皮を被った悪魔だったのだと。




