深海でほどく、クリスマスの結び目
深夜、ひっそり現れる小さな食堂――水槽食堂。
壁一面の水槽には、あなたの心の色を映す魚たちが泳いでいます。
トラ猫のマスターがそっと差し出す一杯と、静かな光が、今日のあなたに寄り添います。
どうぞ、肩の力を抜いて、一皿だけ、心を休めてください。
聖なる夜の街は、光の暴力で溢れていました。
幸せそうな恋人たち、家族連れの笑い声。それらすべてが、私という存在の輪郭をどんどん透明にしていくようで、私は逃げるように路地裏の闇へ潜り込みました。
30代後半、独身。
今日も会社で、急な欠勤の穴埋めをしてきました。
「子供が熱を出して……ごめんね、お願い!」
同僚の申し訳なさそうな顔。私はいつものように「大丈夫、行ってあげて」と即答しました。本心です。子育てが大変なのは分かっているし、応援したい。
けれど、誰もいなくなったオフィスで一人、キーボードを叩いていると、ふと黒い感情が湧き上がってくるのです。
(どうして私ばかり? 暇だと思われているの? 私だって、疲れているのに)
カランコロン。
吸い込まれるように入ったその店は、深い海の底でした。
壁一面の青い水。コポポ、コポポと響く気泡の音。
エプロンをした大きなトラ猫のマスターが、無言でカウンターの席を引いてくれます。
私は重いコートを脱ぎ、泥のように座り込みました。
水槽の底に、ひとつの大きな「二枚貝」が沈んでいるのが見えました。
その貝は、頑なに口を閉ざし、砂に潜ろうとしています。
『あれは、君の抱えている真珠だね』
マスターの声が、さざ波のように頭に響きます。
『あまりに大きく育ちすぎて、貝殻が悲鳴を上げている』
私は、冷えた両手を頬に当てました。
……そうです。私は、何もかもを溜め込みすぎました。
田舎の両親は「あなたが幸せなら、結婚してもしなくてもいいのよ」と笑ってくれます。
でも、その優しさが逆に、刃物のように胸に刺さるのです。孫の顔を見せてあげられない罪悪感。期待に応えられない申し訳なさ。
友人と会っても、話すのは子供や夫のことばかり。話が合わないのは当然です。
かといって、「独身限定」の新しい友人を作る気にもなれません。それはなんだか、傷を舐め合って安心しようとしているようで、惨めに思えてしまうから。
男性とお付き合いしたことすらないという事実も、私の口をさらに固く閉ざさせます。
真面目に生きてきたはずなのに。仕事に誇りを持っているはずなのに。
ふとした瞬間に、「私は何か欠けている欠陥品なのではないか」という不安が、首を絞めるのです。
コト、と置かれたのは、湯気を立てる白いスープでした。
『雪解けのホワイト・ポタージュ』。
『真面目であることは、才能だよ。誰かの重荷を背負える強さがある』
マスターは、長い尻尾で水槽をなぞりました。
『でもね、ずっと閉じていると、綺麗な真珠も呼吸ができず、濁ってしまう。……誰かとわかり合えなくてもいい。ただ、時々殻を開けて、新しい水を吸い込むことは、悪いことじゃないよ』
ポタージュを一口飲み込みました。
野菜の優しい甘みが、強張っていた胃の腑をゆっくりと解いていきます。
水槽の中で、二枚貝が、ほんの数ミリだけ口を開けました。
そこから、溜め込んでいた重たい空気が、キラキラした泡となって昇っていきます。
私はほうっと息を吐き出しました。
一人でも生きていける。それは強がりじゃなくて、私の覚悟。
でも、意固地になって殻に閉じこもる必要はないのかもしれない。
店を出る頃には、突き刺さるようだった寒さが、少しだけ和らいで感じられました。
第二夜:回遊魚の迷い道
日付が変わった頃、一人の男が、水底へ迷い込んできました。
30代後半。着崩したロングコートには、華やかなパーティーの残り香と、微かな焦燥感が染み付いています。
さっきまで、昔の遊び仲間と飲んでいました。
かつては朝まで馬鹿騒ぎをした連中も、今や「家のローン」や「子供の進学」の話ばかり。
彼らは「卒業」していきました。家庭という港を見つけ、碇を下ろしたのです。
俺だけが、いつまでも終わらない祝祭の海を漂っているようで、居心地の悪さに耐えきれず、抜け出してきました。
カランコロン。
静寂の店内で、トラ猫のマスターは琥珀色の瞳を細めて迎えました。
男は、水槽を見つめます。
そこには、銀色の魚の群れが泳いでいました。
猛スピードで、円を描くように。止まることを許されない回遊魚たち。
『華やかに見えるけれど、随分と疲れた泳ぎ方だ』
マスターが差し出したのは、ロックグラスに入った『琥珀糖のウイスキー』
氷の代わりに、宝石のような琥珀糖が沈んでいます。
「……止まり方が、わからないんです」
男はグラスを傾けました。
若い頃はモテました。今でも「雰囲気イケメン」として通っています。でも、それは中身がないことの裏返しです。本当の自分は大した容姿でもないし、誇れるものもない。
仕事だってそうです。人当たりが良いから、どこに行ってもそれなりにこなせる。でも、すぐに飽きてしまう。
「ここじゃない、もっと他に何かあるはずだ」
そうやって職を転々として、気づけば何も積み上がっていない自分に気づくのが怖いのです。
港に停泊してしまったら、今までの自由で楽しかった俺の人生が、否定される気がして。
『卒業は、海から上がるわけじゃない。別の海流に乗るだけだよ』
マスターが肉球でカウンターをトントンと叩くと、水槽の魚たちがふっとスピードを緩めました。
銀色の魚たちは、無理にヒレを動かすのをやめ、水流に身を任せてゆらりと漂い始めました。
『器用に泳げるのは、君の武器だ。……でも、たまには流れに身を任せて、誰かの隣で休むのも悪くない』
男は琥珀糖を口に含みました。
シャリッとした食感のあと、ウイスキーの苦味と混ざり合い、深い甘さが広がります。
流れに身を任せること。それは「敗北」ではなく、「変化」を受け入れること。
過去を否定しなくていい。楽しかったあの日々があったから、今の俺がいる。
男が店を出る背中は、入ってきた時よりも少しだけ、肩の力が抜けて見えました。
翌朝:猫のマグカップ
クリスマスの魔法が解けた、静かな朝。
街は祭りのあとの安らぎに包まれていました。
駅前の雑貨屋の片隅。
彼女は、棚の奥にひっそりと置かれたマグカップに目を留めました。
そこに描かれているのは、エプロンをつけたトラ猫のイラスト。
昨夜、あの深海のような店で出会ったマスターに、よく似ていました。
「あ……」
そっと手を伸ばした瞬間、横からも、同じカップへ伸びる手がありました。
指先と指先が、音もなく触れ合います。
顔を上げると、そこにいたのは、ロングコートを着た背の高い男性でした。
二人の視線が、静かに絡み合います。
男性からは、どこか危うげな、でも人懐っこい空気が。
女性からは、凛とした、でもどこか寂しげな空気が。
驚いたことに、二人からは同じ香りがしました。
昨夜のお店で焚かれていた、ヒノキと潮騒の混ざったような、深く、安らぐ香り。
言葉はありませんでした。
けれど、二人は直感したのです。
この人もまた、昨夜、あの青い水底で、重たい荷物を少しだけ下ろしてきた人なのだと。
男性が、ふっと柔らかく微笑み、手を引きました。
「お先にどうぞ」と譲るように。その仕草は自然で、嫌味がありません。
女性もまた、貝殻を少し開けるように、自然と微笑み返しました。
いつもなら「いえ、結構です」と断っていたかもしれません。でも、今日は素直になれそうな気がしたのです。
一人は気楽で、自由です。
それでいいと、二人は知っています。
けれど、もしも同じ海流で、同じ傷みを抱えながら泳げる誰かがいるのなら。
たまに隣で、波の音を聞き合うのも悪くないかもしれない。
「……猫、お好きなんですか?」
男性の静かな問いかけに、女性は頷きました。
「ええ。昨夜、素敵な猫に会ったばかりなんです」
それは、激しい恋の始まりというには静かすぎる、けれど確かな波紋でした。
冬の朝の透明な空気の中で、傷を抱えた二人の大人が、少しだけ扉を開け合った瞬間。
雑貨屋の窓の外では、一匹のトラ猫が、満足そうにあくびをして通り過ぎていきました。
ゆらゆら、コポポ。
世界は今日も、優しく流れています。




